第05話 共産党八路軍
ゾーニャは聞かせるわけでもなく、事態を確認するように呟く。
「とおいけど、銃声が聞こえたよ」
それは、ごくかすかだが、聞き間違えようがない音だった。
人生のなかで、いただきますの言葉よりはるかに多く聞いたから。
獣も人も、獣のような人もだいぶ撃ったのだ。
だから、銃声だと確信をもって断言できる。
先に動いたのは自分だとゾーニャは思っていたが、ヴィカはすでに立ち上がっていた。あいかわらず気配を感じさせず動いてみせる。
かつて背後をとられたときも、ヴィカはいつの間にかそこにいたことを記憶から呼び起こす。
さっきまで顔に浮いていた、憐憫めいたヴィカの寂し気な笑いは消えていた。
右手は腰に帯剣した小剣の鞘に触れている。キンジャールと呼ばれる小剣をコーカサス地方のコサック連中が使っていたのはゾーニャも知っている。それに類するものだろう。
ザバイカル・コサックの系譜を自称するヴィカは小銃も持っているが、主たる武器はさまざまな種類の刀剣だ。
刃物マニアもびっくり、実に一〇本以上の刀剣類を彼女は持ち歩いている。
そんなヴィカが、小剣に手をかけ、警戒している。満州はゾーニャにとって異郷の地だ。危険な生き物や地域、そして緊張を漲らせる争乱を引き起こす人間たちのことをろくに知らない。
どう動くか、という判断の大部分をヴィカに任せている。
考えることを一任されているヴィカは、何も言わない。
ゾーニャは自分よりだいぶ下に位置するヴィカの頭に言葉を投げかける。
「あたしは無視しても――」
所持品の大半を置いたまま。最低限の武器のみを持ち、ヴィカは口を閉じたまま行動を開始した。
ゾーニャの言葉を聞き終わらないうちにヴィカは動き出す。野宿のために見つけた乾いた大地から離れ、下草が茂る場へ。
夏の気候により活性化され、地面には雑草の類がひしめき合っているというのに、ヴィカの移動は衣擦れの音はおろか擦れる草花のざわめきも感じさせない。
やっぱりヴィカならそうするよね、と独り言ちゾーニャも後に続く。耳を澄ますと、もう一度。最後にも同じ音が響き、ごく小さく森を駆け抜けていく。
突然、銃声は途切れた。
逸る心を反映するように、ヴィカは歩を速めた。左手には大日本帝国の八九式双眼鏡。塗装は剥げ、ネジは錆び、外装はいびつで、全体にガタがきている。
それでもまだまだ、働いてくれそうな老兵だ。
浅野部隊のパトロンだった関東軍から供与されたもの、つまりは家族の誰かの遺品だろうか。
ヴィカはちらりと振り返り、いまいましげに鼻を鳴らした。
「平然とついてこられると調子が狂うんじゃが」
「けっこう頑張ってるけどね、ヴィカはすばやいから」
「おぬしが来るとややこしくなる」
数歩後ろ、つかず離れずにいるゾーニャをヴィカは睨んだ。不満げにまた沈黙する。
道なき道、密生する森のなかを、ふたりは獣より静かに早く歩いた。
鳥の囀りも虫の鳴き声も聞こえない。不穏な空気を察し、どこかへ去っていったのだろうか。火薬の臭いが漂う場に、わざわざ居残るのは人間ぐらいのものだ。
やがて、森の密度が下がり始める。
緑の切れ目の先に敷設された線路が見えた。
荒涼とした曠野と草原を切り結ぶのは、旧満州国国有鉄道・浜州線。
国鉄の管理下にありながら実質的に
とはまあ、ヴィカからの受け売りだ。
森のように自然の傘が届かない、強い日の光のなかに男たちの集団が見える。細部は見て取れないが、くっきりとした人影が蠢いている。
木々と草の陰に身を隠し、身体を不用意に露出させないように注意しながらヴィカは双眼鏡をのぞき込む。
どこかしら錆ているのだろう。きしきしと音を立てて倍率を調整、最大望遠。
小さく舌打ち。
「ド素人どもが、鉄道近くをうろつきおったな。目立つに決まっておるじゃろうが、襲うて下さいと言っておるようなものじゃ」
「あらら。ま、しょうがないよ。ふつーの人たちじゃあ、あたしたちとちがって野外生存技術はないし。けもの道を進めるわけない。わかりやすい道を歩きたくなる」
「旧満鉄の警告を聞いておらなんだか。線路沿いに武装した男たちが見える。三八式歩兵銃持ちが複数、指揮している者はそれに加えてモーゼルを持っている。大口径に改良した中国のバッタモンじゃ。そばに倒れた男女が三人。発砲したのは下っ端じゃな」
「三八式? 日本の小銃じゃん。関東軍や満州国軍の残党かな?」
「関東軍が日本人を襲う必要はあるまい」
「なら、野盗のたぐいだ」
「いいや。違う。左上腕に目立つのは所属組織を証明する
「ぱーろ?
