4-3 紅く染まる世界の中で

 紅姉から電話がかかってくるのも、一方的に何かを言いつけられたり誘われたりするのも、珍しいことではなかった。

 だから、あの日紅姉から電話がかかってきた時も、俺は単に(またか)と思うだけだった。


 紅姉からの着信を知らせる携帯電話を、通話ボタンを押して黙らせる。

 通話口から聞こえてくるのは、聞き慣れた紅姉の声だ。


「なぁヒロ、飯でも食い行こうぜ」


そう、聞き慣れた声だったんだ。

特にいつもと違うところ、変わったところはなかったように思う。

あるいは、俺が気づかなかった、気づけなかっただけかもしれないけど。


「えー、もうシャワー浴びちまったしめんどくせえよ」


 だから、俺は深く考えず、連れない返事をした。

 紅姉はいつも自分勝手で俺様だけど、人が嫌がることを無理強いはしない。

 こうやって断ることも、別に何ら特別なことってわけじゃなかった。


「まぁまぁそう言うなって。奢るからさ。頼むよ」


 と、紅姉が珍しく食い下がってきた。

 いつもはあっさり引き下がるのに、珍しいこともあるもんだ。

 そう思ったのを、確かに覚えている。


 けど、喋り方はあくまでいつも通りで、だから俺は特に気にも留めなかった。

 それから一生涯、紅姉からの“お願い””を無下にしたことを、後悔することになるなんて知らずに。


「奢るったってサイゼだろ? 俺は受験生だし勉強しなくちゃいけないの。もう切るからな」


 対して勉強なんてしないくせに、今から外に出るのが面倒だった俺は、そう言って電話を切った。

 それが、俺と紅姉との、最期の会話だった。



 数分後、俺はファミレスの前で立ち尽くしていた。


「クソッ、ここでもねえのかよ」


 紅姉からの最後の誘い。今更だけど、もう何もかも遅すぎるけれど、乗ってやろうと思ったのに。

 居るなら、ここしかないと、そう思ったのに。


 ここじゃないのなら、一体どこだって言うんだ。

 そもそも、紅姉は一体何を考えてこんな真似を……。


 無駄だと分かりつつも、俺はスマホに手を伸ばす。

 紅姉を探して町中を原付で走る傍ら、俺は紅姉ともう一度コンタクトを取ろうと、何度も電話をかけていた。

 しかし、一度もその電話がつながることはなかった。メッセージも既読にすらならない。


 俺のスマホが、着信を知らせたのはそんなときだった。

 飛びつくように通話のボタンを押す。


「おい紅姉、お前いい加減に、」

「藤久良くん」


 叩きつけるように放たれた俺の声を遮って、ここ数ヶ月ですっかり耳慣れた、そして、ここ数日ずっと聞きたかった声が耳朶を打った。


「玉森、か……?」

「うん」


「お前、大丈夫なのか?」

「……うん」


「飯とか、ちゃんと食ってるのか? 姉貴にひどいことされたりとか」

「大丈夫だよ。ごはんはきちんと食べてるし。……心配、かけてごめんね」


「それは別に、いいんだけど……。それより、お前いまどこに、」


「ねえ、藤久良くん」


「これは私がなんとかするから。私は大丈夫だから、だから、私のことはもう探さないで」

「お願い」


 視界がちかちかと点滅する。

 眼に浮かぶのはあの日の記憶だ。


「ああ。わかっ、た」


 気づけば、渇いた唇が、俺の意思とは関係なしにそう紡いでいた。


「うん、ありがとう」


 俺の言葉を聴くと、玉森は少し濡れた声で、ふぅと安堵の息を吐いた。


 視界がぐらぐらする。

 それどころか、足下すらぐらぐらしている気がして、揺れているのは地面ではなく自分自身だと気づいたのは、しばらく経ってからだった。


 いつの間にか、通話は切れていた。

 もう何も聞こえないスマホを握りしめた右腕を、力なくだらりと下げる。

 思い出すのは、先ほどの玉森とのやり取りだ。


「お願い」


 震える声で、彼女は確かにそう言った。


 俺には呪いがかかっている。

 誰かの頼みを、断れないという呪い。


 あの日、俺が紅姉からの誘いを断っていなければ、紅姉はいまでも家で快活に笑っていたかもしれない。


 だめなんだ。「お願い」なんて言われたら、俺は頷くしかないんだ。

 だって怖いから。

 俺がその頼みを無碍にしてしまったら、またその人が居なくなってしまう気がして。


 頭ではそんなことあるわけないと分かりつつも、どうしたって怖いのだ。

 俺はあの日以来、人の頼みを断ることが出来なくなった。


 さっきまで、俺は玉森が、姉貴に無理矢理身体を奪われているんだと思っていた。

 だから、「朱音ちゃんを救ってくれんか?」というゲン爺のお願いと、自分自身の玉森を助けたいという気持ちで、学校を飛び出してまで玉森のことを探していた。


 だが、玉森はそんなこと望んでないのだとしたら……?

 学校を四日も休んでいるのだ。緊急事態なのは間違いない。

 けれど、俺の電話に出ないのは、どこかに隠れてヒントすらよこさないのは、玉森自身の意思なのかもしれない。


 玉森は、俺に来てほしくない、のかもしれない。

 もちろん、先ほどの電話の内容が、全部紅姉に言わされたもの、演技だという可能性もある。


 けれど、まだまだ短い期間だけど、ここ最近玉森と一緒に過ごしてきた俺には、さっきの玉森の言葉が嘘だとは思えなかった。


 「お願い」と言ったときの言葉の震えや、俺が「わかった」と応えたときの、ほっとして吐き出された吐息は、とても演技だと思えない。

 もうどうしたらいいか分からなくなって、俺はその場に立ち尽くしてしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る