第02話 颶風の愚者(下)


「なんて冷酷な野郎。国防軍ヴェアマハトの狙撃手なら、山岳猟兵ゲビルクス・イェーガーの出身でしょうか?」

ニェット。このご時世に炸裂弾を優先して供給されてるんだ、武装親衛隊ヴァッフェンSSだと思う。狙撃の名手マイスタァ・シュッツェというやつだね」


 不吉な色合いの軍服に身を包んだ、ヒトラーの使い魔ども。彼らの獲物は決まっている。士官、伝令、機関銃手。戦場の潮流を左右する者たち。


 そして、狙撃手である彼ら自身と同類。

 いうまでもなく、赤軍の狙撃手だ。


 フェオドーラは腹這いになり、ひび割れだらけの床に体重を預ける。無理のない角度で伏射姿勢をとる。不安定な建材の破片には、モシン・ナガンは預けられない。

 有無を言わさず傍らのクララのケープをひっぺがすと、丸めて銃身の支えにする。

 建物の外から狙撃場所を気取らぬよう、壁からは十分距離をとった。視線をスコープに視線を合わせ、用心鉄に利き手を添える。

 割れた外壁から広がる市街。拡大された視野が、くっきりと像を結んだ。


 念入りな偽装を是とするドイツの狙撃兵は、位置を露見させるような稚拙な狙撃は行わない。


 だがフェオドーラの類まれな視力は、ナジェージダを襲った凶弾の発射位置をすでに特定していた。


 たっぷり五〇〇メートル以上先にある、すでに廃屋と思しき集合住宅。籠られるのを嫌ったソ連側が、念入りに砲撃し上層をほぼ吹き飛ばしている。いつからそこに隠れ潜んでいたのか。ひょっとするならば、砲撃のさなかですら狙撃の機会をじっと待っていたのか。


 集合住宅はナジェージダの位置から見ても、四〇〇メートル以上はある。現代の狙撃用ライフルの有効射程は優に一〇〇〇メートルを超えるが、ドイツ人の使うKar98kは、実用として四〇〇メートルを境に大きく精度を落とす。これは射手の問題というよりも、いかな最先端の生産設備を誇るドイツといえども冶金を始めとした工業技術的限界点のためだ。


 忍耐力と狙撃技術を考慮すれば、ふたりを一撃で仕留めているドイツ人狙撃兵は一流といって差し支えがない。


 用心深いドイツ人狙撃兵は銃口炎を露出させるようなヘマはしていない。それでも射撃により発生した衝撃が気流を乱し、戦場に舞う埃が流れを変えている。


 そしてなによりも。一瞬で溶け消えた、大気に刻まれた一筋の水蒸気痕。弾丸が前方の大気を圧縮させることにより生まれる傷跡。それが、フェオドーラのみに理解できる弾道の軌跡を空中に描いていた。


 ニナまで殺す必要はなかった。ナジェージダを撃った時点で、やめておけば見つけられなかった。スコアを伸ばそうと欲をかいたか。

 ならば、代償を払わせてやる。


 廃屋に篭った狙撃兵の姿は見えない。銃口炎が見えなかったことから推測すると、やつは一部屋挟んで撃ったに違いない。スコープを覗き込む。狭い視界を巡らせると、掌ほどの大きさもない外壁の穴がみえた。


 そこだけ他と、空間を彩る陰の濃淡が違う。

 観察していると、陰が色の深さを変えた。薄暗がりのなか、陰は陰としか見えず、およそ判別はつかない。しかし何者かが蠢いている。テーブルかベッドかなにかに寝そべり射界を確保した上で、伏射姿勢で狙撃を敢行した狙撃兵が、自分の手柄を確認し離脱しようとしているように思えた。

 躊躇している猶予はない。


「着弾観測を、フェイギナ上等兵エフレイトル

「ここから撃つんですか? 危険です、ライフルはもちろん、カール・ツァイスのスコープの性能だってドイツ野郎のほうが上です。いたずらに狙撃して外せば、こっちの位置を悟られます」


 クララが制止する。戦友の死に動揺しているのだろう、声は泣き声混じりで普段より一オクターブ以上甲高い。

 フェオドーラは相棒の意見を無視し、黙然と遥か遠くの世界を凝視続ける。


「ね、ねえ。やめてください、上級軍曹。逃げようよ。わたしたちは、役目を果たしました。果たしたじゃん。中隊司令部に指示された通り、重機関銃は全部潰したし。誰も文句は言わないって」

鴨が降りたことのない水はなく、クウス・トゥチスルエトゥエフ・ウートゥア・スウオフ、リスが登ったことのない木はないトゥイース・ウィトゥーウィブアトゥアフ・ムアナ・スウオフ

