第12話 八路軍の男たち

 根元まで丹念に味わい、吸っていた前門チェンメンを投げ捨てる。中国で広く普及している大衆煙草だが、好みの味ではなかった。しかし貴重な一本なのはたしかだ。すぐ捨てられるようなぜいたくを言える立場でないこともわかりきっている。

 建物のなかといっても、ここは地面が剥き出しなので、遠慮なく燻る吸いがらを靴の踵で踏みつける。


 不意に部屋の扉が開いた。


 蝶番が不躾な音を立てる。乱雑な動作音から、相手はずいぶんと不機嫌なのだとわかった。


「マガミ! いるんだろう」


「そんなに大声ださんでも聞こえてるぜ、ルゥの旦那」


 濁った唾液を吐き捨て、マガミと呼ばれた男は答えた。着た切り雀らしい汚れた帯青茶褐色の陸軍歩兵軍服を着ている、柳のように痩せた猫背の男だった。


 日本人の元軍曹は、暗がりから相手の視界に立ってやる。


 すえた臭いに陸 随风ルゥ スイフェンは眉をひそめていた。飄々とし掴みどころのない煙のような男であるマガミとは対照的な、血気盛んな若者といった風情の人物だ。

 八路軍の古参メンバーを象徴する灰青色の軍服に、左腕の牌布パイプゥ(ワッペン)。布地には民主連軍ではなく、ただ「八路」とだけ書かれた言葉があるだけだ。

 それが、スイフェンの八路軍への忠誠ぶりを現していた。


 まじめが八路軍の制服を着ているかのような青年は、便所に隠れて喫煙していたのがよほど気に入らないらしい。顔面に嫌悪の情がありありと浮いている。

 マガミは軽口を叩く。


「俺の名前は老とか小をつけて、親しみをこめて呼んでくれねえのかい?」


「マガミ、お前は仲間ではあるが同志トンスーではない。わきまえてもらおう」


「つれねえや」


 無精ヒゲを骨ばった指で掻きながらマガミは苦笑した。


 憮然とした表情のままのスイフェン。どうやら本題はお叱りではなく、今行っているしょうもない作戦のことらしかった。

 彼の苛立ちも、そこから生じているのだろう。本心からは賛成しかねる、望まぬ行為というわけだ。


「浜州線の線路沿いの探索にでた隊が戻らん。定時連絡も欠いている」


「藪に籠って出の悪いクソでもしてるんだろうさ。中国もろこしコーリャンは消化しにくくてかなわん、あれをまともに食える人間がいるとは思えんね」


「全員で野糞か? ふざけるのもたいがいにせんか!」


 怒鳴られ、委縮したとでも言いたげにマガミは肩をすくめてみせた。いまいましさを隠そうともせずに、スイフェンはマガミの肩を叩いた。

 五指に込められた力の強さに、マガミは辟易とする。


 そこは露助のマンドリンに撃たれた古傷で、いてえんだからさわるなよ、共産党のおぼっちゃん。


 スイフェンの父親は八路軍の重鎮だ。父親は抗日戦で上のふたりの息子を失い、死んだ弟に代わって面倒を見ていた甥っ子も憲兵隊に摘発されて獄中死している。そのため、末の息子であるスイフェンを宝物でもしまっておくように前線とは程遠い場所に押し込めた。


 スイフェンは若くして連――階級なき軍隊である八路軍においては、他国で言う中隊規模の部隊――を預かる連長の立場だ。連は実働部隊である小隊規模の排が三つ、それに炊事班、通信班、護衛班、衛生兵で構成されており、政治指導員というソビエトで言うところの政治委員も配置されている比較的規模の多い部隊単位となっている。


 もちろん、年齢と実績に合わぬ部隊を率いている理由が、父親の威光によるところであることをスイフェンは理解している。

 血気盛んな若者であるスイフェンは、自身も国民政府との戦いに身を捧げ、新生国家を建立する理想に殉じたいと切望しているのだ。


 地位ある親父さんに自分の価値を示したいのはわかるからよ。そう焦りなさんな。

 内心でこぼすのみに留め、マガミは痛みへの不平の言葉はなんとか呑み込んだ。


「ロシア人の客人どもが苛立っている。彼らはいまだハイラルに展開しているソ連正規軍にも秘密で行動しているからか、時間がかかるのを懸念している。さっさと探している人間を見つけねばならん」


