4-4 紅く染まる世界の中で

 どれほどそうしていただろう。

 学校を出たときは明るかった空が、端の方から少しずつ橙色に染まってきている。 


 思えば、玉森の秘密を初めて知ったのも、こんな夕暮れの中だった。

 二人でバイクに乗って、かと思えば、玉森がいきなりゲン爺になって。あの日、魂守の仕事を手伝うと言ったとき、玉森は最初断ったんだっけ。


 それに対して俺は、こう問いかけたのだ。


 「じゃあ、お前の魂は、誰が守んだよ」と。


 思い返してみると、玉森はあの日、何度も何度も俺の提案を断っていた。

 魂守の役目は自分のものだから、他の人に迷惑はかけられない、と。


 もしかしたら、今回もそうなのかもしれない。

 玉森は、本当に俺に来てほしくないのかもしれないけど、それは、玉森が今とんでもなく大変な目に遭っていて、俺が巻き込まれるのを危惧しているのかもしれない。


 だとしたら、俺はこんなところで立ち止まってちゃいけないんだ。

 俺は再び、グリップを握る手に力を込めた。つもりだった。


 しかし、俺の手は微かに震えるばかりで、グリップの感覚はいつまで経っても伝わってこない。


 お願いを、破れるのか。俺に。

 誰かの頼みを、断れるのか。


 手が、脚が、全身が震える。

 玉森を助けないといけないのに、動きださないといけないのに、身体がちっとも言うことをきかない。


「のうヒロ坊。ヒロ坊は、一体どうしたいんじゃ」


 ふいに、声が聞こえた気がした。


「しなくちゃいけない。してはいけない。そんなん全部放り捨てた時に、ヒロ坊の心に残るものはなんじゃ」


 それは、とても懐かしい声だ。

 小さい頃から、散々聞いていた、飄々としてどこかとぼけたような、けれど聞いていて落ち着く、不思議な声だ。


 俺がしたいこと……。

 俺は、どうしたいんだろう。


 目を閉じて考える。浮かんだ答えは、シンプルだった。


「俺は、玉森の隣にいたい。これ以上、隣の席が空いたままなのはいやだ」


 自分の気持ちを確かめるように、声に出して呟く。

 でも、自分に出来るのだろうか。

 

「にいちゃんならできるって! オレとおんなじ、大人の男なんだから!」


 また、声が聞こえた気がした。

 今度は、子ども特有の、元気いっぱいで甲高い声だ。


「ちゃっかり自分のことも大人の男にカウントしてんじゃねえよ」


 こんな時だというのに、思わず頬が緩んだ。

 気づけば、震えが止まっている。


「そうだよ。だって藤久良クンは、この世界でユウくんの次にかっこいいんだからっ!」


 お次はとてもかわいらしい声だ。

 自分のすきなものを全力で愛する、誰よりもかわいくて強い彼。


 思えば、今の状況はあの時に少し似ている。それどころか、俺は玉森も名前も顔も分かっているのだ。

 そう考えると、手詰まり感の強かった今の状況に、急に光が差したような気がした。


「――諦めないで、やりたいことをやろうって、教えてくれたのは君だよ」


 その言葉に、はっとした。

 名前の通り、お日様のような暖かな笑みを浮かべる彼女。


 けれど、彼女はあまりに多くのものを諦めすぎて、いつの間にか、あきらめる癖がついていた。


 天真爛漫で周りを振り回しているようで、その実、自分の一番の望みを押し殺して遠慮していた彼女に、「諦めずにやりたいことをやろう」と言ったのは、他ならない自分だったじゃないか。


