第06話 約束と、姉の教え

 ゾーニャはヴィカが「デカケツ」と言ったように、下半身がずんぐりとしている。ふとももが太い。尻がでかい。

 だれが見ても口をそろえて褒めたたえる立派な体型である。若い下級兵士が着替え中のゾーニャの生尻ふとももを見て「上半身に対して下半身が恵体すぎるだろ……」と感想を述べるくらいには魅力的だ。


 それはつまり、、ということだ。

 

 女性の骨盤は、男性のそれよりも位置が高く外側にせり出している。


 立射のさい、多くの女性射手はライフルを支える左腕を骨盤に乗せ、骨の密度という絶対の信頼性をもって照準を安定させる。それは女性が立射時の射撃において、平均的な男性の射手よりも精密さを増大させる、重要な要素のひとつだ。

 つまり、女性射手は性差による骨格の構造の違いという覆しようのない利点を持っていると言える。

 

 そしてゾーニャの尻は、平均よりも大きい。


 お尻の大きさは、並の狙撃手を圧倒する立射時の超精密狙撃を可能とするのだ。


 ヴィカときたらまったく。思慮深いように見えて、やたら直情的なんだから――心のなかでため息をつくゾーニャ。


 春に出会って数か月だが、最初に殺しあって決着がつかなかった結果、ヴィカとはもはや腐れ縁だ。

 敵対する者に手心を加えることをしないゾーニャとて、争った後に同じ釜の飯を食った人間は、また別の関係性になっていると考える。


 さすがに、危険に首を突っ込むのは自業自得とはいえ、いまになってヴィカを見捨てるのは心苦しい。


 それに。新しい芽吹きをもたらす春の陽光のなか、白樺の大樹の前で交わした約束がある。首筋から真紅の血を流すゾーニャの前で、ヴィカは額を地面に擦り付け乞うたのだ。


 だから、約束してやった。あたしが満足するまで、この亡骸の国をともに歩き続けると。


 照準を続ける。利き目の左でスコープを覗く。大祖国戦争中みたいに撃った相手を数えてくれる相棒はいないので、戦場を敷衍するために右目は閉じない。

 こうすれば全体を把握できるし、一発撃った後にすぐ標的を切り替えられる。


 大祖国戦争、か。照準に集中しているというのに、一瞬、ともに戦場を過ごしたあの娘を思い出す。最長の相棒だった少女。人形みたいに綺麗で、そして最後には生来の弱さゆえに心を壊した。

 心が懐古に蚕食されそうになるのをあえて無視し、気が付かないふりをし、努めて平静を保つ。


 肉体のしじまを保て。筋肉を震わせるな。心拍数を一定に。なめらかな呼吸を心掛けろ。


 右の視野では、うろんな影たちに向かってヴィカが歩んでいく。


 左目は、堂々と姿を現すヴィカに気が付いた指揮官格らしい男を捉えている。三八式歩兵銃をかまえ気色ばむ部下に、灰がかかった青の軍服を着た男は片手をあげて制止する。面をヴィカに向け、闖入者を詰問しているようだ。


 戦場ならば、下士官を優先して狙うべきだが。


  ゾーニャが狙いを定めるとき、いつも脳裏に響くのはライフルの師であり一家の中心だった姉の囁きだ――「ちいさな妹よ。けものクィールを撃つとき、射手が考慮しなければならないのはなんだと思う?」


 大切なのは――彼我の距離? 風の強さ? 風向き? 圧縮された前方の空気が作り出す見えない壁? ライフリングにより偏る側方向へのずれ? この地球が回転する不可視の力?