「例のガキを? ナチス・ドイツを打ち負かした大国が、なんだってそんな年端もいかない子供に固執するかね」


「俺の知ったことではない」


「自分たちでやらせりゃいいのさ」


「ソ連は条約により旧満州では表立って活動できん。ソ連共産党と中国共産とは目指している世界が違う。そう遠くない未来に道を分かつ可能性は高い。だが来るべき新時代のために我々八路軍は、他の共産軍よりも常に優位に立っておく必要があると上層部が判断した。そのためには、ソ連の客人たちに協力し、協力される関係が今は必要なのだ」


「使えるものはなんでも使うか」


「お前もその『もの』のひとつだけというわけだ、マガミ軍曹」


「ちげえねえや」


 皮肉をぶつけるスイフェンにマガミは嘆息する。野心に燃える八路軍の若き指揮官は肩から手をどかすと、顎をしゃくって外を示してみせる。


「北満にいまさら我々に盾突く奴らがいるとは思えんが、行方不明の部隊が国民政府軍と会敵した可能性もある。アメリカの仲介により日本人帰国のために一時休戦中とはいえ、国民政府軍は平気で小競り合いを仕掛けてくる。マガミ、お前も銃をとれ。働きに期待している、俺を失望させるなよ。部隊が消息を絶ったあたりに調査に行くぞ」


「へいへい、あんたが俺の主人さ、旦那」


 マガミは頷くと、傍らに立てかけてあったソ連製の短機関銃を手に取り肩に担ぐ。射程は短いが連射性能に優れ、三八式歩兵銃よりも頼りになる火器だ。

 大日本帝国は機関短銃の量産に手間取っていたし、数少ない完成品も輸送段階で米帝に攻撃されアジア南方の海に沈んだ。自動火器の類は貴重品だ。

 マガミは期待に疼く。もらいもんとはいえ、こいつを景気よく使えるチャンスが来たわけだ。


 背を見せるスイフェンが扉を押し開けた。昼下がりの白光が差し込み、八路軍の指揮官を輝きに包む。その無防備な背後を見て、マガミはふと思う。

 スイフェンは清廉潔白な理想主義者だが、それは彼の属する中国共産党がいまだ真の権力を知らぬからだ。この朴訥な若者も、権力という蜜の味を知ればいつか堕落し汚濁にまみれるのだろうか。

 マガミは歪んだ思考にふさわしいねじけた笑みをたたえた。


「そんじゃ、まあ。人狩りといこうかね」


 たとえそれが、かつての同胞であってもな。


 扉をくぐったスイフェンとマガミを待っていたのは、ある女だった。満人の看護婦を連れた、白衣の中年女性。白髪交じりで疲労を隠せぬが、腕を組み堂々と仁王立ちしている。すがめた目がふたりを見ていた。

 マガミは嘆息した。面倒な女に待ち伏せされたもんだ。スイフェンもまたいたずらを咎められた子供のようにたじろぐ。


老陽子ラオヤンズー、なにか用が?」


 わざわざ八路軍内で使われる敬称を使い呼びかける。スイフェンが眼前に立つ女に一定の敬意を払っていることが伺えた。

 彼女は八路軍が重用している、貴重な日本人医師であった。その身をどのようにでもできる主導権は八路軍が握っているが、機嫌を損ねられるのは本意ではないというわけだ。


 新天地・満州はさまざまな人に夢を見させた。富める者も、貧ずる者も、理想を求める者も、野心を持つ者も、あるいは日本にはいられなくなった者も、ありとあらゆる者たちに。

