第二章 野にふたり

第03話 ヴィクトリア小沢の三分間クッキング

一九四六年 極東


 ヴィカことヴィクトリア小沢のロシア語は、ずいぶんと古風だ。


「わしが考えるに、蛇がおいしいおいしい言う奴らは蛇食いエアプなのじゃ。蛇は首から尻尾の境目までが胴体なのじゃが、境目はどこかというとのう」


 ヴィカの言い分によると帝政ロシア時代にコサックの近衛親衛隊のあいだで話されていたみやびやかで由緒正しい言葉遣いを受け継いでいるそうだが、単純にじじばば臭い。


 ソ連の若者言葉とは、ほど遠い。


 それでも、自分と彼女が共通で知っている言語はロシア語だけなのだ。


 ゾーニャはそんなヴィカのロシア語を聞くことが、嫌いではなかった。


「尻の穴なのじゃ、蛇の胴体と尾の境界線は。ということは、あの細い体のほとんどが胴体なのじゃよー」


 ヴィカはまるで春の残り香のような、朗らかで愛らしい少女だ。ゾーニャの知っている人間のなかでも、二番目に背が低い。思わず頭をなでなでしてあげたくなる小さな体ぜんぶで一生懸命動く。

 食べているときもナイフを研いでいるときも寝ているときも、春嵐のように荒れ殺気を剥き出しに襲い掛かってきたときも、つねに全身全霊だ。


 その生き急ぐようなさまが、見ていて楽しい。


 ヴィカは焦げたパン色の髪をゆらゆらなびかせる。頭の動きに合わせて黄色いリボンが踊る。ザバイカル・コサックの象徴色である黄色は、ずっとヴィカとともにあったに違いない。


 ご機嫌な心を反映してか、愛嬌のある動きだった。料理をしているときのヴィカは、いつにもまして楽しそうだ。

 刃を向けられるよりはずっと良いので、ゾーニャは三食全部ヴィカに任せている。


 彼女は頑丈な作りをした蛤刃のナイフで木の枝を薄く切り出し、手際よくたき火の隣に並べていく。こうすれば薄い木片はあっという間に乾き、燃料としてじゅうぶん使えるのだ。

 乾いた順に火にくべると、パチパチと小気味よい音をたてて薪代わりの木片は燃えていった。

 煙はほとんど出ていない。十字に掘った溝の中心部で火を焚いているからだ。この形でたき火をすると、酸素が多く吸入されて効率よく薪が燃える。


 煮炊きの煙が人目を引くのをヴィカは嫌っている。ヴィカもまた追われる立場なのだ。日本人とコサックのハーフだという彼女が、その身にひく血から学んだ野外生存技術で作成したのが、この煙の少ないたき火だった。

 準備に時間をかけられるときは、彼女はよくこの手の溝を掘り火をおこす。


「蛇は胴体がなが~い、ということじゃな、つまり」


 まあ、もっとも。丸投げにしていると、困った点がひとつある。


 ヴィカが料理好きなのはありがたいが、彼女は常になんだかよくわからないモノを拾って食うので、お手製のごはんはお肉大好き民のゾーニャの嗜好とはいまいち合わないことが多い。


 ヴィカは葉っぱ大好き民なのだ。

 アカザの葉を茹でておひたしにしたり、ビユを塩と油で炒めたり。急に地面を掘り始め、アザミの根を引っ張り出し「甘辛く炒めるのじゃ! きんぴらにするのじゃ!」と叫び始めたときは、気が狂ったのかと思った。


 きんぴらってなんだろう? ソビエトにいたときに食べたことのないものだ。


 寝ているところをスコップでぶん殴れば、少しはまともな食性になってくれるだろうか。それとも7.62mm弾を脳天に撃ち込むべきか。暴力を前提にするろくでもない思考を真剣にしつつも、ゾーニャは相槌を返す。


「つまりぃ?」


「つまり、肋骨が多い。胴体の根幹である背骨がすっと伸びて、そこから肋骨がにょろにょろ伸びている。肋骨はすごい多い。背骨がえんえんと続くからの! ようは蛇は小骨が多いのじゃ~。蛇を食べてみると、おいしいとかまずいとか言う前に、小骨が多くて食べづらいという感想が最初にくるはずなのじゃ! これこそわしが、蛇をおいしいという者がエアプだと考える理由じゃ! 蛇を食った者は骨に言及せずにはおられないはずだからじゃ。三大旨い蛇、ヒメナンダとマルオアマガサを食したわしが言うのじゃから間違いなかろ」


