第09話 喪失と、死者と、新たな出会いと

 どこまでも遠ざかっていった銃声が、最後にいっとき長く余韻を残し消失していった。

 スコープの向こう側には、ヴィカ以外に動く者はもういない。


 ゾーニャは立射の姿勢を解く。息を吸い、吐き出す。呼吸を平常時のサイクルに戻すと、歩き出した。発射した弾丸をすべて命中させたことに特段の喜びはない。


「べつに感謝しろとは言わないけどさ」


 戦闘は思惑通りには進んだ。戦時ならさっさと指揮官を撃っていたところなのだが――なにやら剣呑そうなやり取りをしていたヴィカと八路軍の指揮官には、ちゃんと最後に対話の機会を設けた。

 ふたりがどんな話をしたのかは知らない。だが、あのヴィカの動揺から察するとまた誇り高き一族に関することもでも言われたのだろう。


 あの娘は、いつもそうだ。


 おじいちゃんや、お兄ちゃんのことになると直情的になって、後先考えなくなる。理性がぶっ飛ぶ。まるで猪のように猪突猛進だ。


 ヴィカに合流しようと下草を掻き分けて進む。風が肌を撫でた。ゾーニャの鼻孔に、血と、硝煙の臭いがまとわりつく。

 ゾーニャとヴィカが夏の日に生じさせた、戦いの残り香。


 戦場の臭い。死の臭い。終焉の臭い。


 また、名もなき男たちが斃れたのだ。


 ひときわ大きく颶風が吹き込んだ。枝という枝が揺れ、木々の葉が人のざわめきのように擦れ合う。


「ねえ、フェーディシュカ」


 とたん、虚空から声がした。語尾が震える哀れっぽい響き。細やかな息遣いすら忘れない、懐かしい囁きだった。


 うなじの毛が逆立った。電動ノコギリめいた金切り音が耳を聾する。進軍する赤軍兵士たちを真っ二つに引き裂く、グロスフスMG42機関銃ヒトラーズ・バスソーの発射音だ。両手で塞いでも、途切れることのない機関銃の銃声が耳朶を打つ。

 人を撃つ時ですら揺るがなかった視界が滲んだ。涙の膜に緑の森が溶けて、色を流され、くすんだ街並みに変じる。

 死体と弾痕、瓦礫だらけのその場所は、二年前の惨禍をはっきりと映し出している。


 大祖国戦争ヴェリーカヤ・アチェチェストベンナヤ・バイナ――世紀を跨いでなお爪痕を残すと言われる、人類史上最大の殺し合い。地獄と呼ぶにはまだぬるい世界。


 これは幻視だ。だが、忘却の彼方に置き去りにできない、過去の現実でもあった。白骨めいた廃墟にひらりひらり彼女が舞う。痩せた肢体でふわりとを包み込む。


「ふたりでやなこと、忘れちゃおうよ」


 糖蜜みたいな声音であの娘が誘惑する。青い瞳には熱病めいた切望が浮いていた。


 彼女はずっと求め続けている。

 抱擁とか、熱とか、太陽に照らされた人生への渇望といったものを。


 クララ・フェイギナの薄い唇が、自分の唇とやわらかく触れ合う。綿菓子のように甘い感覚が全身に伝播する。。

 背徳が、フェオドーラの脳天から爪先まで突き抜けた。

 快楽は一瞬だった。すぐさま、独立した生き物めいたものが蠕動しながら口内に入り込んでくる。


 強引に歯がこじ開けられる。熱いぬめぬめしたものが自分の舌と絡み合い、つがう軟体動物を思わせ蠢いた。先端の固い感触にフェオドーラは顔を歪ませる。


 クララが、なにかを自分に捻じ込もうとしている。


 嫌悪のままに顔を引き剥がすと、唾液の糸が名残惜し気に虚空に垂れた。口内に残った異物を吐き出す。灰色の地面に、フェオドーラとクララ、お互いの唾液が混じった小さななにかが張り付いた。


 溶けかけた錠剤。


「あたしに、なにを飲ませようとしたの?」


 唇を拭い、フェオドーラは視線を錠剤から逸らす。上目遣いでクララを見る。青褪めた人形じみた娘は、いつもと違い、頬を紅潮させている。朱が差した肌が、ひどく紅く思えた。


