第08話 コサックの血脈(下)

 自動火器の熱い飛礫が宙を駆ける。周囲の大気が掻き乱され、慄いた男たちは混乱の極みに陥っていた。突如銃弾が飛び交う戦いの空気に怯え、まごつき、冷静さを欠いている。思い思いに木々に隠れたり、身を低くしたりし、逃げ惑う。

 軽機関銃の類すら貴重で、手動装填の三八式を主武装とする八路軍の兵士から見れば、引き金を引くだけで弾丸を連続で放つ個人携行の自動火器は珍しいのだろう。


 とはいえ。ヴィカはフェドロフ自動小銃の扱いには少々苦労していた。腕のなかで照準が暴れまくる。使用弾薬が6.5mm×50SR弾、つまりは三八式歩兵銃と同一の小口径弾を数発毎に区切った連射といえども、小柄なヴィカの手に余る反動だった。

 銃口が跳ねあがり、狙いが外れる。弾倉は軽くなる一方に対し、男たちの数は減っていない。


「びびってねえで撃てよ、お前ら!」


 自分は木陰に潜みながら、楊が部下を怒鳴る。大声が男たちを踏みとどませる。


 牽制射をしつつ移動。かなり弾丸を消耗している。八路軍兵士の照準を批評しておきながら、ヴィカの射撃は一流とは言えなかった。

 ゾーニャならばもっと巧みに扱っただろう。ヴィカは射撃に関して、彼女ほどの才能がないことを痛切なまでに思い知った。


「怯えるな! あんなふうに動き回って無闇矢鱈に撃ったところで、あたりはせん」


 指揮官が部下を叱咤する。あの男の言うとおりだ。距離は近いというのに、右往左往して弾幕から逃れようとする男たちを最初のひとり以外捉えられないのだ。景気よく連射していたら、あっという間に残弾がゼロに近くなる。視線をちらりと走らせる。すぐそばに大きな倒木。腐食が進んでいるが、いまだ原型を留めている。

 壁になってくれそうだ。


 滑るように移動し、倒木の陰に身を潜ませる。しゃがみ込み、最後に三発撃つ。弾が尽きた。箱型弾倉内の二十五発を全弾使い、ヴィカは射撃を中断する。フェドロフ自動小銃は今の時代をもってなお先進的な設計思想ではあれど、すでに第一線を退いた古すぎる小銃なので、弾は不自由しなくとも予備の弾倉となると貴重品だ。


「せめてあと一個ほしいところじゃが」


 二個目にして最後の弾倉交換を行う。射撃が途絶えたヴィカの隙をカバーするかのように、ゾーニャの狙撃がまた、八路軍の兵士を撃ち倒した。


 歯ぎしりをし指揮官が叫ぶ。


「遠距離に腕のいい射手がいる。散開して木々を遮蔽にしろ、狙わせるな! まずは見えている敵に集中しろ! こうなっては殺してもかまわん」


 鼓舞するように左手を振るう。逃げ隠れするばかりだった八路軍の兵士たちも、上官の一言で最低限の士気を保ったようだ。銃口をヴィカに向ける。


 散発的な射撃が倒木を穿つ。充分に厚い幹は、弾丸を防いでくれた。

 弾倉交換完了。ヴィカは身を低くし、倒木に銃身を押し付けるようにかまえ、台座代わりにフェドロフ自動小銃を連射する。


 断続的に銃声が鳴った。銃身の跳ね上がりに注意しながらヴィカが撃っていると、膝を折って射撃していた男がひとり、倒れる。

 満足してはいられなかった。指揮官に命じられ、右手側から男たちが回り込んでくる。一発必中の腕がないことを理解しているヴィカは、引き金を引きっぱなしにする。連射しつつ狙いを定めた。


 当たらない。木々に阻まれ、一発も命中弾がない。


 フェドロフ自動小銃が長い銃声の尾を引き、沈黙する。残弾無し。弾倉へ直接弾丸を込めるのは、時間がかかりすぎる。


「弾が尽きたか、追い込め!」


 射撃が終わったことを理解した指揮官が命じる。回り込んできた男がふたり、指揮官たちの援護射撃を受けつつ一気呵成とばかりに突っ込んでくる。


 士気が回復したのか、拙いながら連携している。ヴィカをその場に留めるために射撃が繰り返される。そのたび、ブナの腐木が破片をまき散らす。


 弾を使い尽くしたことを嘆いている暇はなかった。


 隠れていても状況はよくならない。ヴィカは思考を巡らせる。ナイフやキンジャールはまだある。吶喊する? 射程は相手が有利だ。真正面から飛び出せば、前衛か後衛、どちらかを倒しても片方に撃たれる。周囲を見回す。森は密度を減らし、林となった木々がヴィカを取り囲んでいる。木々はヴィカの銃撃を阻んだが、それは八路軍の兵士にとっても同様だ。

