第04話 ゾーニャとヴィカ

 飢えている相手の目の前で飯を腹いっぱいかき込むとは、ヴィカは幼い外見のくせに悪魔のような女の子だ。


 空腹は最高の調味料と言ったのはだれだぁ! この調味料はいくら量を増やしても味がしないぞ! しかたがないので、ゾーニャは手法を変える。

 戦場ではひさしく忘れていた表情をむりに浮かべる。おもねるように愛想笑い。


「いやあ、でもヴィカは料理が上手だよね。いいお嫁さんになると思うなあ」


「わしは嫁ぐつもりはないがの。野に生き、太陽に焼かれ風に吹かれ、馬とともに歩んできたわしについてこれる男がいるとは思えん」


「え、じゃあ立候補しようかな」


 すい、と目を細めて不思議そうにヴィカが続ける。


「なにをじゃ?」


「あたしがヴィカのお嫁さんになろうかなー、なんて。毎日ヴィカの料理が食べられるなら幸せだよお」


 予想もしていなかったであろうセリフに、ヴィカの頬が真っ赤に染まる。


 砲金色の瞳を大きく見開いている。感情が顔に出る、というのはまさに彼女のためにある言葉だ。フライパン替わりの飯盒を雑に置いてばたばたと手を振る。二、三度口を釣り上げられた魚みたいにぱくぱくする。

 ひとしきり顔面が踊った後、視線を逸らした。


「なにを馬鹿なことを言うのじゃ!」


「え、けっこう本気だけどぉ」


「なんでわしがお前と契らねばならんのじゃ! 第一女同士じゃぞ」


「いっしょに生きていくのに、性別は関係ないでしょ。それに、あたしはそのへん気にしない方だけど?」


 わざとらしく大きな咳。んふんと喉を鳴らし、ヴィカは目を合わせないままキノコ料理を差し出した。


「ちと作り過ぎたようじゃ。まあ、褒められて悪い気はせんからの。ほれ、少しわけてやるぞい。食わんか」


 まったく素直な態度なんだから。ヴィカは嘘がつけないことを、短い暮らしのなかでも十分知っている。一年前まで感情が痩せ細っていて、いまだそこから回復し切れていないゾーニャは、ヴィカのわかりやすさが好ましい。

 彼女は友情には友情を、信義には信義を、好きには好きを返すタイプだ。


 そして、それは殺意においても同じだった。


 だから、今は不穏を平穏でもって隠している。約束を果たし終えるまで、ヴィカはゾーニャに刃を再び向けることはないという確信がある。

 ずるいが、さきに誓ったのはヴィカなのだ。


「ありがと」


 礼を述べてスプーンで料理をすくう。温かい揺らめきを立てているキノコとサラミを、ブリキのカップによそう。

 食べようとし、ゾーニャは思いとどまった。郷に入っては郷に従え、というではないか。


「こういうとき、なんて言うんだっけ?」


「なんのことじゃ?」


「ほら、ごはんを食べる前に言うおまじない」


「正教会の作法でか?」


「いやいや、日本語でだよ」


「この国での作法か。なかなか殊勝な心掛けじゃな、感心じゃぞ」


 ヴィカは片手を縦にピンと伸ばす。真似するがよいぞ、と言いたげに呟いた。


「いただきます、じゃ」


「なるほどなるほどね。それじゃあ、いただきます」


 不慣れな日本語で発音する。

 儀式を終えた。スプーンでキノコを口に運び、ヴィカの野性味あふれるお手製の料理をむしゃむしゃと頬張る。うん、うまい。感謝の意を目力で伝える。見つめたままでいると、ヴィカがうろんげな視線を返した。


「なにを見とるんじゃ、気持ち悪い」


「それにしても、ヴィカってさあ」


「なんじゃ、改まって」


「屋外での料理の方法とか、キノコの採取の仕方とか、地形の見方とか、いろいろ詳しいよね」


 ゾーニャの何気ない一言に、ヴィカが表情を曇らせる。地雷を踏んだかな、と感じたがあえて話題を変えなかった。


 なにせゾーニャとヴィカの間には、数えきれない地雷という関係性が潜んでいる。踏みつけたことは両手でも数えきれない。第一、出会ったときに彼女は本気で殺しに来た。そこから比べれば、地雷を踏みつけるのはまだましだ。

 爆発するとは限らないのだから。


 いちいち気にはしていられなかった。


 ヴィカがほそい吐息を漏らし、下草を眺めつつ寂し気に笑う。

 視線が一度だけ、愛用のナイフを撫でた。白樺の柄を持つその刃は、独特の刃紋を描いた不思議な代物だとゾーニャは知っている。


 なぜなら、出会った当初にゾーニャのヤクート・ナイフと激しく触れ合ったからだ。戦争よりも愛の営みよりも、深く深く奈落の底に至るほどに。


「わしの野外生存技術はの。兄上と、兄上の親友から教えてもらったのじゃ」


「ふーん。前に話してくれた、おじいさんヂェードゥシカじゃなく?」


じいさまヂェダは浅野部隊と特務との仕事で忙しかったからの。わしが多くを学んだのは、兄上とその友人からじゃった」


 ため息をごまかすように、料理に息を吹きかける。ヴィカは別段猫舌ではないことを、ゾーニャはもちろん知っていた。


「兄上は一族で一番、いや海拉爾ハイラルでもっとも優秀じゃった。物を知り武に長け乗馬術騎道に優れておった。長ずればこの国を率いる男になることはまちがいない傑物じゃ。なにせあの建国大学の塾生に選ばれたくらいじゃからの」


