第07話 コサックの血脈(上)
ヴィカはたくみに近付いていく。進むにつれ姿を隠してくれるブナの木々はまばらになっていくが、気配を殺し、足音を殺し、影を思わせ歩んでいく。
それは、満州の野で生きていく術を教えてくれた兄たちから継承した技術だ。人の気配に敏感な野生動物を狩るのを、彼らは得意としていた。
故郷ハイラルがソ連赤軍に占拠されたあとも、ヴィカは家に戻らずタルバガンと呼ばれるリスに似た動物を始め、狩猟を中心に野で過ごした。
兄たちは実戦的な隠密技術をどこで身に着けたのか。
大部分は革命の地・赤いロシアから満州へと逃れた、コサック一族からだ。そして兄と兄の親友は同じ志を持ちながら、進むべき道が分かたれた。
ヴィカの師事した兄の親友、ザファー・レベデフは浅野部隊に所属していた。
浅野部隊の正式名称は、白系露人部隊。満州国の建国に深くかかわった日本人の急進的・過激的な組織である関東軍が、来たるべきソビエトとの戦いを睨み反共コサックを中心に設立した部隊だ。
ロシアの生活様式を深く知る彼らは、形式上は満州国軍だが、実際には関東軍情報部お抱えの対ソ謀略部隊である。北満から国境を越えて密かにソ連側に渡り、さまざまな工作活動を行うのを目的としていた。
ザファーがいたのは、七〇万もの陸軍兵士を大動員した大日本帝国の対ソビエトへの軍事的野心である
彼らはただの一度も、真価を振るうことはなかったが。
ザファーは、兄がハイラルを去ったあとにヴィカに自らの知る生存技術と、戦い方のすべてを教えてくれた。まるでいずれ、ザファーやじいさまがいなくなるのを見越したかのように。
彼が胸中に隠していた思いは、現実となった。ザファーもまた今や記憶のなかにしかいない。
無音のそよ風のように、ヴィカは男たちの間近にあらわれる。
「なぜ撃ったのじゃ」
白系ロシア人を始め、五族協和をいただく日本人、漢人、満人、蒙古人、朝鮮人が入り乱れる人種の坩堝である北満で過ごしたヴィカは、現地人レベルとまではいかないが、複数の言葉を喋ることができる。
中国語で突然声をかけられ、三八式歩兵銃を持った若い男がぎょっとして顔を向ける。双眼鏡の七倍望遠からは辛うじて判断がついたが、間近で確認し確信する。
蒙古人や朝鮮人ではない。男たちは漢民族だとわかった。
やはり、共産党八路軍。
「こいつ、いつの間に」
「俺が命令するまで待て、
中年の男が左手を上げ、歩兵銃をかまえる若者を制する。灰青色の制服を着た八路軍の指揮官らしき男だ。厳格な口調から、若者の短気と軽率さを戒めているようだった。
舌打ちが小さく鳴った。
「あんたはそればかりだ、班長さんよ。俺が撃たなきゃ全員に逃げられていた」
楊と呼ばれた若者がいかり肩で反論する。
八路軍は階級章なき軍隊だ。あるのは指揮命令と責任系統の位置付けだけで、指揮官は階級ではなく組織単位の責任制で統率されている。
八路軍はソビエトに倣い仲間を
どこの組織にも反抗的な人間はいる。互いに敬意を持たぬ指揮官と楊の間には、断絶があるようだった。
若者の銃口はいまだ熱を帯びていた。
視界の端には倒れた男と女が、合わせて三人。
和服に脚絆。双眼鏡で見たときに推測した通り、やはり日本人だ。
アメリカと中国共産党との責任において、満州に取り残された日本人民間人の引揚事業が開始されたのはごく最近だ。大半は列車に乗り船が出ている南満の港を目指すが、乗り遅れた者、あるいは金銭的な事情から乗れなかった者も大勢いる。
うつぶせに倒れた男は禿頭で、老齢に達しているのがわかった。年をとりすぎていたので、ソ連兵にシベリアに連行されずにすんだのだろう。ふたりの女のほうはまだ若い。
偶然の連れ合いか、それとも家族だったのだろうか、判断はしかねた。危険に身を曝してなお助けられるならば助けたかったが、もはや遅きに失したのは明白だ。
彼らはすでに死んでいる。
頭に空いた穴から血が流れでるように、魂が抜けた肉体はもう語ることはない。
意識して亡骸から目を離し、周囲の兵士たちを見回す。
「おぬしたちは八路軍と見受けられる。新しい国を造ることを目的にしている八路軍が、日本人の難民を撃つ理由はあるまい」
挑むような視線を向けると、指揮官は開きかけた口を閉じた。心象の伺えぬ表情でヴィカを見つめる。実直な軍人であるこの男は、忠誠と恥がせめぎ合い、葛藤しているようにも思えた。
