第10話 アメリカから来た男
旧満州南部の巨大都市、奉天市。
清朝発祥の地であり、東北軍閥の時代には東三省の政治、軍事、経済、文化の中心地であった奉天市は、その後の時代においても存在価値は不変だった。
統治者が清朝から軍閥へ、そして満州国の首都が新京と定められた後も、満州及び大日本帝国の重工業の要であり続けた。奉天市周辺は鉄や石炭など世界最大級の鉱産資源が埋蔵されている。鞍山の昭和製鋼所や製鉄所、撫順のオイルシェール工場、世界屈指の石炭の露天掘り鉱床など、重化学工業の根幹を支えていたからである。
さらには満鉄本線や安奉線、奉海線、奉山線、満鉄撫順線などが乗り入れる鉄道網の結節点でもあった。
灰色の雲を思わせる蒸気を吐き出しながら、機関車が停車する。上下線を埋め尽くすざわめきに線路のきしみはかき消された。開け放たれたドアから、雑多な人々が続々と吐き出される。
客車の一席を、ある外国人男性は借りていた。
午前と午後で支配者が変わっても、無給で働かされている旧満鉄の日本人職員は懸命に鉄道を動かしている。その勤勉さを、男は嫌いではなかった。むしろ懸念は、地質調査会社の調査員という
だからこそ男は堂々と歩く。
怯えていては余計な注意を引く。異質な来訪者を見る人々の好奇の目をものともにもせず、アメリカ人の男はプラットホームに降り立った。
背は高くはない。固太りで、茶色いちょび髭を蓄えた、青い目をしたスーツ姿の中年男だ。中折れ帽を被るくたびれたビジネスマン、というよりは、どことなくモグラを思い起こさせる愛嬌のあるいで立ちをしている。
だが、けっして目は笑っていなかった。
中折れ帽のなかに収まっているのも、小さくも獰猛なクズリの性質だ。
日露戦争後に完成した新市街地にある奉天駅から、アメリカ人ジャック・オーウェン・スチュアートは現地の人々に混じって歩き出す。
北にあるハルビンは人種が入り乱れているそうだが、ここは奉天で暮らす中国人が多いように感じる。戦前は満州でもっとも多くの日本人が住んでいたそうだが。来中する前に頭に詰め込んだ資料では、満州時代の奉天は複雑な行政区画に分かれていた。
駅を中心とした鉄道付属地は日本人行政区域。商埠地は外国人居留地。そして、城内は中国人のための区域だ。
中国東北部の関東州と、鉄道を経営する満鉄付属地の守備を主任務としていた小規模な軍組織。かつて軍閥を率いた
むべなるかな。口内で呟く。スチュアートはクラッチバッグからハンカチを取り出し、額の汗を拭いた。奉天は戦略上見過ごせない都市だった。一九四四年七月末の大連空爆に続いた九月初旬に、奉天市とその周辺にある本渓湖にも攻撃が行われた。アメリカ軍が中国南部の成都から出撃し、大空に偉容を誇る長距離爆撃機B29により空襲を行ったのも奉天省にある鞍山だった。
すでに、日本人は敗戦し支配者の地位を明け渡している。
今ここをほんのいっとき占有しているのは、蒋介石の国民政府軍だった。第二次世界大戦終結後の国民政府軍の総戦力は四〇〇万人を数え、装備も後援のアメリカから最先端の火器を供与されている。だが、三分の一以下の規模の共産党軍に水をあけられるのもしばしばだ。
奉天はいずれ陥落する。満州全土が共産党新四軍の手に落ちるだろう。その先にあるのは、中国全土の赤化だ。
スチュアートは中国人とは違う集団とすれ違った。大声で喋る中国人とは違い、静かで、意気消沈している。引き揚げ予定の日本人だろう。奉天は旧満州に取り残された日本の民間人たちが、故郷の日本本土を目指す引き揚げルートの集結地点でもある。彼らは一定期間ここに留め置かれて、書類の審査待ちと言ったところなのだろう。
残念ながら、あの中にスチュアートが目的とする人物はいなかった。