「なにいってるの? 理解できるように話して」

ロシア語ヌゥーチカ・トゥーラで? ヤクートの諺だよ、むずかしい。クイェトイェルを逃す狩りの名手ベルゲンはいないってことだ」

「サハ語はやめてったら、わかんないよ」


 弱音に耳はかさない。翻意するつもりはなかった。

 ここであの狙撃兵を逃せば、また誰かが撃たれる。この場であいつに対抗できるのは、自分以外にない。フェオドーラは呼吸が乱れるのを嫌い、ジェスチャーだけで対応する――右人差し指を立てて、鼻先に当てる。

 静かに。


 クララは押し黙った。納得はしていないのを、視線で伝えてくる。狙撃続行を空気で示すと、彼女は唇を噛んで双眼鏡を覗き込んだ。


 怯える相棒を慰めるのは、ひとまず後回し。


 ストラップをピンと伸ばし、視線からずれないように双眼鏡を固定するクララ。視力を筆頭にあらゆる五感を駆使し、環境状況をその身体に取り込んでいく。

 舌を噛みながら報告する。


「ア、アングルは仰角十五度。水平射撃時よりも着弾が上にずれます、留意を。火災煙が上空に立ち昇り、地上五メートルのあたりで急激に横になびいている。風は右手から吹いてます。同じ高さで街路樹の大枝が激しく揺れ、残された電線が耳障りに鳴いてます。地上と風の向きが違う。向こう側の風速は、毎秒一〇メートル超ほどと思われます。この気象状況だと、弾丸は左側に二メートル以上流されます」


 クララの観測は正しい。迫撃砲弾が横に流れたときにフェオドーラが指摘した通り、上層風に行けば行くほど風が乱れている。


 観測情報を照準計算に組み込む。スコープの左右ウィンテージ上下エレベーションも、どちらのターレットもいじらない。狙う角度を変え、照準の調整とする。


 不意な裏切りをする筋肉を信用せずに、ライフルを骨格で支える。引き金に指の腹を置く。息を大きく吸い、三割吐き出し呼吸を止める。心臓の鼓動すら狙撃のタイミングに合わせようと意識する。照準を完了するのは十秒以内に。それ以上息を止めていれば、血中酸素が不足し視力も銃口も

 人体がもっとも静止状態を保つ刹那の時間。鼓動と鼓動のわずかな間隙に、フェオドーラは引き金を絞った。


 腕のなかでライフルのメカニズムが正確に動作する。撃針がバネの力で前進し、装填された弾丸の雷管を叩く。銃口から炎の花弁が迸った。回転しつつ飛び出した弾丸は、ジャイロ効果という魔法をかけられ安定飛翔を開始する。


 大量生産品であるモシン・ナガンの精度は、お世辞にも上等とはいえない。同一条件と仮定して五〇〇メートルも離れて何度か撃てば、着弾は一定の角度をおいて四~五〇センチに分かれる。

 だから命中を望めない並の歩兵は、二〇〇メートルも離れれば無駄な射撃はしないよう厳命されている。


 だが、優れた熟練工が特別にあつらえ、厳選され、そして丹精込めて調整し、天与の才を持つフェオドーラが撃つモシン・ナガンならば、五〇〇メートルの距離をもってしても誤差五センチ以内に集弾できる。

 同一条件下という仮定ならば。一〇〇メートル先においてあるコインを撃ち、その後も同じ箇所を射貫き続けられるほどだ。

 ここまでの精度のライフルは東西を問わず数えるほどしかない。愛用のモシン・ナガンは資質を持った狙撃手が扱えば、五十年後まで、あるいはひょっとするとそれ以上の期間ですら「超高精度」とされるだろうと、武器管理中隊の軍曹は太鼓判を押してくれた。


 ソビエトの狙撃手は、三〇〇から最長九〇〇メートルの距離をおいて目標に命中させる技量を求められる。そして、フェオドーラの過去の最長狙撃距離は一〇〇〇メートルを超えていた。