 クララがはぐらかすように小首をかしげる。


「今日はなんにん殺したの、フェーディシュカ? 中隊のみんなを鏖殺したMG42機関銃マシーネンゲヴェーアを沈黙させたんだ。他より何十倍殺してようやく、念願の栄誉勲章はもらえそう?」


「あたしの質問に答えなよ」


「あはっ。なんか不機嫌じゃん、どうしたの? 褒められない、謳われない、伝説になれないからご機嫌斜めなの? 冬戦争のときみたいにさ。ソビエトのために何百人殺しても。あなたは、歴史なんかにはなれないよ」


 両手で口を覆い、くすくす笑う。いつになく饒舌だった。異様と言っていいほどに。


 揶揄するような笑みに、胸が痛んだ。ソ連共産党を引き合いに出すということは、クララは嘲笑しているのだ。フェオドーラの出自を。子供がするような遊びの代わりに、銃とナイフの扱い方を覚えさせられた過去を。凍てついたシベリアに追いやられ、狩猟と牧畜を糧に細々と、だが懸命に暮らすヤクート人の血を。

 それはフェオドーラの生き様であり、逃れられない宿命だとクララも知っているのにだ。


「だから、ふたりで、ううん。わたしが全部忘れさせてあげるって」


 嘲るような口調を咎めようと、フェオドーラは今のところ最長の相棒の肩に手を伸ばす。


 過酷な地で生きてきたフェオドーラの力強い腕が、華奢な娘を掴む。彼女は身を竦める。慄くような過剰な反応をクララはみせた。

 からん、とガラスが鳴った。はずみでクララは握っていた小瓶を落としていた。ころころと地面を転がり、瓦礫にかちゃんと触れてガラス瓶は止まる。小さな悲鳴をあげて、クララが落とし物に手を伸ばす。


「だめ、割れたら困る」


「ペル……?」


 ふたりの視線が空中で混じり合い、言葉とともにガラス瓶に注がれる。学のないゾーニャでは理解できない言語が印字されたラベルが張られている。

 だが。読めなくとも、濃密に殺し合った連中の言語だ。印刷された文字が、ドイツ語だというのは辛うじてわかった。


「Pervitin」


 陰がガラス瓶を覆った。


 ふいに現れた人物に、フェオドーラも口を閉ざす。クララとふたりきりだと思ったのに。

 赤軍の軍服とは意匠の異なる制服の女だ。その生まれ故にドイツ語を流暢に話すことが可能な、中隊付きの頭脳が瓦礫だらけの地面にかがみ込む。


「やめて、盗らないで! それがないと、わたしは戦場にいられない」


 クララが悲鳴混じりに哀願する。

 ガラス瓶を丁寧に摘まみ上げると、盲いた黄金の瞳でアンナ・クラーゲンシュトリヒは哀れな娘を睥睨する。


「ペルヴィツィンは、ドイツ人ニェーメツが兵士の士気を保つために配ったメタンフェタミン――興奮剤だ」


 古い時代にドイツ人により絞首用ロープクラーゲンシュトリヒの名を与えられた最下級のユダヤ女は、今やその名の通り執行者であり、同時に処刑台そのものだった。

 政治将校が唇を尖らせる。麗らかな春の到来を告げる小鳥のような美声が喉から漏れる。


「戦場でクスねたお薬で。ラリってるのか、クララ・フェイギナ上等兵?」


 それは、断罪の囀りだった。


 フェオドーラという人間は、数えるのが億劫なほど殺しても、平然としていられたはずだった。だが眼前に噴出した破滅の光景に耐え兼ねて、左手で両目を覆う。


 寂寞たる沈黙が、周囲に降り立った。


 アーニャの声はもう聞こえなかった。

 ただ、風と葉擦れだけが小さく鳴っている。


 ゆっくりと手を離す。


 梢から覗き見える太陽が、木漏れ日となって地面を暖めている。血と硝煙の臭いは木々を縫ってそよいでくる風に流され、代わりに大地の匂いを運んできていた。


 二、三度目をしばたたく。


 瓦礫の街も女たちの狂騒も消えていた。すでに幻視は去り、ただのブナの木が眼前に広がっている。平野が多い満州に点在する、森のひとつにゾーニャはいる。

 だが過去という名の長い手は、いまだゾーニャを解き放つつもりはないらしい。


「……人の死の臭いを嗅いだのは、久しぶりだからかな」


 ただクララの舌触りだけが、口内に残穢として漂っていた。


◇ ◆ ◇ ◆ ◇


 ヴィカは無言で日本人たちの死体をまさぐっていた。所持品は干し米とわずかな路銀。三人合わせても定められた上限の千円には遠く届いていない。これでどこまで行けるつもりだったのだろうか。