人混みの熱気に加え、夏の満州は暑い。冬季は氷点下二〇度に達するのが信じられない。じりじりとした気候で、湿度も高く不快な地だ。
駅舎を出ると、立ち止まる。流れを妨げられた中国人たちが、苛立ちつつもスチュアートを避けて進んだ。まるで波間に浮く岩礁のように人波を分かつ。ハンカチで汗を拭いながら、スチュアートはぐるりと駅前を見渡した。
自動車王国の出身であるスチュアートは少なからず驚いた。ヨーロッパで従軍し、ナチス・ドイツのライフル弾が頭上を掠めたときよりも新鮮な驚きだった。木炭バスはトルクが低いし、エンジン点火から始動まで一時間はかかる不便な代物だ。あんなものが、まだ現役だとは。
日本人引き揚げのために一時休戦中とはいえ、小競り合いは頻発している。国共内戦中の旧満州で、中国共産党と蒋介石の国民政府軍が戦い、オセロのように都市を取ったり取られたりしているというのに、市井の人々は日々を送りなんとか日常を生きているようだった。
アメリカ軍による爆撃や、ソビエトの侵攻、内戦を経てなお奉天はいまだ都市機能を維持している。
木炭バスから目を離す。
お目当ての物はすぐ見つかった。駅から放射線状に伸びる幹線道路のうち一本、かつて日本人には浪速通りと呼ばれた道路に車体フロント部を向けて一台の自動車が止まっていた。
戦前に満州でノックダウン生産されたフォード車だ。
エンジンはかかったままアイドリングをしている。客人が乗り込めばすぐに出発できるように準備を整えているのだ。車体脇には筋骨隆々とした黒人の大男が仁王立ちし、運転席では痩身の朝鮮系技能兵がハンドルを握っている。
白系ロシア人が多数住む旧満州とはいえ、目立つ外国人の集団だった。
極東アジアのこの地で、ロシア系ならばともかく、白や黒といったアメリカ人が溶け込むのは不可能だ。スチュアートはそう判断し、隠れることなく昼日中を堂々と進む。
スチュアートの姿を認めると、大男は背筋をピンと伸ばした。
「奉天へようこそ、大尉」
しゃちほこ張った黒人の
「英語とはいえ、階級で呼ぶのはやめたまえ。ここは人の目が多い。あらぬ視線を招くかもしれん」
「配慮が欠けていました。申し訳ございません」
「といっても、我々の行動を国民政府軍は承知しているだろうがね」
頷くと、軍曹は一歩を踏み出す。屹立した大山脈を思わせる動きだった。スチュアートのために乗車スペースをあけながら、軍曹は続けた。
「ヨーロッパから直接こられたので?」
「一度日本を経由した。イタリア人の潜水艦乗りの尋問に立ち会ったが、やはり彼らは自分たちがナチスになにを依頼され、大日本帝国になにを運ばされたのかは知っていなかった」
「改マルチェロ級潜水艦の乗員ですか。主要枢軸国すべてに属した極めて珍しい軍歴の艦だそうで」
「日本で女性に手を出しまくって帰国できなくなった軟派者だと想像していたのだが、なかなか頑固な連中だった。イギリスから出向いたかいがあったものさ」
「イギリスから日本は遠い。戦争は終わったはずなのに、難儀なことですな」
「国家に魂を捧げた者の末路だよ。職務に骨身を折っている」
〝
ソビエトの暗号無線が、小規模ながら無視できない頻度で活発化をしている。対独という同じ志を持った戦時中に、機関が右手で握手をしながら左手でぶん殴っていたソ連からかき集めたどのデータにもないもので、未知のワンタイム・パッドを使用しているのだ。
使い捨ての暗号は運用に資金と組織力を要する。故に慎重に行使せねば、運用に必ず躓く。それはソビエトといった大国とて同じだ。
だが現に慎み正確に運用すれば――暗号の強度は最高レベルだ。