「共産匪賊とも呼ばれておるが、まあ中国共産党の尖兵じゃな。今は諸種の勢力を統合し、政治情勢から東北民主連軍を名乗っておる。八路軍は新四軍と並んで民主連軍の中核じゃ。装備が基本的に貧弱な八路軍が使っている武器は、ソ連が武装解除した関東軍のものを一部流用しておる」
わずか五万人で発足したという八路軍も大きくなったものだ。戦後は
かつてイデオロギーを棚上げにし、抗日戦という主目的のために同盟関係にあったが、満州国崩壊の後にはハルビン周辺のような北満は共産党が、南満は国民党が主に支配し対立し、中国は内戦状態にあった。
スコープが光を反射しないように気を使いながら、ゾーニャも望遠で同じ方向を見る。
ヴィカの言った通り、武装した男たちが複数。身振り手振りをまじえ、仲間内で激しく言い争いをしているようにも思えた。
足元には動かぬ人間が三人、倒れ伏している。格好が違う。撃たれた日本人だろう。
「見えてるのは九人。分隊規模だ」
「八路軍の部隊の最小構成は三人。これを組という。組が三つあつまって班となる。さらに班が三つで排となる。九人なら一班じゃな。装備から見ると、行軍時の格好にも見えるのじゃが、ふむ」
いぶかしげな口調だが、八路軍の動向を深く推測つもりはないらしい。
ゾーニャが視線を外すと、同じタイミングでヴィカは双眼鏡をしまう。
感情の命じるまま、ヴィカは今にも走り出しそうだ。
キンジャールの柄を握る手が青白い。かつては豪華絢爛な意匠が施されていたであろう柄も鞘も、今はごくシンプルなもので、それがコサックの末路を示している。
なんだかずいぶん生き急いでいるように思えて、ゾーニャはヴィカの背中に声をかける。
「かかわるの? あたしたちには関係ないように思えるけど」
「わしらの夢は潰えた。大日本帝国は走狗に希望を与えるが、かなえてやる主人ではなかった」
振り返ってゾーニャを見るヴィカの眼差しは、静謐だが焦燥に駆られたものだった。
料理をしていた楽し気な様子は、もはや微塵も残っていなかった。
「だが今撃たれた日本人どもは、引揚者と呼ばれる者たちじゃ。夢見た地から焼け野原になった故郷を目指し、だが帰還用の列車にすら乗れなかった貧乏人どもじゃ。それでもなおここ旧満州から、
双眸に宿る星屑は、たぶん、故国を失いアジアの泡沫なる国家で果てた一族の夢の残骸か。
怒りとも悲しみとも憎悪とも悔恨ともちがう。ゾーニャの知っている人間でいちばん頭の良かったアーニャが言うところの、言語にできないもどかしさが瞳の奥でぐるぐる渦巻いている状態、という感じだ。
ヴィクトリア小沢という女の子は、小さな体になんて激情を抱えているのだろうか。
ヴィカは、そのうち内面から膨らみあがった感情で破裂するに違いない。
ゾーニャはやれやれと肩をすくめてみせる。
「ここからなら、あたしなら一方的に皆殺しにできるけど?」
「わしは『
「3ラインって。それ、ずいぶん古い単位だよ」
かつて帝政ロシア時代に使われていた単位だ。デュイムを基本とし、1デュイムは25.4ミリ。ラインはその十分の一なので、2.54ミリ。
3ラインはつまりは7.62ミリなので、ちょうどモシン・ナガンの口径と同じになる。
かつてモシン・ナガンの照尺に使われていたアルシンも、今ではメートルに置き換えられている。3ラインはモシン・ナガンの通称でも使われることがあるが、ゾーニャに言わせればジジババ田舎者が使う単位だ。
まったくヴィカときたら、どうしようもないロリババアなんだから。
ふーんと頷きながらゾーニャは続ける。
「じゃあ、さっさと行けばいいんじゃないかな。いちおう腐れ縁だしね、危なくなったら援護してあげるからさ」
「殺すな」
瞳孔を開いてヴィカは命じるように言う。