「悪食だなあ。そのうちへんな病気になるよ?」


「この地の人間の料理観は実にあらゆるものに及んでおる。野に生きるわしはそれを尊敬しておる。飽くなき食への探究なのじゃ、蛇を食べるのものう」


「きょうのごはんと比べたら、蛇のほうがおいしそうだけど」


「なにを言うのじゃ! このブナの森は古い森で、菌糸による腐朽がだいぶ進んでおる。この手の森で採集できるキノコは絶品なのじゃぞ」


 両腕を大きく広げ、ヴィカが大げさに話す。細腕の先には、鬱蒼としたブナのリェスが広がっている。ゾーニャはなくさないようにいつもブーツに差し込んでいるスプーンを握り、眉根を寄せて本日ヴィカが入手した具材を見つめる。


 キノコノコノコ、キノコノコ。


 キノコの山が、倒木に座っているヴィカの横に山と積まれている。ヴィカはきっと、タケノコと敵対するキノコの山の回し者にちがいない。

 今日はここをキャンプ地とする! と高らかに宣言したヴィカが、ブナの森のあちこちに生えていたものを採取したのだ。


「これぞ人類の祖先も食べたとされる、最古の食用キノコのひとつヒラタケじゃ! キノコのような菌類は動物性たんぱく質に近いので、栄養満点なのじゃぞー」


 なんで原始人と同じキノコを食べなきゃいけないんだろう。


 今日の野営地は肥沃な森のなかなんだから、食べ物はいろいろあるはずだ。

 ヤクートであるゾーニャは狩りには自信があった。マイナス五〇度、場合によっては八〇度近くにまで冷えるシベリアの生まれなのだ、独力で生きていくには困らない経験と技術はある。


 おひとりさまなら、鳥獣の類でも撃てばすむのに。


 まあ問題は、塩だ。


 塩コショウをこれでもかとぶっかけたブロードホワイトフィッシュの冷凍薄切料理ストロガニーナをむしゃむしゃ食べる、高血圧気味の塩大好き民であるゾーニャは――酷寒の地の人間は、なにかと塩分を必要とするのだ――もちろん、人間が生きていく上で塩は必需品だ。

 コサックが言うところの岩塩ソリを持っているのはヴィカなのだ。脱走ソ連兵であるゾーニャは、切実に物資不足に悩まされているのも事実だった。


 塩を所有しているヴィカは、料理の主導権を取りたがる。


 その結果、いつもよくわからないものを食べさせられる。コサックハーフの嗜好性が理解できない。腐った豆や木の根を掘り出して食べる日本人の食の影響を大きく受けているに違いない。

 だからゾーニャは最近ではずっとずっと思ってる――お肉が食べたいなァ。


 砲金色の長髪をかきあげながら、ヴィカは心底楽しそうにお喋りと料理を続けている。


「さてさて。では、調理を開始するとしようかのー」


 そういって飯盒の蓋を持ち出して火にかけた。ヴィカの持っているソラマメ型アルミ製の飯盒は、蓋の留め具が柄になるのでフライパンとしても使える便利な代物だ。野外で煮炊きをする兵隊さんの必需品というやつである。


 ソビエトにいたときは、ホーローしあげの飯盒を使っていたのが懐かしい。


 食べやすいサイズに切られたキノコをじっと見つめるゾーニャ。ヴィカは、キノコをどのように調理するつもりなのだろうか。

 

「でもさ、キノコってさ。毒キノコじゃなくても、生のまま食べると変な感じになるよね。喉がイガイガしたり、手足に湿疹がでたり。食べるときにどうするのが一番いいんだろ」


「ふむ……では焼いてみてはどうだろうか」


「キノコを……焼く?」


「油をひいたフライパンを火にかけ、そこにキノコをいれて加熱するのじゃ」


「天才的だよ! そんな調理方法があるなんて。これなら食材に短時間で火が通る!」


 ぱちぱちぱち、とゾーニャは抑揚のないわざとらしい拍手をしてヴィカを讃える。


 ヴィカは懐からロシアのサラミカルバサの塊を取り出した。もう片方の手には、枝を切っていたナイフとは別の調理用ナイフ。

 乱切りを開始。サラミは油分多めなので、油を敷かずともそれ自体の油で焦げ付きにくい。そして乱切りは表面積が大きく、豊富な油分をもっとも効率的に使う斬り方なのだ。


 狩猟用ナイフの扱いが得意なゾーニャから見ても、ヴィカはずいぶん慣れた手つきでナイフを手早く動かしサラミをフライパンに切り落としていく。


「ここで取り出したる錠剤がございますのじゃ」


 ナイフとサラミをしまい、遮光用の茶色いガラス瓶をどこからともなくヴィカは左手に出現させた。瓶にはむにゃむにゃとした字体をした日本語のラベルが貼り付けられている。


 またなんか怪しげなものを、と思うゾーニャ。


「なになにそれなに?」


「これは大正時代に神戸で創業したビオフェルミン社の乳酸菌整腸剤じゃ。ちなみに同社は大陸にも進出しておったのじゃ」


「ほうほうなるほど」


「腰に吊るした防水袋に牛乳を入れておくと、人間の動きでちゃかぽこちゃこぽこ撹拌される。やがてブウーンと乳脂肪分が分離し上に溜まる。乳脂肪分を泡立て、ビオフェルミンを入れてしばらくおくと常温の乳酸菌発酵によりロシア風サワークリームスメタナができあがるのじゃ」