これはなんらかの策謀が大陸で開始されていることを示していた。暗躍している謀略家はソ連共産党の高位にいる。彼らの作戦は念入りに秘密のベールに包まれている。
だが目的だけはハッキリとわかる。
ソ連が追い求めているもの――物であり者でもある――は、合衆国としては見逃せない。
しかも、時間は限られている。とかく準備にかけられる猶予はない。
マーシャルはよくやっているが、アメリカ本国の国民政府への不信感は極限に達している。いずれ袂を分かつときがくる。蒋介石がイデオロギーを棚上げし、ソ連共産党へ接近しているという話もある。トルーマン大統領の忍耐力は、おそらく十二月までは持つまい。いずれ中国内戦への介入を中止し、在中アメリカ軍を撤退させるはずだ。赤化南下を遮断しているブリーガー作戦は終わる。
期限は四ヶ月といったところか。
フォード車には乗り込まず、スチュアートは振り返った。
「リリアナ。はやくこちらへ。彼らにご挨拶をするんだ」
女の名前を呼んだスチュアートに、軍曹は怪訝な顔をする。
スチュアートの呼びかけの先には少女がいた。物珍しいのだろうか、大日本帝国の首都にある東京駅と同様の建築様式で造られたという瀟洒な作りの奉天駅を見つめている。
名を呼ばれ、少女がこうべを巡らせた。
真っ白い少女だった。光を浴びる髪は白に近いがよくよく見れば骨色で、瞳は灰を思わせる。肌は薄く皮下の血管の色すらわかるほどだ。着ているワンピースは清濁入り混じった坩堝たるアジアの都市とはひどく不釣り合いで、あやうい可憐さがあった。
死蝋化した遺体がそのまま動き出したかのような、非人間的で幻想じみた美しさの少女だった。
スチュアートに呼ばれた可憐な少女は、キャリーケースのタイヤをからからと鳴らしやって来る。
軍曹はやや面食らった調子だった。
「娘さんですか?」
「いや、ちがう。私の助手で、リリアナ・シェラーという。フランス系イギリス人だ。彼女はな、戦前に」
言いかけたスチュアートのわき腹に、小柄な影がぶつかった。不意の出来事に、前線出とは言い難い固太りの大尉はよろめいた。
軍曹が誰何しようとすると、小柄な影は脱兎のごとく走り出した。
中国人の少年だ。右手にはスチュアートが持っていたはずのクラッチバッグがある。外国人は金目の物を持っていると思ったに違いない、物盗りの不良少年だった。奉天の旧市街地にはドロボー市場という、出所不明の商品がなんでも立ち並ぶ青空市場がある。そこを根城にしているひとりだろう。
自分の荷物をあわてて追いかけるよりも前に、スチュアートは叫んでいた。
「殺す必要はないぞ、リリアナ。コソ泥だ。バッグが返ってくればそれでいい!」
軍曹よりも数段早く、リリアナは自主的に反応していた。スチュアートの言葉を聞かぬうちに、自分のキャリーバッグをその場に置き去りにし駆けだしていた。
駅から吐き出された人混みを、縫うように不良少年は逃げていく。リリアナはこのままでは追いつけないと即断したのか、速度を緩めず壁際に移動。塀を蹴りつけ、猫のようにそのまま駆け上がる。身軽な体躯を活かした曲芸じみた動きだ。
荷物を盗まれた間抜けな外国人をのほほんと見ていたやじ馬が、少女のアクロバティックな俊敏さに歓声をあげた。
塀を登りきるとリリアナは次に跳躍。目を白黒させる五人ほどの頭をいっきに飛び越え、その先にいた不良少年を蹴りつけた。側頭部から強烈な一撃を受けた不良少年はこらえきれずすっころんだ。
リリアナは雪豹のように美麗なフォームで着地する。
蹴られてなお不良少年はスチュアートのバッグを離さなかった。ごろごろと転がると、したたかに背を道路に打ち付ける。うめき声があがるが、痛みに怯まず、少年は足の反動だけで立ち上がる。
やじ馬根性で騒ぎを見ていた群衆から、どよめきがあがった。