 利用しろ。自然を、地形を使え。腹をくくらねば。声に出して自らに決断を促す。


「このままではジリ貧じゃぞ、ヴィクトリア小沢」


 負い紐を外し、ライフルをその場に置く。じいさまの形見なので放置するつもりはないが、弾切れすれば死荷重になるだけなので、持っていても仕方がない。


 指揮官の命令に合わせ、後方に控える男たちが三八式を撃った。威嚇のための射撃だ。


 タイミングを見計らえ。


 弾丸が頭上を越えたのを確認すると、ヴィカは地面を蹴り上げ走った。


 背筋を殺気が伝う。迫りくる男たちが走るヴィカへと銃口を定めているのだ。


 引き金が、ひかれる。


 ヴィカは助走をつけ、大きく跳んだ。体重の軽さを最大限に活かした、軽業師めいた動き。身体のバネの強さは人並み以上だという自負はある。身に纏っている藍のチェルケスカの裾をひるがえし、両腕を伸ばす。空中で手近な枝を掴む。さらに勢いをつける。速度が最大限に達すると、手を放し砲弾のように宙に飛び出した。膝を折り抱え、宙でくるりと転がり被弾面積を極小に保つ。

 小銃弾が体表に沿って流れ、傷ひとつつけることなく駆けていった。


 視界が流転する。回転浮遊しながら銃撃を躱してみせると、ほぼ同じタイミングで後方の指揮官たちが引き金を押し込み始める。部隊のなかでも指揮官の射撃だけは別格だった。

 きちんとした偏差射撃だ。宙にいるヴィカの落下地点、未来位置を予測し、狙いを修正している。農民たちよりも正確で、殺意がこめられ、度胸がすわった射撃だった。


「南無三じゃ!」


 ヴィカは空中で左手をひねり、先ほど外したフェドロフ自動小銃の負い紐を振るった。


 同時に発砲音。ぶるんと振るわれた負い紐が弧を描いて太い枝に絡みつく。左腕に衝撃が走る。それでも手は離さない。力を込め、身体を幹に引き込むように空中で軌跡を強引に変える。


「猿かよ……!」


 信じられないものを見たように楊が漏らした。ヴィカは力技で横っ飛びし、屹立するブナの樹側面に両脚をつける。


 負い紐を起点に全体重が左肩に圧し掛かる。体重が軽いとはいえ、関節がぎちぎちと鳴る。それでも左腕と両脚に力を込め、側面部にとどまった。落下を強引に押しとどめると、指揮官の射撃が狙いを外れた。

 想像だにしなかったヴィカの運動能力に照準がぶれ、連携が乱れているのが理解できた。


 八路軍兵士たちは慌てて全員で撃ったため、全員が同時に手動装填しなければならなかった。楊は自動拳銃のため、狙って撃つには距離が遠い。攻撃が途絶えた。

 巡ってきた反撃のチャンスに、ヴィカは視線を八路軍兵士たちに向けた。追いすがるふたりが見える。自由な右手で投げナイフを二本まとめて抜き放つ。投擲。次弾装填にまごついた男たちに、ヴィカのナイフが到達する。


 ひとりは喉元、ひとりは左肩。投げナイフで追いすがってきた男たちのうち、ひとりを倒した。


 左肩を負傷した男は、果敢に反撃を試みた。右手で三八式を持ち上げる。

 男の後頭部がザクロのように割れ、脳漿が飛び散った。ゾーニャに撃たれたのだ。

 

 残された力で引き金がひかれ、銃弾は明後日の方向に発射された。


 まるでヴィカの身を案じるように、ゾーニャは正確無比な狙撃を続行している。激しい動きの最中でも、ヴィカはそれが理解できる。感謝はすれど、それ以上にひどくもどかしい。ゾーニャに助けられるのは居心地が悪かった。


