颶風の愚者、螺鈿の裸者

うぉーけん

序章

第00話:サビ猫の問い

一九四四年

大祖国戦争ヴェリーカヤ・アチェチェストベンナヤ・ワイナにて



 猫の鼻キスが、親愛の証だと知ったのは最近のことだ。なにせ戦場では、かわいい猫はお菓子や煙草よりも貴重品だったからだ。

 ウォトカでのばしたジャムのように甘い声を唇からこぼしながら、サビ猫を思わせる政治委員は近すぎる距離で口を開いた。


「ねえシベリアのド田舎からやって来た狙撃手さん、教えなよ。寡黙なお前がもっとも心躍ったのは誰を撃ったときなんだ?」


――フィンランドとの冬戦争ジームニャヤ・ワイナであの英雄、白い死神を狙撃して顔面に回復不能の損傷を与えたとき?


――それともこの戦争でドイツ人ニェーメツを狙撃して、誰かの息子であり父であり恋人であり友人である彼らを四〇〇人以上殺したとき?


 インテリ気取りの政治担当副官ザムポリトのくせに、サビ猫は刻み煙草マホルカをよく吹かしている。巻き煙草なんて気取ったものを吸っているのを見たことはない。

 煙たい臭いをうつされぬように、祈るしかなかった。


 苦手意識をよそに、サビ猫と自分の鼻と鼻がくすぐったく触れている。


 サビ猫は、火災旋風が渦巻く陣地に乗り込み、国防人民委員令第227号を厳かに執行させた。そのさいに、不幸な歩兵たちもろともに生きながら炭化していったという。だからだろう、なるほど彼女は評判通りまだら模様のサビ猫だった。


 髪も皮膚も性根も焼け焦げている中隊付政治担当副官の問いに、答えあぐねる。


 思考がぐるぐると渦を巻く。


 思えば遠くに来たものだ。お隣のブリャート人言うところの最果ての果てヤクーツク、シベリアの奥地を出発し、おばあちゃんの川エヴェ・アムガを歩いて渡り、生まれて初めて見る軍用列車にゆらゆら揺られやってきた。泥の季節ラスプーチツァを踏み越えて、赤軍大本営スタフカの命じるままに突き進んできた。

 ユーラシアの端からここまで旅をした。


 沈黙するふたりを気にも留めず、世界は流転し続けている。


 悠久の彼方に広がる純白の世界ハールマガンに、ZISトラックが深々と轍を残していく。あどけなさの残る兵隊たちが傍らを行く戦車に遅れまいと一歩を踏み出すたび、足元がさらさらと崩れていった。


 マガンはロシア語じゃない。ロシア語ならもっとふさわしい言葉がある。

 だから、無限大の平原に降り積もるのは、マガンではなくピェーペルだった。


 灰は人の残滓だ。肉体のいやはてにある極地だ。終わることのない砲爆撃で無限に飛散したソビエト連邦の赤軍兵士たちの粒子が、そこかしこに深く深く積もっている。

 サビ猫の美声は、煙となって天に昇っていった。それは地表を漂う人の魂をここではないどこかへいざなっていくに違いない。


 美麗なマラカイトグリーンの瞳と濁った黄金色の瞳。オッドアイを繊月のように細めながら、サビ猫は再び問うた。


「それで。私を楽しませるために、お前はなんと答えるのだ、フェオドーラ・マトヴェーイヴナ・アフラプコノワ?」


 大気の湿り気を常に感じている敏感な鼻先に触れられて、尋ねられた狙撃手はおもはゆい。ミミ付き軍帽ウシャンカをしっかりと被り直し、指先でヤクート人サハの特徴である黒髪と濃い肌色をそわそわさせる。


「ううん、ちがうよ。死神もニェーメツも、撃って楽しくはなかった。単なるひつぜんってやつだった。心に残るのは、もっともっと、ずっとずっと昔、シベリアでのことだったと思う」


 どこか浮世離れした、舌足らずで学のない口調だった。クマを思わせるずんぐりむっくりの少女は答え始める。


 ソ連国防および航空・科学産業支援協会オソアヴィアヒムでライフルの扱い方を学んだ都会っ子たちと違い、少女は野生動物たちを相手に生存を重ねてきた生粋の狩人だ。

 心のありようは気の赴くままに突っ走る突風と、時間が止まったかのような凪を繰り返す。だが、どちらの場合でも、いつも遠くを見ていることに変わりはない。


 極大射程の向こう側に、思いを馳せている。


「でもでもそれでも、いつも変わらない楽しさはあるんだよ」


 心がうわつくと、同じ言葉を繰り返す癖は治らない。


 己の罪の深さを象徴する、サビ猫の盲いた左の瞳はなにも映していないはずなのに。まるで魂を見透かされる感覚に囚われる。

 防水ケープのなかで、ぎゅっと銃把を握りしめる。鉄と木を依り代にこの世にあらわれたモシン・ナガンのたしかさは、いつも心のよりどころだ。


 昔も今も、どの戦争でも変わりはない。

 人生とは、たぶん、そういうものなのだ。

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