不良少年の右手には、錆びついたナイフが握られていた。殺傷能力はともかく、切られれば厄介な病気を移されそうな不衛生な刃だった。脅すように刃先をちらつかせる。あくまで抵抗するつもりらしい。
「ねえ」
刀傷沙汰に尻込み円形に取り囲む群衆の眼前で、リリアナは少年に平然と言い放つ。鈴の鳴るような美麗な声音に起伏はなく、冷静というよりは感情を喪失しているようですらあった。
「あなたが私を殺してくれるの?」
言葉は通じていない。奇声をあげて不良少年が突っ込んでくる。止めに入ろうとした軍曹は人混みに邪魔をされ間に合わない。リリアナの実力を知っているスチュアートは、状況のままに任せた。
やじ馬が目を覆う。子連れの婦人が凄惨な光景を想像したのか悲鳴を上げる。
リリアナがふわりとスカートを広げた。洗浄された骨を思わせる色素の薄い両の大腿部には、革製の特別な銃鞘。両手が滑らかに自動拳銃を引き抜いた。華奢な少女に似つかわしくない、武骨なコルトの四五口径オートマチック拳銃が二挺。マズルには鈍色の銃剣がついている。
スチュアートの命令を忠実に守っているのか、リリアナは発砲しなかった。体ごと飛び込んできた不良少年が刺しだしたナイフを右の銃剣で受ける。金属と金属が触れる甲高い音が鳴る。互いの勢いを水の流れのように受け流し、足払い。
つんのめり体制を崩した不良少年の延髄に向けて、リリアナは左のコルトの銃床を叩きつけた。
耳障りな鈍い音が響き、不良少年はふたたび地面に転がった。こんどは起き上がってこなかった。口から泡を吹き、陸にあがった魚のように痙攣している。
「ナチスの男の子たちは、あなたよりずっと死神に近かった。それでも私を殺せなかった」
リリアナは銃鞘に自動拳銃をしまうと、前屈みに手を伸ばす。不良少年が後生大事に左腕に抱えているスチュアートのクラッチバッグを取り返した。宝物でも扱うように、繊細な指使いだった。
中国語の怒鳴り声がする。威圧され、蜘蛛の子を散らすようにやじ馬が離れていく。誰かが兵隊を呼んだらしかった。
居丈高な兵士は、騒ぎを起こしたのが外国人だと知ると露骨に面倒臭そうな顔をする。リリアナの自動拳銃は見られていないで、野良犬を追い払うように手を振った。
さっさと行け、と言っているのだ。
リリアナはもう不良少年のことなど忘れてしまったかのように、無表情のまま後ずさる。クラッチバッグを胸に抱き、フォード車の前にいるスチュアートの元に小走りでやって来た。
少女は親ほどに離れた中年男性に上目遣いをし、自分の薄い胸に手を当てる。
「また死ねなかった私を哀れに思うのなら。私を褒めて、大尉」
「……ああ、もちろんだ。いつも感謝しているよ、リリアナ」
「うれしい。私を褒めてくれるのは、隊長のコレット少佐とスチュアート大尉だけ。不良娘のアリソンは生意気だし、看護婦のソフィーは小言ばかり」
抑揚なく美声を紡ぐと、リリアナはクラッチバッグを差し出した。
スチュアートはなにも説明しなかった。クラッチバッグに入っているのは、機関が用意した八路軍の軍票や国民党の独自紙幣、その他には歯ブラシや髭剃りといった日用品だけだ。
リリアナが命をかけて取り戻しに行くべきものは、なにひとつない。
あの戦いから、せっかく生き残ったというのに。酷薄な男だと自覚があるスチュアートですら、自分の命の価値に無頓着な少女を憐れまずにはいられなかった。
事態の推移を呆然と見守っていた軍曹は、スチュアートに促され我に返った。クラッチバッグを返却されたスチュアートは、リリアナの手を取る。彼女のために自動車のドアを開けてやり、後部座席に乗せてやる。
乗り込む直前。