――違うぞ、ちいさな妹よ。


 記憶のなかで姉が囁くのは、一年のうち半分にあたる冬景色のなかだ。


 シベリア。暖かな色が失われた世界。一面に積もるのは雪と氷だ。気温がマイナス五〇度に低下する、氷結した故郷。もっと下がる場所はマイナス七〇度近くまでいく。


 それなのに、短くも猛烈な夏は三〇度まで上昇する。実に一年の寒暖差一〇〇度という、神様が設定ミスしたとしか思えない地が、ふたりの故郷だった。


 あれは一九三〇年代、八番目の月アクフシュンニュ(ヤクートの12月)のことだった。

 遠くには黒々とした暗い針葉樹林ダフリアカラマツが広がっている。サーモカルストの発達の第一段階、北方森林帯タイガの濃い緑の絨毯に虫が食ったような湖沼が複数あり、草原が数え切れないほど存在する空間。


 林隙草地アラース


 ゾーニャの生きてきた地。


 今日は雪が降り積もっていた。乾燥したシベリアには珍しい。白い雪原には、冬毛に身を包んだヘラジカの黒い影がぽつぽつと踊っている。集団でいるのは馬群タブンを形成する、大切な食料でもある飼育馬たちだ。人間ですら平然と襲う飢えた狼が、どこかで陰鬱に吠えていた。


 吐いた息の水滴すらすぐさま氷となり、深く息を吸えば肺腑すら凍え、油断すれば眠るように死ねる世界。


 そんな凍結地獄だからこそ、姉の美しさを際立たせていた。


 だれよりも物知りで経験豊富だった姉は両腕を広げ、白い空間でこの世の中心であるかのように、流麗にくるりとまわる。


 まるでロシア人たちが信じる、雪の娘スネグラチカだ。

 ううん――もっとふさわしい言葉がある。ヤクートに伝わる伝説、サハ語でいう豊穣の女神アイーシット。三層世界のうち神々が暮らす上界ウエヘェ・ドイドゥから女神が降り立ち、人や動物、精霊が暮らす地上オルト・ドイドゥに顕現すれば、きっと姉に似ているに決まっている。


 低い背丈に似合わない狩猟用のベルダン・ライフルを抱えたゾーニャの眼前で、グローブに覆われた左右五本の指が、冷えた宙をかき回す。


 姉はなにかを掴み取ろうとしている。


「大気だ。我々のような銃をたつきとする者は、大気を知らなければならない。銃弾のように小さく高速で回転飛翔する物体にとって、大気というのはひどく重く粘つくものなのだ」


 円舞を終え、姉は華麗に一息つく。吐息は純白のダイアモンドダストとなり、大気に砕けて混ざる。肺腑が凍り腐れ落ちないようにする、独特の短く浅い呼吸だった。


 トナカイ革のグローブに覆われた人差し指を伸ばし、姉はゾーニャの鼻先へ優しく触れる。


「大気の状態を感じるのだ、妹よ。わたしのかわいい小さなフェーディチカ。お前の鼻は、エフェよりも鋭い。大気を知れば、きっと良い狩人になれるぞ」


 ゾーニャの思考は、遥かな過去から現代へと縦横無尽に駆ける。


 夏の中国大陸は、シベリアよりもずっとずっと気温が高い。この暑さは、発射装薬の燃焼速度を上昇させ金属を膨張させ銃身の圧力を高め、弾丸の初速を段違いに加速させる。


「共産党員のコーリャが言っていたろう。あいつは村一番、頭が良い。大気には水以外に、窒素だの希ガスだのといった重いものがたくさん含まれている。ま、わたしにも理解しがたい話なのだが」