 五〇〇メートルは、指呼の間だ。


 発射から一秒足らずの後。針の穴に糸を通すような狙撃。

 壁の穴の向こうで、血飛沫があがるのが見えた。


「この距離で、当てた。修正射なしで、すごい……!」


 隣で双眼鏡を覗き込んでいたクララが驚愕交じりに言った。

 フェオドーラは首をふった。


「殺ったのは、たぶん。観測手だ。狙撃兵には逃げられた」


 狙撃直前。一塊だった陰が分裂し、踊り出すのが見えた。ライフル発射の衝撃で、視線が目標から外れるわずかな時間に陰は行動を完結させたにちがいない。

 陰は、もう見えない。抜け目なく、怯むことなく、ドイツ人狙撃兵は相棒の死体を置き去りに駆けて行ったのだ。

 腕としたたかさを兼ね備えた野郎だ。

 残念ながらナジェージダたちの仇は討てなかった。


 スコープから視線を外す。冷徹に狙撃を敢行する一個の機械だったフェオドーラの心に、えも言われぬ虚しさが込み上げる。


 あたしが。あたしが早く最後の重機関銃を沈黙させていれば。ナジェージダもニナも、あの名もなき下級兵たちも死なずにすんだのだろうか。そうすれば、あの狙撃兵の注意もあたしに向いたはずだ。

 あたしなら発砲炎に気付き、回避行動に転じられたはず。致命傷を避けて、即座に反撃射を叩き込めた。そうすれば、犠牲者はいなかった。


 無意味な仮定とありもしない希望が繰り返される。益もないリフレイン。唯一抗えない現実は、もうみんな死んでしまったということだ。


 目を伏せる。体がひどく重い。呼吸するたび、肺腑が凍りつく寒さを感じる。戦場はいつもこうだ。戦友が死に逝くたび、自身の魂が削ぎ落とされていく錯覚がする。

 ひびの入った陶器がもはや完全な姿を取り戻さないように、ひょっとするならば魂もまた。


「上級軍曹……」


 なにかを言いかけて、クララが口を閉じた。

 彼女は無言のまま、肩を寄せた。半身が密着する。フェオドーラには、十代の少女の体温がひどく暖かい。


 クララが震えているのは単にケープを脱がされたから、だけではないだろう。


 慣れることのない喪失感を堪えようと空を見上げれば、空から灰が降る。加熱した銃身に触れ、灰はあっという間に消失した。


 灰は、誰かの命が燃え尽きた残滓だ。


 じきに傘が必要になるほど大量に降る。


 フェオドーラたちの背後から聞こえていた怒声が最高潮に達し、歩兵たちが雪崩を打って突撃を開始する。ソ連兵の進撃を阻んでいた重機関銃がすべて沈黙したのを好機と判断し、男たちが続々と遮蔽物から湧き出て行く。


 政治将校のアーニャも戦列に加わっているのだろうか。燻る薪色の髪を持つあの女は、誰よりも前にいることを信条にしている。


 野卑な男たちは去り、喧騒が凪いだ。

 周囲が森閑とする。まるでふたりだけが忘却に憑りつかれ、現在から取り残されたように戦争は余所へと移っていった。


「上級軍曹、みんな行っちゃいましたよ」

「うん」


 フェオドーラは頷く。それ以上はなにも言わなかった。会話はそこで途切れた。

 別世界の出来事のように、どこかで手榴弾が炸裂する。爆発の余波は陰鬱な調べとなり、街路と言う街路を吹き抜けていった。


 クララは両手をフェオドーラの肩に乗せ、不必要なまでに密着してきた。


「上級軍曹……いや、もういいか」


 独り言のように漏らし、クララは声音を変える。


「ねえ、フェーディシュカ」


 糖蜜のように甘い声で囁く。ねっとりとした気配があった。一応は狙撃小隊の隊長代理代行心得見習いであるフェオドーラを馴れ馴れしく愛称で呼ぶ。


 フェオドーラは、ケープを脱いだ少女のちっぽけな胸が背中に押し当てられるのを感じる。柔らかく温かい少女の感触。

 背後から伸ばされた細く白い指が、フェオドーラの唇に触れた。人差し指は執拗に唇の柔らかさを楽しむと、そのまま顎を伝い喉を撫で肌へと侵入してくる。鎖骨をなぞる。


 フェオドーラが身に着けているのはぶかぶかの男物の下着だ、そこから下にある胸を守るものはなにもない


「あ」

「悩まないで。ふたりで、やなこと全部忘れちゃおう。もうずいぶん、フェーディシュカの体温を直接感じてない」

「任務中だよ」

「男たちは、前に進んだ。国防人民委員部の忠臣アンナは後退を許さない、ここには来ないよ」


 クララは略帽を脱ぎ捨てた。フェオドーラのものも同様に無造作に捨てる。空いた手が後ろ髪をかき分ける。うなじに濡れそぼった生暖かい感触が這いまわり、フェオドーラは吐息を漏らした。


「焼けた金属が臭う。汗の味が味蕾をくすぐる。香水の匂いなんてしない。血と硝煙と巻き布の臭いが混ざった体臭。これが戦場の女の子のにおい。でも、舌触りはいいよ。このままじゃしづらいから、ね、こっちを向いてよフェーディシュカ」