楊が唾を吐き捨て、銃口をヴィカに向ける。
「おまえ、なんなんだ。刃物に小銃。なんで女のくせに武装してる。白系ロシア人にも見えるが、それにしちゃあ流暢に俺らの言葉を話す」
訝し気に詰問する。
ヴィカは脅すような言葉に答えない。無数の刃物も、背中の小銃も、どちらも生き延びるために必要だったから持っているに過ぎない。
「二度問わせるか。わしの疑問に答えてほしいのじゃが」
緊迫した空気が満ちる。
相手は指揮官と若者を含めて九人。典型的な一班構成。
主な武装は大日本帝国製の三八式歩兵銃だ。かつての日本兵の主力小銃で扱いやすく命中率も優れているが、威力はそれほどでもない。指揮官は中国大陸で流行ったモーゼル・コピーの自動拳銃もベルトに挟んでいる。
彼らは突然現れたように見えるヴィカを警戒し、じりじりと円を組むように広がっていく。
古めかしい八路軍の制服を着ている指揮官とは違い、部下たちは短い爪と、タコだらけの指で三八式を握っている。日々を重労働で過ごしている証だ。専属の兵士ではあるまい。
農民か、
一九三〇年代に都市労働者の組織化による一斉蜂起を目指し、
ならば、指揮官以外は農民あがりだろう。
視界と気配で男たちの動きを把握しながら、ヴィカは腰のキンジャールの柄を握っている指先に力を込めた。
触れていると、勇敢だったザファーがそばにいてくれる気がする。
自分を叱咤する。怯えるな。数は不利だが、場数はこっちが踏んでいる。
ロシア革命時に共産党と敵対したコサックの
ソ連兵に追いかけまわされるのに比べれば、こんな状況、危険ですらない。
ヴィカの一連の動作に目を向けた指揮官が、なにかに気が付いたように目をすがめた。顎を掻きながら、ゆっくりと口を開く。
「嬢ちゃん。
指揮官の言葉に、ヴィカは心臓に冷たい刃を差し込まれた錯覚がする。なぜこの男は秘匿部隊であった浅野部隊のことを知っている。
それでも、表情を保ち、語尾を震えさせることなく、ヴィカは完璧に答える。
「いや、知らぬが」
八路軍の冷徹な指揮官が睨め上げる。
「お前、過去にロシア皇帝に忠誠を誓った反共産主義コサックの縁者だな」
なのに、素性を言い当てられた。
張り詰めた空気に最後の一押しをしたのは、粗暴な若者だった。
「問答なんかしている場合か。
「待てといったぞ、楊!」
「
ターピーズ? ターピーズとは鼻でか野郎、つまりはソ連赤軍の兵士を揶揄する中国語のスラングだ。ソ連の、つまりはロシア人か? ロシア人が日本人を探している? ソ連撤退後の今に? 春になってからソビエトの軍隊は大部分が占領下においていた満州から去っていった。
現在はハイラル周辺にのみ部隊を展開しているにすぎない。
若者の言葉に疑問が連なって生まれ、ヴィカは逡巡した。
指揮官が部下の失言をたしなめようと大声をあげたとき。
枯れ木を踏み折る音が小さく鳴った。ヴィカは思考を中断し、すばやく目線を送る。線路のそば、ブナの大木の陰に伏兵がいたのだ。その男が狙いのために一歩踏み込み、不用意に小枝を折ったのだ。
員数外の兵士。典型的な班、九人構成だと思い込んでいた。意識の外にあったため、反応が遅れる。
撃たれる。伏兵が三八式をかまえた瞬間。
頭部が吹き飛び、脳と肉片と頭蓋がまき散らされる。間髪入れず銃声が響いた。
ゾーニャの狙撃だ。
「よけいだぞ、ゾーニャ」
安堵のなか、同時に助けられた自分に嫌悪を抱く。疑問と口惜しさも湧いてくる。なぜそんなに簡単に撃てるのじゃ、ゾーニャ。お前は殺しすぎるぞ。
呟きは口内に消えた。傍らにいない相手に疑問をぶつけている余裕はない。
春にソ連が満州から撤退してからの腐れ縁、いちおうは相棒扱いからのモシン・ナガンの一撃が皮きりだった。
もうひとりの男が木陰から姿を現す。仲間が撃たれたことに動揺してたたらを踏み、半身を露出させていた。十一人目の男。さらにもうひとり。
伏兵。予想よりも数が多い。全部で十二人。ということは、三組つまりは一班ではなく、四組十二人の編制だったのだ。
「撃つな、ゾーニャ! それ以上はいい!」
叫ぶ。だがもはやどうにもならなかった。
言葉を吐き終える前に、動揺し姿を露見させた男が血飛沫をあげる。着弾、半瞬遅れて発砲音。頭蓋から血を噴出させ、糸の切れた人形のように男は倒れ伏す。
いずれも一撃で仕留めている。距離は四〇〇メートルほど離れているはず。並の射手では命中すら覚束ない射程だ。