 いいや。


 どこにも行けはしない。彼らには自分やゾーニャのような野外生存能力はない。足を止めればそこが終焉の地となるだけだ。他の多くの日本人と同じように。

 彼らが何者であったかを示す、引き揚げ者用の身分証はすぐ見つけられるところにはなかった。念入りに隠しているのだろうか。


「結果には満足した?」


 草を踏みつけながらやって来たゾーニャが声をかける。どこか気の抜けた口調は、自分が撃った相手のことなどもう忘れているからに違いない。

 答えを聞かないうちに、ゾーニャは歩を進める。手近な八路軍兵士の死体の傍にしゃがみ込むのが気配で感じられた。


「お、けっこう弾薬持ってるじゃん」


 日本兵のものをそのまま使っている弾盒をあさっている音がする。ヴィカは嫌悪を覚えた。視線を上げると、ゾーニャの背中が目に入る。彼女は手慣れた様子で弾薬を集めていた。


「死体からものを盗むのか」


 手を止めたのか、三八式歩兵銃の弾が擦れる音が止む。振り返りもせずゾーニャが答える。


「なにか問題ある?」


「卑しい真似をするなと言うとるんじゃ」


「あのさあ、あたしたちって孤立無援なんだよ。それは理解してる? 食料だって物資だって、もちろん身を守るための弾薬だって自力で調達しなきゃならない。ちがわない?」


 指摘されるまでもなく、わかっているつもりだ。狩猟や採集はもちろん、武器が手に入る機会は見逃せない。

 ヴィカは押し黙った。

 それに。ゾーニャは三八式の弾丸を必要としてない。彼女のライフルは口径の違うモシン・ナガンなのだから。


 ヴィカが使うフェドロフ自動小銃は、いわばロシアと日本、両者の血を継いでいる。

 かつての帝政ロシアの技術者フェドロフは、連続射撃時のコントロールのし易さを考慮し、小口径で反動が低い三八式の弾丸を選定し、その多くを大日本帝国からの輸入に頼っていた。ゾーニャはヴィカが浪費した弾を補充しようと提案しているのだ。

 いわば相棒のために、率先して盗もうとしている。


 ぷいと横を向き、ヴィカは呟いた。


「おぬしは簡単に殺しすぎるな」


「もしもし、ヴィカも殺してるけど?」


「わしは自分から仕掛けはせん」


「敵陣に突っ込んでいったようにおもえるのは気のせいかな」


「まずは話し合いじゃ」


「それで撃たれそうになるのはしょーもないなぁ。ところで自爆攻撃から相棒を助けたあたしにお礼のことばもなし?」


「大日本帝国製の乙型手榴弾は、ピンを引き抜かれてから爆発するまで四秒ほど猶予がある。わしならその時間で逃げられる」


 ゾーニャはうーんと唸り、背中を見せたまま困ったように頭を掻いた。


「ナチスと戦ってたときにね、あたしが撃った人数を数えてくれてた人がいるんだけどさ。あたしの記憶だともっと多いはずなんだけど、それでも四〇〇人以上殺してるんだってさ。そこからひとりふたり増えたところで、誤差の範囲だと思わない?」


「そういうのを人でなしと言うんじゃ、自覚せい」


「自覚できるなら狙撃手なんてするもんか」


 第一さ、とゾーニャは続ける。


「八路軍とやり合うことになったのは、軽率に突っ込んだヴィカが原因だよね。あたしは援護しただけだけど」


 そう指摘されるとヴィカはまた黙るしかなかった。くどくどと脳内で自己完結の言い訳を並べたが、結局のところ、戦闘になった原因はヴィカが八路軍に不用意に接触したからだ。