「いつもよりも、ずいぶんと積極的じゃん。どうしたの?」


 問いかけると、クララは動きを止めた。

 舌の肌ざわりとは違う温かさが、点々と首筋に落ちてくる。雫はそのまま、首の丸みを伝い床へと流れ落ちていった。こぼれたばかりの雫は、体温と同じ温かさだった。クララの震えをフェオドーラは感じる。


 泣いてるんだ、とフェオドーラは思った。


「ナジェージダもニナも死んだ。特にニナは、喉を撃たれた。あの可哀そうな娘は、きっとさんざん苦しんで死んだ」


 クララは強引にフェオドーラを仰向けにする。爪が軍服越しに食い込むほど乱暴だ。自分がそこにいるということを刻み込み、確かめるようで、容赦がない。きっと今日負ったどの傷よりも、あとに残る。


 あまりにも無理やりで、バランスを崩したふたりはいっしょに瓦礫の畝をすべり落ちる。


 組み敷かれたフェオドーラは、彼女と視線が合った。冬の霊峰のように青白いクララの双眸が、涙に暮れている。美しい瞳が、繊細な金髪のなかゆらゆらと揺れている。百合のように白く華奢な肌は、戦争とは無縁そうに思えた。


 クララは人形のような娘だった。


 ひっくり返された拍子に命よりも大切なライフルが腕から転がり落ちたが、フェオドーラはなにも言わなかった。


 彼女が指を伸ばし、腰に下げているナイフに触れた。トナカイ革のシースを指の腹が撫でる。そのなかに収められているのは、裏スキとも血溝とも呼ばれるくぼみがある、独特の構造をした左右非対称の刃だ。


 それは、ヤクート人であるフェオドーラの象徴だった。

 指先がそっと離れていく。


 今のところ最長の相棒が、胸に貌をうずめてくる。嗚咽が鼓動と混じり合う。


「あんなふうに死ぬのはいやだ。わたしを特別にして、フェーディシュカ。わたしをあなたの傍にいさせて。わたしを守って。この狂った戦争からわたしを助け出して」


 手際よくベルトが外される。断りなくズボンのなかに右手を入れられて、無遠慮な仕草にフェオドーラは顔をしかめた。


「わたし、やりたいことがたくさんある。ふつうに恋をしたい。うららかな日の光の中を、堂々と歩きたい。質素だけど小奇麗な服を着て、好きな場所に行ってみたい。いろんな物語を読んで、無限の想像を楽しみたい。ぱちぱちと薪がはじける暖炉ペチカの前で、椅子に揺られてとろとろと眠りたいの」


 少女の願いは、いつしか哀れな響きを帯び始めた。


「生き延びたい、生き延びたい、生き延びたい。なんでもしてあげるから、ね、お願いだからわたしを救って。もう四百人以上射殺してるあなたみたいな立派な人殺しなら、それくらいできるでしょ?」


 泣き声と哀願が、遠くから聞こえる短機関銃の連続射撃音と混じりあう。今にも過呼吸をおこしそうに震える唇が、フェオドーラのそれに重ねられた。とめどなく溢れている涙がクララの鼻梁を伝い、絡み合った舌に流れ込んでくる。


 しょっぱい。

 

 男と男で命をやり取りし、女と女で唾液を交換しあう。硝煙と血と粘膜が奏でる奇妙な音楽。たったひとつ共通するのは、リズミカルな愛撫とは程遠く、相手を欠片も思いやっていないことだけ。


 フェオドーラは思う――戦争にもセックスにも、マナーは必要だと思うのだけれど。


 というか単純に痛い。クララの伸ばした爪先が、引っ掻き回している。苦痛に紛れるその何分の一かの快楽をしいて貪り、フェオドーラは喘いだ。同じ寒空の下では、ソ連兵がドイツ兵と互いの顔を認識できる距離で殺しあっている。

 援護は必要だろうが、狙撃手の技術が待望される時間はとうに終わりだ。


 撃った者も、死んだ者も、特段に評されることはない。


 極寒の地シベリアに住む少数民族ヤクート人であるフェオドーラの戦争は、共産党にとって存在しないも同然だった。

 今も昔も、これからも。


 大祖国戦争において、ソビエトには二千人の女性狙撃手がいた。戦争の終結までに、生き残ったのは五百人ほど。七割以上の狙撃手は故郷の地を踏むことなく、戦場の混乱に露と消えていった。

 フェオドーラが知るクララ・フェイギナという少女もまた、そんな狙撃手のひとりになった。

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