「聞いたことない大学だなあ。あたしのトモダチも大学を休学して軍にいたけどね」


「なんじゃ、ものを知らんやつじゃな」


「だってあたし、ソビエトの人間だし。ど田舎の出だけど」


「最高学府じゃぞ。白系ロシア人も例外なく、日本人、漢人、満人、朝鮮人、蒙古人からなる五族協和、王道楽土という理想を現実にすべく、言論の自由を真に愛した秀才たちの大学じゃった。ハイラルから入学できたロシア系は、兄上を含めて指折り数えられるだけじゃ」


 細い顎をあげ、努めて明るく笑う。どこか空虚な笑い声は自慢げで、そして寂しさを感じる音色だった。

 料理を置くと、ヴィカは先ほど一瞥したナイフを持った。


「変わった紋様だよね、そのナイフ。前に見たけど」


「残欠という」


 ゾーニャに応え、ヴィカは革の鞘から刃を引き抜く。波にも似た刃紋を持った刀身が、濡れたように輝いている。

 ユーラシア大陸の野に生きる人々の様式とは違うナイフだった。


「わしの父方のご先祖は、サムライの家系じゃった。残欠とは折れた日本刀のことをさす。ご先祖の折れた刃を、兄上とわしでそれぞれ分け合った。兄上が残欠をコサックの使うナイフに鍛えなおしたのが、わしのこのナイフじゃ」


 言葉の端々にただならぬ感情が漏れていた。

 ヴィカの兄もまた、この国とともに姿を消したのだろうか。


 そう。ここは中国東北部、かつて満州国と呼ばれた場所だった。


 歴史という途方もなく大きな河、その淀みに泡のように浮かんだ国。

 一九三二年三月一日に現れ、わずか十三年五ヶ月余をもって消滅した亡国。万里の長城、山海関に建てられた「王道楽土大満州国」という碑は、そのまま墓標と化した。


 まるで、すべてが泡沫うたかたであったように。


 学のないゾーニャでも、満州のハイラルがどこか知っている。


 中国でもっとも美しいとされる呼倫貝爾ホロンバイル大草原。


 忽然と現れる、緑のなかのオアシス・ハイラル。帝政ロシアが整備し、清朝時代に中国に組み入れられ、のちに満州の一部となったこの街は歴史と異文化が複雑に溶け混じった場所だ。

 ソ連と満州の国境線近くにあり、毛皮と牧畜を主産業とした北満最大都市でもあった。五重の防御戦でよろわれたハイラルは、難攻不落の要塞都市としても名を知られていた。


 そして、運命の一九四五年八月九日。


 ゾーニャが所属していたソビエト赤軍が早期に侵攻した地でもあった。ソ連軍第三十六軍によるハイラル国境守備隊の攻撃から始まり、北の三河サンホー・アングル河流域、西はマンチューリ、南はノモンハンから。

 満州全土で総数百五十万人超、無数の戦車を含めたソ連赤軍のうち三個師団がハイラル要塞に攻め入り、防備に当たっていた満州側の独立混成第八十旅団と戦闘になった。

 

 第二次世界大戦末期に戦端が開かれた、ソビエトと満州国、背後にいる大日本帝国との戦争。


 その前日、ゾーニャは満州辺境にあるチョール村のティレバクレという集落を攻撃した。赤化を嫌い祖国を去りアジアに逃れた白系ロシア人と、満州のハルビン特務機関と、大日本帝国の陸軍中野学校が関与するコサックの秘密の開拓村だ。


 小規模だが苛烈、そして重装備のソ連赤軍による一方的な戦闘がおき――大日本帝国に与してまでソ連共産党打破を夢見ていたコサックたちは抵抗を試み、戦いの果てにほぼ死んだ。

 ヴィカが愛した長老スタロチカのおじいちゃんも。


 ハイラルを含めた満州西正面および北正面、大山脈・大興安嶺とその西方一帯、実に全満州のうち三分の一を守っていたはずの関東軍第四軍の主力はついぞゾーニャの前に現れはしなかった。


 それが、亡国満州の野で暮らすゾーニャとヴィカの関係だ。


 料理をかき込み、ゾーニャは片膝立ちになる。同時に右手を背中に回す。

 着た切り雀の防水ケープのなかには、大切にしている雨傘三本と手作りした革製の銃鞘がある。立ち上がりつつ鞘に収まっている銃床を掴むと、慣れた手付きでライフルを引き抜く。


 戦場では灰が降る。無数の肉体が焼けて崩れ粉になり吹かれ宙を舞いそこかしこに降り積もる。

 

 だから、傘が必要なのだ。


 雨傘屋ゾーンチカ・マガジンが商うのは傘とライフル。だから自分は、ゾーンチカでありゾーニャなのだ。あの政治委員、ソ連の人名としては語感がおかしいアンナ・イリイーニシュナ・クラーゲンシュトリヒの呼び名アーニャに似た響きで、我ながら気に入っている仮のお名前。


 本名は、だれにもナイショなのだ。


 ヴィカも黙って立ち上がる。会話はここで終わりだった。


 なぜなら、ゾーニャの鋭敏な聴覚はかつて飽きるほど聞いた音を捉えたからだ。現実でも夢でも追いすがってきた、戦友を、同胞を、仲間を大勢屠ってきたあの音だ。ゾーニャも幾度も奏でたあの音だ。


 銃声。


 全世界を巻き込んだ戦争が終わってから一年経つというのに、ついぞ忘れたことはない音階だった。

 亡国のこの地では、新国家の建設を夢見る者たちの戦いが、いまだ続いている。

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