「なんでこっちの射撃は当たらねえんだよ!」


「狙いがあまいからじゃな」


 悲鳴じみた楊の叫びにぼそりと返す。


 高い位置から、八路軍兵士たちの行動を一瞥する。指揮官の動きが目を引いた。


「特徴的な箒の柄ブルームハンドルじみたグリップ。コピー・モーゼル、四十五口径ACP弾仕様。あれはちと厄介じゃの」


 指揮官は手動装填ゆえに次弾の発射が遅すぎるからか、ヴィカを狙えないと判断したのだろう。三八式を捨てると、ベルトから自動拳銃を引っ張り出していた。


 大口径弾を採用した、モーゼルの中国製模造品ばったもん

 拳銃弾がくる。次弾を発射するのにボルト・ハンドルの操作を必要とする小銃と違い、射程はともかく自動拳銃は引き金をひくだけで弾を発射できる。


 ヴィカの残りの武器はキンジャールのみ。白兵戦に移行せねば道は開けない。自動拳銃はごく近い距離での射撃戦では、狙いが速く小銃よりも厄介だ。


 樹上は観察しやすいが、銃弾に狙われれば避けにくい。ヴィカは負い紐から手を放し、再度樹皮を蹴りつける。銃撃される直前に、節くれた古木から跳ぶ。


 三八式の弾丸が、ごく至近距離を掠めて飛んだ。跳んだ判断が遅れていれば、まともに命中弾を受けていたところだ。


 大地が迫る。細い両脚で軽すぎる体重を受け止め、着地。地面に足をつけても勢いは緩めない。跳んださいの速度に後押しされ、ヴィカは照準を狂わせるために走った。

 銃弾が影を縫い留めようとあがく。ひるがえった砲金色の髪が鱗粉めいた輝きを宙に描き残す。


 一歩二歩三歩と速度を上げ、最後は再び跳躍。


「弾切れ!? 畜生が!」


 楊の射撃が途絶えた。自動拳銃のボルトが後退したままになる。全弾撃ち尽くしたのだ。


 空中で抜刀する。目指す先は、別の男。次弾装填のボルト・ハンドルの操作に戸惑っていた兵士をすれ違いざまに斬撃。

 ザファーから受け継ぎ、手入れを欠かしたことはない。研ぎ澄まされた右手のキンジャールは、男の左腕をいともたやすく切り裂いた。着地の衝撃を両脚で強引にころし、その場に踏みとどまる。


 くぐもった悲鳴が男の喉の奥から漏れる。肉を切られ腱を断たれ、腕の力が緩む。ボルト・ハンドルを持った右手だけでは三八式を支えきれず取り落とす。負い紐がぴんと張り、小銃がゆらゆらと腹の前で揺れる。


 ヴィカを狙った弾丸が、誤って負傷した男を撃ち抜いた。驚愕の表情で別の八路軍兵士が立ち竦んでいる。自分がなにをしたか理解し、硬直していた。同じ部隊の兵士に誤射され、ヴィカが傷つけた男は膝から崩れ落ちた。


 銃撃戦が一時途絶え、束の間、鉄道沿いに静けさが戻る。


 楊は新たな弾倉を取り出し、拳銃に叩き込んだ。かちりと音を立ててボルトが戻る。ヴィカは盾になった死体を放り出すと音もなく移動し、瞬きする隙すら与えず接近する。

 もうすでに銃撃戦の間合いではなかった。楊にキンジャールの刃先を向ける。


「はやっ……!」


「質問に答えてもらうぞ」


 モシン・ナガンの銃声が背後で響く。ゾーニャの狙撃が、先ほど味方を誤射した名もなき八路軍兵士を撃ち倒していた。

 あっという間に十人が死んだ。これで残るのは、楊と指揮官だけだ。指揮官に銃撃されぬよう位置取りに注意しながら、ヴィカは詰問する。


「八路軍は野盗ではあるまい。なぜ非武装の引揚者を狙ったのじゃ」


「……ガキをロシア人どもが探してんだよ!」


 楊は恐慌に陥っていた。眼前の刃が見えていないかのように自動拳銃の狙いを定め、ヴィカに答える代わりに指先に力を込めた。

 だが、銃弾は発射されなかった。


 ヴィカは冷たく見つめる。


「知っておるか? 南部式自動拳銃はの、弾倉を入れ替えたときにつかえが外れ自然にボルトが元の位置に戻り、ホールドオープン状態が解除される。だがこの時点では、その他の自動拳銃とは違い、新しい弾丸が薬室には収められておらん。そこから再装填するには、もう一度ボルトを引かねばならんのじゃ。しかるのちに銃撃が可能となる」