 ヴィカは言葉を引っ込めざるを得なかった。


 それにしても、いつもはどことなく気の抜けた会話をするゾーニャだが、今日はやけにトゲトゲしいものの言い方をする。なし崩し的に戦闘になったことが気に入らないのだろうか。

 視線をあげたヴィカは、唇を結んだ。


 ゾーニャは音もなく立ち上がり、ヴィカを見ていた。


 森の縁に立つ、ゾーニャのまとった空気が違って見えた。弾薬をできうるかぎり節約している彼女が、人間を撃ったのは久しぶりのはずだ。対人狙撃が古参兵であるゾーニャの魂のどこかを刺激したのか、双眸には倦んだ光が瞬いていた。


 ヴィカは己を恥じた。


 殺しの技術を天稟として持ったゾーニャは、人の命を奪うことになんら抵抗を抱いてはいない。それは事実だ。だが、心のありようが人間離れしているわけでは決してないのだ。ゾーニャもまたひとりの人間だった。

 小言を並べて批判すれば、自分の罪が消えるわけでもあるまい。内面の問題は、自己で抱えねばならない。その答えが、人によって違っているだけなのだ。

 ヴィカはそう結論付けた。


「……そうじゃな、すまぬ」


「……どうしたの? いつもはもっと口やかましいじゃん」


 素直な謝罪に面食らったのか、ゾーニャは両手を広げてみせる。


「なに。おぬしの言うとおりだと思っただけじゃ」


「お、おう」


「それと」


「はい?」


「わしの窮地を手助けしてくれたのは事実じゃ。礼を言うぞ」


「え、なんだって、もう一回?」


「これでしまいじゃ!」


 甲高く叫ぶ。何度も礼を言ってたまるものか。ヴィカは強制的に会話を打ち切ると、ゾーニャはひとまず頷いてみせる。


 ヴィカは目を伏せて、もう一度、死者を見つめる。


 老人は濁った瞳で天を見上げている。貧しい開拓者であった老人は、今わの際にはたして故郷の日本の空を懐かしんでいたのだろうか。

 せめても、魂だけでも帰還できたのだろうか。

 ヴィカは見開いたままの老人の瞼をそっとおろし閉じてやる。すまぬがわしは仏教徒ではないのでな、声に出さず謝罪する。

 鎮魂の言葉を唱え、指先で十字を切る。額から胸へ、右胸から左胸へ。上、下、右、左。共産党には禁止されたロシア正教の作法だ。


「ゾーニャ、話は変わるがな。おぬしはスコップを持っておったの。全員、埋葬するぞ」


「律儀だなぁ」


「死体にはすぐに死出虫がわく。最初に、柔らかい瞼や唇が喰われるのじゃ。死んだあとでも、まなこも口も閉じられんというのは苦しかろ。眠るのならば安らかなれ、じゃ」


「はいはいわかったよ。それで、三人をどの順番で埋めるの?」


 ヴィカはゆっくりと振り返り、淀みのない口調で言った。


「なにを言っておる。死体に軍属も民間人も敵味方もあるまい。死ねば死者となるだけじゃ。わしは全員、と言ったはずじゃぞ。埋葬するのは殺した八路軍の兵士もじゃ」


「本気か。それ、すっごく重労働だけど」


 一回やると決めたらやるんでしょ、しょうがないなあヴィカは、とため息交じりにゾーニャは肩を下げた。

 ヴィカは不承不承な彼女を見て言う。


「ソ連兵は神を信じぬか」


 今回は批判ではない。純粋な疑問だった。神を持たぬから、死体を丁重に扱うという感覚も生じえないのだろうか。

 ヴィカのふとわいた問いかけに、ゾーニャは瞼を下げ、口の端だけを持ち上げる独特で不器用な笑みで答える。

 暗い光はまだ瞳の奥に沈んでいた。笑えと言われてむりやりに笑っているような表情だった。


「信じてるよ、こうみえても」


「ほう?」


「神さまがいなきゃ、地獄なんてものは存在しない。地獄はきっとあるから」


「意外じゃな。おぬしでも地獄は怖いか?」


「だって、せめてさ。自分の家族やともだちや恋人を殺した狙撃手が、地獄に落ちるに違いないと信じられなきゃ、遺族がかわいそうでしょ」


 負い紐で肩からモシン・ナガンを吊るした女は、合掌するように両の掌を鼻先で合わせた。いや、ゾーニャは合掌などという作法はしるまい。

 それはまるで、手に染み付いた血の臭いを嗅いでいるようにも思えた。


「あとは、地獄があるかって話だよね」


 ヴィカはゾーニャが言わんと欲していることを想像できなかった。ただ、ゾーニャもまた影を引き摺っていることだけは理解した。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



