0-3 クラスの女子がおじいちゃんになった

 適当な場所にスクーターを止め、ヘルメットをハンドルにかける。

 水を飛ばす犬のように頭を軽く振ってから、玉森は歩き出した。


 しばらく無言で、浜辺を歩く。

 先行する玉森を追いかけるように、俺も進んだ。


 しばらく行くと岩場があって、玉森は振り返ってこちらを一瞥すると、手頃な岩場に座り込んだ。

 俺も倣って、隣に腰掛ける。


 先に口を開いたのは、玉森だった。


「あーもー! なんであのおじいちゃんは、全部言っちゃうかなぁ」


 この一ヶ月、ちゃんと隠せてたのになぁ、と玉森は唇をとがらせて不満を零す。


「なんで隠そうとしたんだ」


 訊きたいことは山ほどあったけど、最初に口をついて出たのはこの質問だった。


「だってさ、おかしいじゃん。死んだ人の魂が乗り移る、とか。どんなドラマだよって思うじゃん」


 原付に跨がりながら聞いたのとほとんど同じ言葉を、玉森は繰り返す。確かに、俺だって目の前で〝それ〟を見たからこそ、すんなり受け入れられているが、ただ言葉で説明されても頭上にはてなマークを浮かべてしまっただろう。


「あのおじいちゃんの言ってた通りだよ。私は魂守で、この町の住人の、魂を守る使命がある」


 そう言う玉森の視線は海に向けられていて、どこか寂しそうだった。


「ひとりでやってる、っていうのは、本当なのか」

「うん。相談できるひととか、いなかったし」


 それなら。


「それなら、俺に玉森のこと、手伝わせてくれないか」


 まっすぐに、玉森の目を見ながら伝える。

 瞳が、縋るように揺れていた。

 けれど。


「いや、いい」


 玉森の口から発せられたのは、驚くほど温度のない声だった。

 押し殺して押し殺して、そのうちに、自分に感情があったことすらも忘れてしまったかのような声。


「どうして!」


 そんな玉森の頑なな様子に、思わず熱くなる。


「おじいちゃんに言われたこと気にしてるなら、大丈夫だよ」


 あのおじいちゃんは、ちゃんとあっちに行けたから。

 そう呟く玉森の声は、やはり温度が欠落していた。


「俺は、ゲン爺に言われたからこう言ってるわけじゃ」

「だって、」


 俺の言を遮るように、玉森が言う。

 その声に滲むのは、怒りと、諦めと。


「だって、大変なんだよ? 朝起きたら佐藤さんの遺した犬の散歩させて結城さんの薔薇園を手入れして、そのまま学校に行ったら弓美ちゃんに授業受けたいって駄々こねられて。そのくせ弓美ちゃんはちゃんとノートとってくれないし。お昼は拓真くんに食べられちゃうし、放課後は優翔さんの奥さんのお墓参りに行って、田中さんのところで囲碁を打ってまた犬の散歩に行って」


 ぽつりぽつりと吐き出された言葉は、その静かさとは裏腹に、次から次へと溢れ出でてくる。


「それなのに。それなのに、クラスの女子には付き合い悪いとか言われて……! 

ほんとに、本当に大変なんだよ……?」


 夕陽に照らされた横顔には、憤りのほかに少し、こちらを気遣うような色も見える。

 話を聞く限り、いつぺしゃんこに潰れてしまってもおかしくないくらい、よっぽど大変なんだろうに。


「だから、簡単に手伝うなんて言わないでよ……」


 最後はもう、ほとんど懇願するようだった。

 けれど、俺にはそんな玉森の願いを聞いてやることはできない。


「だからさ。なんでそんな大変なことを、一人でやろうとすんだよ。大変ならなおさら、誰かが手伝うべきだろ」


 へ、と。玉森がどこか気の抜けた声をあげる。


「で、でもでもっ。これは魂守のお務めで。だから、別に藤久良くんが大変な思いをする必要なんか」


 なおも断ろうとする玉森に、俺は言いつのる。


「魂守のお務めは、町の住人の魂を守ること、だろ」

「そうだけど」

「じゃあ、それなら」


――玉森の魂は誰が守るんだよ。


 瞬間、それまでどんな言葉を使ったら俺を諦めさせられるか必死で考えていた様子の玉森が、はっとした。

 ずっと海の方を向き、俯いていた玉森と、初めて目が合う。


「それは、そうかも、だけど」

「俺は、自分の身体にひとの魂入れるとか、そういうのは出来ないけど。でも、犬の散歩とか、お墓参りならできるし、バラの手入れだって覚えるし、っていうか、言ってくれたらノートくらいいつでも見せるのに」