 屈託なく記憶のなかで姉は笑う。


 雨上がりの翌日は、湿度が高い。


 水気が増える。大気中の水分が増える、つまりは重量比で軽い水の割合が増えて、その他の物質、重くネバネバしたものは押しのけられていく。


 大気の密度が下がるのだ。密度が下がれば弾丸はより遠くへ飛翔する。仮に一〇〇メートルの距離において、湿度が一〇パーセント変われば着弾点は一センチ近くずれる。


 今日は零点規正ゼロインを行った日よりも、気温も湿度も高い。たかが四〇〇メートルといえど、大気状態が銃弾の直進に大きく影響するのは確実だ。


 幻視が消えていく。在りし日の幼いゾーニャはつつかれた鼻を片手で抑え、瞬きを繰り返す。


「むずかしくてよくわからないよ、おねえ」


「暑くてむしむししていれば、弾は遠くまで飛ぶということだ、ちいさな妹よ。照準に注意するんだぞ」


 困惑する妹の頭を優しくひとなでし、姉が諭すように言ったことを、ゾーニャは生涯忘れないだろう。


「さあ、狩猟の主バイアナイに祈ろう」

「うん、わかった。下界アールアラー・ドイドゥから、悪霊アバーフが狩りの邪魔をしに来ないようにしなきゃね」


 姉がウォトカが入った瓶を傾ける。ゾーニャはマッチを擦り、酒に火を灯す。聖なる火。アルコール濃度の高い酒はぱっと燃えた。ヤクートの様式に正しくのっとった祝福儀礼アルグスだ。

 ウォトカを火に捧げて、ふたりはあらゆる場所、物、動物に宿るイッチのひとりにお願いする。祈りを唱和させる。


「聖なる狩猟の主よ、私にヘラジカを下さい」


 ヤクートの狩りで重要な動物は二種類。熊とヘラジカ。ヘラジカは単にけものクィールと呼ぶ。その真の名を言ってはいけない。なぜなら耳聡く聞きつけた悪霊が狩りを妨害するからだ。

 祈りを終え、姉妹は互いを慈しみながら真剣な面持ちで森へと入った。


 そんな姉も、もういない。


 戦争の英雄たちは、時代と国家が求めた者たちだ。彼ら彼女らは讃えられ、謳われ、伝説となる。

 五百人殺しのイヴァン・シドレンコ。スターリングラードで名を馳せたヴァシリ・ザイツェフ。ルーズベルト大統領夫妻とも出会いソビエトの広告塔を担ったリュドミラ・パヴリチェンコ。栄誉勲章をすべて授与された〝マーマ〟ことニーナ・ペトロヴァ。美しい赤毛のローザ・シャニーナ。


 ソビエトには大祖国戦争で歴史に名を残した狙撃手たちが大勢いる。


 だが語られない英雄たちがそうであるように、姉もまた欧州の路傍であっけなく死んだ。屍を葬った墓標はない。


 ゾーニャは思考を過去から切り離し、現実へと帰還する。


 姉の教え通り、大気の様相を照準に加味する。


 つまるところ、きょうは狙撃をするのによい日、だということだ。


 ゾーニャは右目で捉えた人影に、狙いを変える。引き金に添えた指を、絞るように押し込んでいく。

 殺しの瞬間だというのに、指先にかかる負荷はひどく軽かった。


 発射音と同時に銃口が跳ねあがる。弾丸は空中を掻き分け、満州の大気に穴を穿つ。


 到達時間〇・六一秒。7.62mm×54リムド弾の直撃を受けていたのは、木立からヴィカに不意を打とうとした伏兵の頭部だった。


 狙撃手が目標の死を中断なく目にすることは少ない。銃撃の衝撃でスコープが視線から外れるからだ。

 だからたいがい、撃ったあとに見るのは銃弾を受け、くずおれる段階だ。


 頭蓋を粉砕された男が、地面に膝をつく。


「油断大敵だぞ、ヴィクトリア小沢。ちゃんとまわりを警戒しておけ」


 スコープに干渉しないように斜めに折れたボルト・ハンドルを操作すると、澄んだ音を立てて薬莢が排出される。

 モシン・ナガンは今日も万全だ。

 ボルト・ハンドルを元の位置に戻す。手応えで次弾が薬室へと正確に装填されたのを認識すると、ゾーニャは最初の犠牲者が地面に突っ伏すのと同時に二撃目を放った。


 ふたりめが倒れ、同時にヴィカが叫ぶ。


 たぶん、厳命を無視し、有無を言わさず狙撃したゾーニャを罵っているに違いない。灰青色の指揮官が静止させていた左手を払い、部下たちに散開と反撃射を命じる。下っ端兵士の射撃を、ヴィカは片脚で地面を蹴りつけ跳んでかわした。


 銀の残光が日差しのなか閃いた。流星群のように奔ったそれは、八路軍の男たちに突き刺さり、血の飛沫が迸った。

 反射的にヴィカが投擲した投げナイフだ。


 戦いが始まったのだ。

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