 楊が自動拳銃に目を落とし、もう一度ヴィカを見る。薬室に弾は収まっていない。弾丸は発射できない。自らの失策を理解し、感情が目まぐるしく変化し、両眼のごく浅いところに懇願が漂った。

 青ざめた顔で唇を震わせる。


「知ってることを話せば、見逃して」


 銃声が轟いた。大口径モーゼルの一撃が、楊の頭部をこめかみから撃ち抜いたのだ。粗野な若者は瞬時に事切れ、骨の支えを失ったようにくたりと崩れ落ちる。


「……王八蛋ワンパータン(馬鹿ものが)。もういい、未来永劫しゃべるな。八路軍はあらゆる人間を受け入れるが、自己批判を繰り返してなお、思慮を欠いた賊あがりの人間性は変わらんか」


 憮然とした指揮官の言葉が、残響する銃声に混じった。


「なぜ次代を見ようとせんのだ」

 

 部下を始末した指揮官に理由は問わない。

 ヴィカは身を低くし、走った。


 走りながら、左手でもう一本のキンジャールを逆手で抜き放つ。

 右手のものとは違い、本来ならば兄がじいさまから受け継ぐはずだった刃だ。兄が遥か遠い新京市にある建国大学に旅立つ前に、譲られたものだった。


 まだだ。まだ、短剣の攻撃範囲内には遠い。ヴィカにとって幸運なことに、次弾はなかった。指揮官は楊を始末した射撃で残弾を撃ち尽くしたようだ。それでもまだ、拳銃の射程が有利な距離だ。


 この間隙をついて、距離を縮めねばならない。


 指揮官がクリップを使い一挙に弾丸をモーゼルの弾倉に差し込む。再装填を完了させ、もう一度狙いを定めようとし。


 一瞬で距離を走破したヴィカは、すでに指揮官の間近にいた。歯噛み混じりの呻きが聞こえる。


「まさに駿馬か……!」


 ヴィカは左手を一閃。弧を描いた白刃が、自動拳銃ごと指揮官の右手首を切り飛ばす。絶叫があがり、鼓膜がびりびりと振動する。悲鳴を気にも留めず、ヴィカは右足を軸にくるりとまわり、右手のキンジャールをさらに振るう。

 刃を喉元に触れさせ皮一枚を切り裂き、機械のような精密さで手を止める。


 指揮官の表皮から血が滴り落ちた。


「もう一度聞くぞ。なぜ引揚者を襲ったのじゃ。さきほどお前の部下が言っていた、ロシア人が探している日本人のガキとはどういう意味じゃ?」


「その顔立ちと、巧みな剣さばき。以前、ハルビンで満人どもが噂していたのを聞いた。やはりお前は、大日本帝国の走狗だった反共コサックの一族だな」


「わしの過去はどうでもいいのじゃ」


「俺は知っているぞ。ソ連共産党に故国を滅ぼされ、復讐のために怨敵に忠誠を誓い狗になったというのに、最後は日和った大日本帝国にすら裏切られた」


「……狗でわるいか」


「人の言葉をしゃべるなよ、畜生風情が。いいや、狗ならば拾う者もいるだろうに。今のお前は人でなくなり大陸をさまよう幽鬼だ。日本人リーベンレンの野心に見果てぬ夢を見たか。大日本帝国がこの地にのこした偽満州国ウェイマンチョウグオの残滓め、この世界にお前の居場所はもうないぞ」


 ヴィカの脳裏に滅びの光景が浮かんだ。国境を越えたソ連軍機械化部隊。戦火に呑まれるのが確実な要塞都市ハイラル。結末を知ってなお出陣する仲間たち。対峙するように居並んだ日本兵。


 硝煙と血の臭い。

 銃声と悲鳴。


 絶命する男たちと彼らが愛した馬たち。充満する死の空気。


 ヴィカは割れんばかりに奥歯を噛みしめる。


「狗とて理想と矜持はあるのじゃ。わしらはコサック。名もなき畜生ではない」


 柄を把持する手を震わせ、ヴィカは歪めていた眉を開いた。


「八路軍の指揮官よ。おぬしもまたそうじゃろう。おぬしの名は?」


八路軍パーロの兵士に名などない。姓人民シンレンミン(姓は人民)」


 炯々とした輝きが両眼の奥底から吹きあがる。指揮官の視線に混じった覚悟の光に曝露し、対峙するヴィカはほんのわずか、意識が削がれた。


 ゾーニャが看破したように、ヴィクトリア小沢は感情に感情を返す。それはつまり、感受性が高すぎる、ということだ。得てして相対した人間の心の動きを必要以上に知覚してしまう。