 俺が言ったことを一つずつ飲み込むように、真剣な顔で玉森は聞いていた。


「玉森はさ、玉森にしか出来ないことをしてくれりゃいいんだよ」


 だめ押しのように言うと、玉森の表情からは怒りも、戸惑いも消えていた。 

 そして、力が抜けたように、にへらと笑う。


 けれどその笑みは、最初に俺に嘘をついてごまかそうとした時とは違う、素の表情のように思えた。


 細められたまなじりに、雫が溜まっていく。

 その雫は夕日に照らされ、きらきらと海のように輝いていた。


「藤久良くんには、敵わないなぁ」


 ため息をつくように呟くと、玉森はうんとその場で背伸びをした。


「あのおじいちゃん、ゲン爺って呼ばれてたんだね」

「ああ」


「いいひと、だったね」

「ああ」


「ちゃんと、奥さんに会えたかなぁ」


 言葉尻は、震えてほとんど言葉になっていなかった。

 玉森が、泣いていたからだ。


「会えてると、いいな」


 ゲン爺のことを思い出す。

 先ほどまで、当たり前のように会話をしていたゲン爺。


 一週間前、俺はゲン爺の死を母親から聞いた。

 まるで、世間話のような気軽さで、唐突に。


 葬儀には参加しなかった。というか、葬式が行われたのかすら知らない。

 単なる隣人にすぎない俺は、この一週間、単なる隣人の死として、ゲン爺の死を処理していた自分に気がついた。


 自分が悲しんでいることにも、気がついていなかったのだ。


「私ね、いままで魂守のお務めをしていて、泣いたことなんてなかったんだよ」


 だってね、悲しいって思ったら、もう、続けられないでしょう? そう呟く玉森の目は、真っ赤になっている。うさぎみたいだ。


「だから、あんまりその人のこととか、知らないように気をつけてたんだ」


 しかし、もう言葉は震えていなかった。


「でもね、いま気づいたの。あのね、一人じゃないなら、誰かを想って泣いても、また頑張れるんだね」


 ゲン爺のこと、もっと教えて。


 玉森が言う。


 それから、俺たちは並んで、夕日が沈むまでゲン爺について話した。


 小学生のころ、エロ本を戸棚いっぱいにもっていたゲン爺が、近所の男子たちの間でエロ本マスターと呼ばれていたこと。


 若い頃はモテたという自慢を子どもたちにする度、奥さんに「嘘ばっかり」と笑われていたこと。


 けれど、そう言う奥さんの目は、とても愛しげだったこと。


 その奥さんが、五年前に亡くなったこと。


 一人で家のことをするのが難しくなってからも、ゲン爺はいつもヘルパーさんにセクハラをしていたこと。


 でもそれは決まって、日に日に管が増えていくゲン爺をみたヘルパーさんが、悲しそうな顔をしていた時のことだったこと。


「きっと、そのひとが悲しむ顔を見るくらいなら、怒ってる顔を見たかったんだねえ」


「まあ、だからってケツさわるのが正当化される訳じゃねえけどな」


 玉森も、俺の知らないゲン爺のことを、いろいろと教えてくれた。


 本当は、バイクに乗って海沿いを走りたかったこと。


 でも、いちばんバイクに乗りたかった若い頃は戦時中で、それどころじゃなかったこと。


 生活が安定してからも、妻のため、子のため、国のために、がむしゃらに働いていたこと。


 気づけば目も脚も悪くなり、バイクに乗るのは諦めていたこと。


 女である玉森との会話では、ほとんど下ネタを言わなかったこと。


 そしてこの一週間、ことあるごとに、奥さんがいかに素敵な女性か、玉森に話していたこと。


 玉森の口から飛び出すゲン爺像は、ことごとく俺の知っているゲン爺とは違っていた。


「もしかしたら、バイクに乗りたいって言うのも、ほんとじゃないんじゃないかなって思うの」


 不意に、玉森がそんなことを言い出した。


「もちろん、嘘ではないと思うよ。バイクに乗りたいって気持ちもあったと思う。でもさ、ゲン爺のいちばんの望みって、奥さんに会うことだったと思うんだよね」


「じゃあ、どうして、ゲン爺の魂は玉森の中にいたんだろうな」


「もしかしたら、だけどさ。ゲン爺は、こうなることを望んでたんじゃない? 藤久良くんが、私の手伝いをしてくれることを」


 それはさすがに、ゲン爺のことをよく思いすぎだろう。数時間前までの自分なら、そう思っただろう。


 しかしいまは、そうと言い切れない自分がいる。


 だってゲン爺は、ヘルパーさんの悲しい顔が見たくなくて、自分がしかられる男なのだ。


 一人で藻掻いてる女の子を救うため、ちょっと寄り道するなんて、なるほど、女好きのゲン爺らしいとすら思った。


「帰ろっか」

「おう」


 頬を撫でる潮風がしょっぱい。

 来たときと同様、一列になって、言葉少なに来た道を戻る。

 けれど、ここに来たときとは違い、胸はずっしりとあたたかかった。

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