 土を盛る。ゾーニャは汗だくになりながら埋葬を続ける。天高く昇っていた日はとうに傾き、真っ赤な西日となって木々やゾーニャ自身の影たちをぐんと引き延ばしていた。

 後半はほとんど自分独りでやっていたような気がする。ヴィカは手近な岩に座り、旧満州の地に伸びる鉄道をじっと見つめて考え込んでいる。


 コサックのお姫様は、労働は下々の役目だとでも思っているのだろうか。誰なんだよ言い出しっぺは。


「戦地でタコつぼを掘ってたときは。自分の墓穴を掘ってるんだか、身を守るための穴を掘ってるのかわからなくなったけれど。あそこに神様は、間違いなくいた気がするね」


 ぼやきながら最後の土を一振り。額の汗をひとかき。

 本格的な墓所を作っている時間はないので、野犬や狼が掘り出さない程度の、簡易的な埋葬だった。一定のリズムを保ちながら掘って埋めていた土の音が消えると、辺りは急にしんと静まり返った。


 だから、藪をかき分ける音にはすぐ気が付いた。


 線路の向こう側。茂った草や低木のなかを、誰かが接近してきている。背を屈め、ゆっくりと移動している。恐る恐る、気配を殺し。獣はこんなふうに音を立てない。

 お粗末な隠密行為だが、小柄なのか、一応は姿だけは隠していた。


 警戒心が灯る。


 モシン・ナガンは手元にない。作業の邪魔になるので、傍らに置いてある。だが腕を伸ばせば届く距離ではない。ライフルの代わりに、ゾーニャは腰に収まっているスミス&ウェッソンのモデル3の銃把に指をかけた。

 油断なく藪に銃口を向ける。モデル3は帝政ロシア時代の軍用拳銃で、そこらへんのおばあちゃんよりも年上な代物だ。旧式どころか骨董品級の回転式拳銃だが、今でもちゃんと動くし人を殺せる。


「ヴィカ」


「聞こえておる」


 声に合わせるように、がさりと音がし人影が藪から現れた。


 思った通り背が低い。その事実にほんの少し安堵する。どう見ても、野盗や八路軍の関係者ではない。


 ずいぶんと小柄で――いや、小柄というよりは子供の体型だった。低すぎる身長のヴィカよりもさらに頭ひとつ分低い。

 なでやかで丸みをおびた体つきで、少年か少女か判然としない。肩のあたりで切り揃えられた髪とぱっつん前髪は鴉の濡れ羽色で、切れ長の瞳もまた黒い。動きにくそうな和装で、とても旅慣れているとは言い難い姿だった。


 年端もいかない子供がひとり、線路沿いにたたずんでいる。


「ほう、これはもしや。ロシア人が探している日本人の子供か」


「探してる?」


 ヴィカの呟きへのゾーニャの問いかけは無視された。


 子供の視線が不安げにヴィカとゾーニャのあいだを彷徨い、やがて一点に視線を注ぐ。

 じっと見つめられて、ゾーニャはむずがゆい。子供に熱烈に見つめられるほど、容姿に特徴がある覚えはない。


 あっというまに子供の顔がいびつに歪んでいく。

 ゾーニャを指さす。細い指先が、ゾーニャの全身を差し回す。なにかを確認しているようだった。覚め覚めとした恐ろしい思い出が、幼い心を鷲掴みにしているのだ。


「あ。しまった」


 ヴィカが自らの失点に気がついたのか、小さく漏らした。


 今のゾーニャの服装。汗だくの上半身はシャツ一枚ではある。着の身着のままで夏服などというものは持っていないので、まったく温かくない防寒服のチュラグレイカで四六時中通しているのだが、さすがに暑すぎるので今は裾を結んで腰から下げている。


 でも、どこからどう見ても。


「それんへい!!!」


 ゾーニャの知らない言語が放たれ、恐怖の叫びとなって響いた。

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