 滅することへの信念と恭順に、心が侵食される。

 だから対処が遅れた。


 指揮官は左手で雑嚢をまさぐる。我に返ったヴィカが見たのは、握られた手榴弾。右手を失った指揮官は、歯でピンを引き抜こうと足掻いた。


 たとえ斬撃をふるったところで、もはや間に合わない。


 動き始めた筋肉の反射は止められない。死してなお指揮官は犬歯に金属の輪を咥えるだろう。覚悟が神経の隅々まで巡り、肉体を突き動かすのだ。ピンが引き抜かれた摩擦熱で着火すれば、信管が作動し手榴弾は起爆する。


 大気が焼き付いた。


 指揮官の頭部、いやその深奥にある脳幹が吹き飛ぶ。あらゆる電気信号が消えうせ、神経反射すら残さず人間を瞬時に停止させる、一撃必殺の狙撃だ。


 肉体は瞬間的に弛緩しくず折れる。


 間髪入れず、稲妻めいた発射音が木霊した。


 眼前にゾーニャの7.62mm弾が飛来したのだ。狙撃銃タイプのモシン・ナガンはその構造故にクリップを使っての五発一度の給弾ができず、装填に時間がかかる。狙撃の間が空いたのは、ゾーニャが一発一発丹精込めてラシアン弾を込めていたからだろう。


 頭蓋の断片が飛んできて、ヴィカの頬をほんの少し切り裂き背後へと抜けていく。末期の思いがこもった一撃だ。治りは遅いに違いない、他人事のようにヴィカは感じる。


 八路軍の指揮官の反撃はそこまでだった。握った手榴弾はピンが収まったままごろごろと転がり、茂る雑草に消えていった。

 着弾の衝撃で、指揮官は木偶のように倒れる。


 とうの昔に絶命していた男は、もう動くことはなかった。


「……よけいじゃぞ、ゾーンチカ」


 抑揚なく呟く。無意識のうちに二刃のキンジャールを振るい、こびり付いた血と脂肪を振り落とす。革の鞘にゆっくりと刃を滑らせ、短剣を収めた。


 死んだ指揮官の言葉が記憶を抉る。


 愛剣を覆うのは簡素な鞘だ。飾り気はないが、丁寧に鞣したもので手間がかかっている。敬愛していた男たちがヴィカのために作ってくれた大切な品だ。


 そして、形見でもあった。


 ザファーはもういない。血にまみれ、斃れた愛馬を優しく撫で上げ、ヴィカに刃と時代を託して逝った。

 じいさまは名誉ある死に方をした。ザファーもまた、ソ連赤軍と戦い果てたかっただろう。それなのに、彼は戦場とは遠い街中で死んだ。

 戦いに殉じるのはコサックの本望だ。


 ゾーニャには、殺すなと言った。


 ヴィカの心の中にぐろぐろとした渦が巻く。あれは本心だったのだろうか。偽善でないとなぜ言える。単に脱走ソ連兵であるゾーニャの力を借りたくなかっただけではないか。現に自分は、ゾーニャの狙撃に怒りよりも、もどかしさを感じたではないか。

 ヴィカは自分の放った言葉の真意がまるでつかめない。骨の無い舌が操る言葉には、実体がない。霧中にある存在を掴むような感覚だった。


 共産主義者は、仇敵だ。ならば襲われていた引揚者を助けるというのは名目にすぎず、八路軍の兵士たちを皆殺しにする結末を、自分は望んでいたのではないだろうか。


 すべてを斬撃し、刎ね落とし、千の破片に切り刻んでも、胸がすくことはないというのにだ。

 ヴィクトリア小沢という少女の自覚なき心には、あらゆる感情が澱のように淀み、怒りに押し込められ沈殿している。

 許しが諦観であり、慈悲ではないと知っているがゆえに。


 それでもなおヴィカは罪悪感とは無縁ではいられなかった。これまでも曠野の中心で神に懺悔し、告白し、許しを願ったこともある。伏せた視線を巡らせると、男たちの死体は変わらずそこにあった。

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