 夫とともに満州僻地へと赴き、産婦人科医としての医療技術をあまねく平等にもたらすという崇高な意思を持った人物が彼女だった。

 どのような形であれ、医療関係者を欠いている八路軍にとっては彼女は代えがたい人材なのだ。


 夫を亡くしてなお終戦後の満州に留まっている女医の三浦陽子が、遠慮会釈なしに口を開いた。


「男だけで密会かい。広場に八路軍の兵士たちが集まってる。また戦争をするつもりだね」


「否定はしない。これは、我々の理想を実現するために必要な戦いだ」


「戦争をするなって言ってるわけじゃあないんだよ」


 眉根を寄せ、女医師は軽蔑とも懇願ともつかぬ感情が複雑に入り混じった表情のまま続ける。


「あんたらも知ってるだろ。政治指導員の于 志高ユウ ズィガオに夜明け前、子供が生まれた。あたしがとり上げて、今はその帰りだ。待望の男の子だよ」


「子が生まれるのはめでたいことだ」


「あたしが言ってるのはね」


 語気が強まった。小柄な女医は上背のある八路軍の指揮官を見上げながらも、まったく臆していなかった。


「頼むから、父親のいない子ててなし子をつくるんじゃないよってことさ。父親の記憶がない子は、可哀そうだよ」


「……確約はしかねるが、異論はない」


 言葉少なに頷くスイフェンを一瞥し、女医は看護婦をともなって去っていった。職場に戻るのだろう。もともと別の医師が常駐していた診療所だった場所が、八路軍が彼女に割り当てた空間だった。


 マガミは女医が診療所内に消えるのを見届けると、遠景から建物群に視線を巡らせる。

 土塀で囲まれたみすぼらしい訓練所。六つある中隊宿舎、そして本部の建物。幹部用宿舎。武器庫に畜舎、農機具の保管庫、そして診療所。


 ハルビン近郊、満蒙開拓青少年義勇軍訓練所の敷地だった。

 今は、スイフェン率いる共産党八路軍が接収し拠点にしている。


「見えてるか、加藤完治。これがお前の夢の跡だ」


 ひねた笑いを口内にのみ発する。


 古神道の信仰者にして農本主義者であった男、加藤完治。完治は関東軍とともにかつて満州の開拓を夢見、「右手に鍬、左手に銃」というスローガンを掲げ多数の開拓民を日本から満州に引っ張り込んだ人物だ。素朴で誠実な男だったが、それは傲慢と偏見さの裏返しでもあった。

 青少年義勇軍に所属した少年たちを含めた老若男女の開拓民は、二十七万とも三十二万人とも言われている。敗戦で彼ら彼女らは逃げ惑い、そしてどれほどが死んだことか。


 嗤うのをやめ、マガミはそっと呟いた。


「だが辛酸を舐めてなお、生き残れば帰れる。羨ましくはあるぜ」


 終戦後の旧満州。


 そこには望むと望まずとも、数多くの日本人が残っている。内地への帰還事業は始まったばかりだが、すぐには帰れない立場にある者も多かった。

 飛行機や戦車乗りを始めとした元軍属や、医療・報道・教育関係者、機械技術者や炭鉱技師などの特殊な技能を持った人々。彼らは日本に戻ることを許されず、自らの持つ知識と経験を中国共産党に協力させられることになった。


 彼らは「留用者」と呼ばれた。


 女医の三浦ももちろん。ある秘密を抱えた元関東軍軍曹というの真上 郷一郎も、そんな日本人のひとりだった。


 農民の集合体である八路軍は、本物のプロと呼べる軍人は少ない。前線での経験がほぼないスイフェンのために父親が用意した人員がマガミだった。たしかに表面上は屈した。だがしかし、八路軍に仕え、気が遠くなるほどの自己批判を経てなお、マガミは自らのを失ってはいなかった。


 女医と別れ、マガミとスイフェンは歩を進める。敷地の広場には、男たちが集まっていた。

 すでに到着していた政治指導員のズィガオが頷きかける。丸眼鏡のインテリは赤ん坊が生まれた喜びを深く内面に隠し、顔になんの表情も浮かべていなかった。ズィガオはスイフェンのお目付け役であり、父親の腹心のひとりだ。いつも通り、ただただ共産党の職務に忠実であるようだ。


 指揮官の登場にざわめきが静まり、沈黙が降り立つ。八路軍の精鋭たちは国民政府軍との戦線に張り付かせておく必要があるので、ここにいるのは二線級の兵たちではある。マガミの見立ててでも、アメリカ製の最新鋭火器で武装した国民政府軍と戦うのは荷が重い面々だった。

 だがスイフェンにとっては貴重な手足だ。


 自らが預かる部隊を見渡し、スイフェンは満足げに頷いた。声を張り上げる。


「行こうか、同志們トンスーメン(同志諸君)。国家は銃口から生まれるのだ」


 モーゼルをぴしゃりと叩き、スイフェンが命じた。

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