認めたくはない。だがゾーニャはなるほど、言うだけのことはある。いい腕をしている。天才的な殺しの技術だ。
これほどの非凡な射撃の才の持ち主は、ハイラルにもいなかった。
「仲間がいるのか? 見つけてすぐ撃たないからこうなる!」
楊の叫びに呼応し、怯える顔つきで十二人目が引き金を引いた。半端に小銃を持ち上げた、腰だめ射撃。
安易で、わかりやすく、遅々とした照準だった。
引き金が押し込まれると同時に、ヴィカは次の行動に移っていた。撃針が銃弾を叩いた瞬間、ヴィカは咄嗟に飛びのく。乾いた銃声が木霊する。予測していた経路を通り、弾丸が飛来する。
ごく単純な経験則に従い、ヴィカは銃撃を躱してみせる。
ほぼ反射的に左手で大腿部の投げナイフを二本、引き抜く。手首のスナップを効かせ投擲。ヴィカの無意識下に生じた脅威度判定に従い、銀の閃きがふたつ、今しがた撃った男と楊に向かう。
悲鳴はあがらなかった。
左胸に投げナイフが突き刺さり、男はもんどりうって倒れる。刃の軌跡をなぞるように空中に血の糸が伸び、千切れ、飛沫となって散った。
形容しがたいもがきを残し、男は末期の叫びをあげる猶予すらなく絶命する。
ゾーニャに殺すなとは、言った。
では、自分が今の投擲で相手を殺すつもりはなかったといえば、嘘だ。ヴィカの根底に流れる騎馬民族、血気盛んな戦士の血が本能的に反撃を選び、さらなる攻撃を受けぬよう、相手の急所を狙ったのだ。
絶対の殺意が、そこにあった。
自分に流れる血は、戦いに身を置いてきた者たちの系譜であるとヴィカは自認している。ロシア帝国を革命により滅ぼした、あの強大なソビエト共産党に戦いを挑んだコサックの血を引くのだから。
理想や、矜持や、信念と口にすれば殺しもまた正義と肯定されるだろうか。
殺しは初めてではない。ただ戦争に身を置かなかっただけだ。自らの責任において殺すのならば、修羅でいられれば楽だったに違いない。
だが、殺してなお、なんの痛痒も感じないほどヴィカはすさんではいなかった。
「恨んでくれてかまわん。是非もなしじゃ」
またひとつ、闇の淵に身を沈める覚悟を決めねばならなかった。
引き金が引かれ、戦いが厳然と出現し、ある夏の昼下がりが血と混沌に満たされたのは、他ならぬヴィカ自身が八路軍と接触したことが原因なのだから。
「くそったれ、なんだってんだよ!」
罵り声。死んだ男よりも、楊はわずかに早かった。顔面を狙われていると判断し三八式を振り上げ、投げナイフを自分の武器を犠牲に受け止めたのだ。
だが。機関部に刃が刺さっている。傷は負わせられなかったが、ともかく、三八式歩兵銃は使用不能にさせたようだ。
「殺してやるぞ、小娘が!」
楊がヴィカにもう一度罵声を浴びせ、壊れた三八式を投げ捨てる。彼は日本兵とは違い、天上人より賜った小銃になんの価値も抱いていないのは当然だ。
楊はブナの若木に慌てて隠れ、ゾーニャの狙撃から逃れようとする。一連の動作のさなか、腰に挿していた自動拳銃を引き抜いた。
ドイツ製の自動拳銃に似ているが違う。日本軍から奪ったのだろう、十四年式の南部自動拳銃だ。
やらねばならぬのなら、容赦の必要はない。柄から右手を離す。ヴィカは隠すように背負っていた、じいさまの形見であるフェドロフ・ライフルを引っ張り出し、両腕でかまえる。
ひとりでに、正教会の祈りの言葉が漏れた。
「
果たして罪人の囁きは神に届くのか。
疑問を意識の下に沈め、全力で戦うことをヴィカは選んだ。
フェドロフ・ライフルは帝政ロシアにより三十年前に開発され、じいさまが騎兵隊として馳せ参じたロシア革命のさいには体制派・革命派、白にも赤にも両軍を通して使われた最初期の自動小銃だ。
ヴィカが照星に視線を合わせ、引き金を押し込むと、か細い吠え声をたてて銃弾が次々と発射される。
途切れのない連続射撃。
まき散らされた弾丸が大気を引き裂き、運動エネルギーの尽きるまでどこかへ飛翔し、あるいはまばらに生える草塊や木々を撃ちぬく。
運悪く命中弾を受けた兵士がひとり、でたらめに四肢を躍らせ倒れた。
「自動小銃!? なんてものを持ってやがる」
楊が驚愕する。叫びが、木霊する銃声と硝煙の臭いに掻き散らされていった。
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