「すごい! 人にはヒトの乳酸菌だね!」


「さてこちらに完成品がございますのじゃ」


 背嚢のなかからふた付きのガラス瓶を引っ張り出す。とろりとしたクリームが中に詰まっていた。乳酸菌育成が趣味のヴィカが育てていたスメタナだ。

 ついでに岩塩をナイフの柄で砕いてぱらぱら。


 ヴィカの三分間クッキングが開始されていく。


「サラミを油分で熱し、そこへ採取したヒラタケをまぜまぜ。さらに岩塩と瓶入りのスメタナをすこーしいれれば」


 油に熱されたヒラタケとサラミが、じゅじゅ~と音を立てて焼けていく。生肉ですらすぐに凍り付くシベリアでは、火を通すと言ったら蒸すという調理法が中心なので、焼いた料理というだけで好奇心をそそられる。


 半分日本人のヴィカは、二本の棒、いわゆる箸という代物を器用に使い食材を混ぜていく。細長くて混ぜるのが大変そうなので、スプーン貸そうか? と聞いたらおぬしのブーツに突っ込まれていたスプーンなぞごめんじゃと返される。


 煙とともに立ち昇る爽やかだが濃厚なキノコとサラミの香りが周囲に満ちる。そこにロシア伝統の乳製品・スメタナがとろけながら混じりあっていく。


「ほいよこれ、拾ったヒラタケとサラミで作った具沢山・アチアチ・サワークリームあえじゃ」


 おおー、焼くってすてき。香ばしい匂いがする。

 ゾーニャのお腹がぐー、と鳴った。


「ところでさ」


「なんじゃ」


「ノリにのってあげたんだから、あたしのは?」


「これは一人分じゃ」


「まてまてまって、なんでひとりでおいしそうなもの作ってるの!?」


「だってわし、食用キノコの判別つくし。クリタケでもアワビタケでもカバノアナタケでもなんでもござれじゃ。このヒラタケはブナ林に春から秋まで生える便利な存在なのじゃ~。しかも倒木の腐朽の具合から、これは発生初期段階の味がつまったものに違いない」


「あたしにもくれ」


「ここにまだキノコの余りがあるが」


「ではでは遠慮なく」


 手を伸ばすゾーニャ。キノコは別に好きじゃないけれど、目の前であんなにおいしそうに調理されれば別だ。うまい料理にありつけそうでちょっとうれしい。キノコの傘を愛おしそうになであげる。


 そこでハタと気が付いた。


 キノコの棒の部分。石突きが黒い。

 なんだか見覚えがある。そうそれは、幼少期のやな思い出だ。


「これ毒キノコのツキヨタケじゃん! 夜にぼぉっと光るやつ!」


「ほう、よくわかったな。ヒラタケとツキヨタケはよく似ておるのじゃが」


「シベリアにも生えてたからね! これ食べて屁だと思ったら下痢が止まらなくなったことがある。364日あたしのお尻を死守していた肛門が一敗地にまみれたことがあるもん!」


「まみれたのはウ●コじゃろ」


「肛門がわるいよ肛門が」


「おぬしのデカケツを守る肛門は大変じゃの」


 思い出すのも不愉快な思い出だった。毒キノコ中毒になり姉にひとしきり笑われたあと、解毒と称され、炭の粉末だのシラカバの樹皮をせんじたスープだのを食わされ「薬効ありぃー!」ともてあそばれた記憶がある。


 だからゾーニャはキノコがあまり得意ではないのだ。


「ではいただくのじゃ」


 スプーンを拳で握って持つゾーニャにはできない器用さで箸を操り、キノコとサラミのサワークリーム炒めをハフハフハフと口に運んでいくヴィカ。調理分があっという間に彼女の胃袋に消えていく。


「あ、あ~」

 

 見送るしかないゾーニャ。


 キノコがあんなにおいしそうだなんて。


 羨ましがるとぜったいわかっててやったなこの娘。ゾーニャは狩人の出自で美食家ではないし、都会の人間ならばできないこと・食べないものだって平気に相手どれる。


 たとえば、動きの鈍い妊娠期の母鹿を射止めるのは実に幸運なできごとで、ヤクートナイフを巧みに使い当然のように解体する。

 コケモモのベリーソースとあわせたステーキの絶品さはもちろん、精霊イッチの寛容さと自然の恵みのおいしさに感謝すらするのだ。


 お肉こそが至高の食材だと思っていた。


 でも、葉っぱやキノコがこんなに魅力的な食材だなんて。

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