リリアナは自分を見つめる軍曹の視線に気付いたようだったが、彼女は一瞥を返すだけで何も言わなかった。視線の理由に、興味がないらしかった。
見目麗しいリリアナが、男たちの視線をあらゆる意味で惹きつけることをスチュアートは承知している。はにかんだ笑顔は、連合国軍兵士だけでなくドイツの若者たちすら魅了した。
だが彼女が心から笑うことはもうないだろう。
スチュアートはひとり頷いた。寝食をともにし、命をかけて戦う機会もあろう。軍曹には説明してやらねばならないようだ。
軍曹が代わりに彼女のキャリーバッグを抱えてトランクに乗せると、近寄ったスチュアートはふたりだけに聞こえる声量で囁いてやる。
「リリアナを見ていたな。彼女の素性が気になるかね」
「自分は東南アジアで抗日勢力を訓練し、日本兵の相手をしていました。でも、あんな戦い方をする人間には味方でも敵でも出会ったことがありません」
「リリアナの以前の所属は、
スチュアートの言葉に軍曹は息を呑んだ。
SOEこと
SOEの採用担当者であったセルウィン・ジェプソン大佐は女性は男性と違い、単独でも勇敢に行動する点を評価し、軍隊というものが男性社会であることを逆に分析し女性を積極的に組織に迎え入れた。
『豹』は前線部隊ではなかったものの、彼女たちはパルチザンを支援し、時には自ら銃を手にナチス・ドイツの輸送網や通信網に対する破壊工作を試みた。
SOEには三二〇〇名の女性が所属していた。とくに危険なナチス占領下のフランスで作戦を遂行した五〇人ほどの彼女たちは、終戦までに三分の一以上が死んだ。戦いのなかに果てたり、悪名高き秘密警察
『豹』もその一グループだった。彼女たちの噂を、太平洋戦線にいた軍曹も聞いたことがあるらしかった。
夫を強制収容所に送られた美しい未亡人が率いる『豹』たちは、来たる
「我々は、ノルマンディーに部隊を上陸させるためにロンメルの主力部隊をどうしてもカーレに釘付けにしておく必要があった。彼女たち『豹』は見事設備の破壊に成功し、結果ナチスの連絡は遅れ、防備の薄いままのノルマンディーに上陸可能となった。彼女たちの活躍がなければ、待ち構えていたロンメル軍団により多くの若者たちが無残に命を落とし、ひいては上陸作戦の成功、連合軍の勝利もなかっただろう」
「さきほど大尉は生き残りと言いました。作戦の成功のあと、彼女たちはどうなったのです?」
「部隊は壊滅したよ。ドイツ軍に捕捉されたのだ。彼女たちは降伏を良しとせず勇敢に戦った。だがいかに火器の扱いに習熟し士気に優れた人員でも、不正規部隊が正規軍に会敵すれば末路は常に悲惨なものだ。人数と火力の密度に押し負ける」
中折れ帽の位置を調整しながら、スチュアートは続ける。別に眩しくはなかった。なぜなら、いつの間にか日差しは陰り、厚い雲が満州全土の青空を蚕食し始めていたからだ。
ひと動作挟めば、心も落ち着くというものだった。
やがて降る雨が、顔すら知らぬ少女たちもまた経験したことを、スチュアートが知ることはない。
「生き残ったのはリリアナただひとりだ。わたしは
「ならば、あの年端もいかない少女も、今回の作戦に参加する人員のひとりなのですか?」
「帰る家がない英雄は多い。戦場でしか生きられんのは、なにも男の特権ではあるまいよ。それに」
まるで伝説にでてくるオーガのような体躯の軍曹は、見てくれとは裏腹に紳士的な人物らしかった。心を痛め眉をひそめる大男の背中をスチュアートは叩いた。
自分たちが所属する組織のやり方が、人間味を欠いているのは今に始まったことではないと言いたげに。
「OSSが今更なりふり構うものかね」
第二次世界大戦中、数々の薄汚い秘密諜報戦に参加してきたスチュアート大尉は自嘲する。
スチュアートが所属していたのはOSS――