身長一四七センチの矮躯から放たれたとは思えぬ気配を漂わせる。感覚器は鋭敏なままに感受性が鈍っているというか、殺気を向けられることに慣れているゾーニャでなければ怯んでいたところだ。
ゾーニャが投げ返す深淵めいた色合いの視線と、ヴィカの
「わしは話し合いに行くだけじゃ。凶行を止めるだけで、争うつもりはない。おぬしの出番はないぞ」
「ヴィカにかってに死なれて、あたしは約束を破られるのがイヤなだけだよ」
意見の相違に落としどころを見つけないうちに、ヴィカは消えていた。
ゾーニャはヴィカを見送ると、ゆっくりと地面を踏みしめる。モシン・ナガンを顔の高さまで持ち上げ、床尾を肩に、頬を銃床につけPEスコープを漆黒の視線にあてがった。
イジェフスク工廠の刻印が押されたマウントは、戦争が終わった今でもしっかりとスコープを支えている。
八路軍の兵士たちは、肉眼で見ると細部は見て取れないが輪郭は滲んでいない。ゾーニャの視力からすると、四〇〇メートルほどの距離だ。
宣言通り、一方的に殺せる。
スコープ使用時のモシン・ナガンの有効射程は約一三〇〇メートル。ゾーニャの技術ならば、余すことなく活用できる。
ヴィカは殺すなというが、では、いったいどうやって武装した人間を止めろというのだ?
できるのなら、ソビエトとナチスは互いの存亡をかけて戦争なぞしなかった。
ゾーニャは生い茂る植物を一瞥する。森のなかは、草塊や倒木も多い。姿勢を低くすれば、視界に影響を受ける。
撃てば八路軍の兵士たちは反撃するか? いや、ひとまずは逃げるか身を隠そうとするだろう。ならば照準速度と、狙撃位置の変更のしやすさを重点に置くべきか。
ゾーニャはそのまま姿勢を変えなかった。一般的な射手がするように、座りも伏せもしない。精密さとは真逆の、立射の姿勢でスコープを覗き込み照準する。
オリンピックに出場するような競技射手ならばともかく、およそ戦場に立つ狙撃手にとっては邪道のかまえだ。
立射は目立つが、正規軍ほどの火力を持たない八路軍の兵士たちでは、仮に発見されても反撃は覚束ないという確信がある。
ナチスドイツに、狙撃手を排除するために迫撃砲や重機関銃どころか戦車砲すら叩き込まれたことのあるゾーニャに言わせれば、ないも同然だ。
ソ連の侵攻時に満州国側の守備隊が持つ三八式歩兵銃と戦ったこともあるゾーニャの知識によれば、あの小銃は最大二〇〇メートルほどまでの交戦距離を得意とする。四〇〇メートルも離れれば、練度が低いという彼らでは当てられまい。
この距離は、ゾーニャにとって有利だ。
まあ、精度に優れる伏射だって万能じゃない。胸が地面につけば、狙撃において重要な要素である呼吸が阻害されやすいのだから。
上半身を反らす。銃と体の重心を密着させる。右手は軽く添えるのみにとどめ、引き金に指の腹を触れさせる。左腕は骨盤の上に。
ライフルの重量は利き手はおろか左腕にすらかけない。
ライフルの存在を支えるのは、左腕の台座となる骨盤の役割だ。
骨だけが、銃を安定させるのだ。
「ねえアーニャ。狙撃の瞬間なんてものは、そんなにたのしくみえるのかな」
声に出さず脳内のみにとどめながら、無感動にひとりごちる。
もっともっと遠くへ。ずっとずっと向こう側へ。遥か彼方に弾丸を飛ばせば、おもしろいにちがいない。もしそれが、無限の彼方へ続く永遠の滑空ならば、なおさらだ。
ただそれだけなんだ。
一九四六年、かつて満州と呼ばれた地。極東のある夏の日は、昨日まで降っていた雨があがり、蒸した暑さが訪れつつあった。
いまだサビ猫の残り香を記憶する鼻先は、温度と湿度の上昇を感じている。
フィンランドの英雄も、ドイツの勇者たちも狩りとってきた天性の才能が告げている。
今日は狙撃をするには良い日に思えた。
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