 指先の感覚が戻ってくる。

 グリップを握り、エンジンをふかす。


 彼ら彼女らは、行くべきところに行ったはずだ。

 だから、この声は本来なら聞こえないはずのものだ。


 でも、この際都合のいい幻聴でもなんでもいい。

 前に進めさえすれば、それで。


 俺は、もう震えの止まった手で、グリップをひねる。

 加速したバイクは、かつての俺を置き去りにして、夕陽に包まれた紅い街を駆けた。


 そして俺は思い出す。

 記憶に蓋を、心の奥底にしまい込んでいた、あの日のことを。


 こみ上げる吐き気は先ほどの比ではなかったが、酸っぱい唾を無理やり飲み込んでひたすら前に進む。


 紅姉との最後の記憶。

 彼女はきっと、あそこにいる。



 紅姉からの誘いを断っていつも通り家でメシを食った俺は、結局そのあと外に出る羽目になった。


 母親に、紅姉を探してくるよう頼まれたのだ。

 夕食時になっても連絡をよこさず、電話にも出ない紅姉のことを、心配に思ったらしい。


 未成年つってももう大学生だし、時間だってまだ二〇時にもなってない。

 さすがに過保護すぎるんじゃないか? と思うが、「でもあの子、遅くなる時は、必ず連絡くれるもの」と言われ、家を追い出されてしまった。


 とはいえ、何処かあてがあるわけでもない。

 まあ、しばらくすりゃ帰ってきたって連絡があんだろ。そう思いながら、俺は適当に自転車で町内をまわり、時間をつぶしていた。


 視界の端に人影が映りこんだのはその時だ。

 大きな新築マンションの前にそびえたつ、対照的な廃ビル。


 その屋上に、人影があった。

 もう沈んだはずの夕陽が、諦め悪く、雲をおどろおどろしいまでの紅に染めていて、逆光になった人影はよく見ることができない。


 夏の夜八時はまだまだ暑い。

 じっとりとした汗が、背中をつたった。


 嫌な予感がする。

 俺は自転車を停めると、もう使われていない廃ビルの非常階段を上った。


 屋上への鍵は壊れていたのか、扉は簡単に開く。

 扉を開け、俺の目に飛び込んできたのは、


「紅、姉……?」


 裸足で、屋上の縁ぎりぎりに立っていた紅姉は、突然の闖入者に視線をやり、それが見知った顔だと気づいて驚きに顔をゆがめ。

 そのまま、俺の視界から消えた。


「紅姉ッ!」


 慌てて駆け寄る。

 追いかけるように、屋上の端でしゃがみ、縁に手をついて身を乗り出す。

 そして、落ちていった紅姉の姿を確かめ。


「う、ぐ……ぅおぇあ」


 俺はその場で嘔吐した。

 今でも、記憶が混濁していて、その前後のことはよく思い出せない。


 ただ印象に残っているのは、紅色だ。

 最後の抵抗を見せる日の紅と、夜闇が混ざり合って、世界は赤黒く染まっていた。


 そして、道路いっぱいに広がる紅。

 


 紅姉がいなくなってから一年弱。

 俺は無意識に避け、決して近寄らなかった廃ビルの前に、再びやってきていた。

 視線を上にあげると、そこには


「いた」


 あの時と同じだ。

 世界が紅に染まる夕暮れ時、まるでそこだけ黒で塗りつぶしたかのような人影が、屋上にひとり立っている。

 俺はバイクを路肩に停めると、いつかと同じように、非常階段をのぼった。


「おう、ヒロ。ずいぶん遅かったじゃねえか」


 この屋上には、手すりがない。

 代わりに屋上の縁が膝くらいの高さになっていて、彼女は膝を組み、そこに腰かけていた。


 前髪に隠れて、表情はよく見えない。唯一見えるその口元に、にやりとした獰猛な笑みを浮かべたのが見えた。


「おい紅姉、いい加減に、」

「――来ないで!」


 と、俺の声を遮るように、玉森が叫んだ。

 そう、今のは紛れもなく、玉森の声だった。


 戸惑う俺をよそに、目の前の人物はゆらりと立ち上がり、俺に倒れ掛かるように、急接近する。


 一瞬、彼女の右手が銀色にきらめいた気がした。

 そして、


「え……?」


 頭がいっぱいになっていた俺は、それを見落としていた。

 視線を下に向ける。

 俺の腹部に、銀色のナイフのようなものが、吸い込まれていた。


「どうし、て」


 不思議と痛みは感じなかった。

 カクン、と膝から力が抜ける。


 目線の高さが同じになった紅姉は、しかし、俯いていて、どんな表情をしているのか分からない。


「どうして。お前はそう言ったよな」


 紅姉の声は、震えていた。


「俺様の心残りは、俺様がここにいるのは――ヒロ、お前を殺すためだよ」

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