そして後年もっとも有名な名では、
感じ入るものがあったのか、口を固く閉ざした軍曹は助手席へ。スチュアートとリリアナは、後部座席に収まった。朝鮮系アメリカ人伍長の運転手は全員がフォード車に乗ったのを確認すると、クラクションを鳴らす。強引に群衆をどかすと巧みに車両を操り道路を走りだす。
水滴が、フロントガラスに張り付き始めた。
本降りになる前には、到着するだろうか。しばらくは奉天にある家屋を活動の拠点にする手はずになっている。これからのことを考えていると、スチュアートの手をリリアナが遠慮がちに握った。ぞっとするほど冷たい感触だった。
彼女は化粧直しでもするかのように空いた手で手鏡を覗いている。
「……うしろ。つけられてる」
後続車を振り返らずに囁いた。
手鏡を一瞥。出発したフォード車の後を、かつて満州権益を握っていた一社である
寡黙な伍長が、前を見つめたまま口を開く。オリビア計画出身だという伍長は、一声聞くだけで陰気な男だとわかった。
「撒きますか?」
「いいや。彼らも、我々を監視していたほうが安心するだろう。今のところは、堂々としていようじゃないか」
ここは彼らの地だと判断し、ハンドルを握る伍長には引き離すように指示しなかった。
蒋介石にスチュアートたちは完全には信用されていない。それはスチュアートの側にとっても同様だ。
だが、合衆国本国が不信まみれでも国民党を援助している以上、彼らを利用する必要性は高い。居場所を把握させておくほうが、いざというときに接触もしやすいというものだ。無下に扱う必要はなかった。
話題を変えるように前席に問う。
「それで。我々の拠点はどこになるのだね?」
「かつて日本人が満日会館と呼んだ施設を借り上げてあります」
「満日会館? 噂に聞くヤマトホテルかね?」
警戒から一転、軍曹の答えに感心するスチュアート。
ヤマトホテルは満鉄が威信をかけて運営した、鉄道付属の高級ホテルだ。ヨーロッパの一流ホテルに追い付け追い越せとばかりに建築されたヤマトホテルは設備もサービスも一流だとされている。全部で十六あるヤマトホテルのうち、大連・奉天・新京・哈爾浜の四つは特に規模が大きく、生演奏のオーケストラが在中し、豪奢なつくりの
もっとも、すべてはソビエトが侵攻してくる前の話ではあるが。進駐のさいにはヤマトホテルに赤軍司令部が置かれていたので、今どうなっているかは想像もつかなかった。
まるで期待するかのような口ぶりに、堅物を絵に描いたような軍曹が初めて笑った。別に冗談のつもりで言ったのではないのだが、スチュアートの態度は軍曹の冷えた心を解きほぐすのに充分だったようだ。
「いいえ。満日会館は、二階建ての小さな共同住宅ですよ。レンガ造りで、二階には居住のための六畳間が二列並んでいます」
軍曹の答えに、スチュアートもまたつられて表情を崩した。
「ワンルーム・アパートか。まるで学生の下宿だな」
「なに。一階は中国人が経営する飯屋が何軒も入ってるので、食うものには困りませんよ。旧満州の料理は労働者の味付けだそうですので、口にあうかどうかはわかりませんが」
「温かいものが食べられるのならば、それだけで満足だ」
「ちがいありません」
笑い合う男たちを、リリアナは不思議な表情で見つめていた。
「食事の話が、そんなにおもしろいの?」
突然、ざああと大きな音を立て雨足が強くなる。ウィンドウに張り付いた水滴が、風に吹かれ生き物のようにのたうち回る。この勢いだと、一晩は降り注ぐだろうな、そうスチュアートは思った。
伍長がハンドルを回すと、フォード車は道を曲がり駅から離れていった。
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