4-3 紅く染まる世界の中で
紅姉から電話がかかってくるのも、一方的に何かを言いつけられたり誘われたりするのも、珍しいことではなかった。
だから、あの日紅姉から電話がかかってきた時も、俺は単に(またか)と思うだけだった。
紅姉からの着信を知らせる携帯電話を、通話ボタンを押して黙らせる。
通話口から聞こえてくるのは、聞き慣れた紅姉の声だ。
「なぁヒロ、飯でも食い行こうぜ」
そう、聞き慣れた声だったんだ。
特にいつもと違うところ、変わったところはなかったように思う。
あるいは、俺が気づかなかった、気づけなかっただけかもしれないけど。
「えー、もうシャワー浴びちまったしめんどくせえよ」
だから、俺は深く考えず、連れない返事をした。
紅姉はいつも自分勝手で俺様だけど、人が嫌がることを無理強いはしない。
こうやって断ることも、別に何ら特別なことってわけじゃなかった。
「まぁまぁそう言うなって。奢るからさ。頼むよ」
と、紅姉が珍しく食い下がってきた。
いつもはあっさり引き下がるのに、珍しいこともあるもんだ。
そう思ったのを、確かに覚えている。
けど、喋り方はあくまでいつも通りで、だから俺は特に気にも留めなかった。
それから一生涯、紅姉からの“お願い””を無下にしたことを、後悔することになるなんて知らずに。
「奢るったってサイゼだろ? 俺は受験生だし勉強しなくちゃいけないの。もう切るからな」
対して勉強なんてしないくせに、今から外に出るのが面倒だった俺は、そう言って電話を切った。
それが、俺と紅姉との、最期の会話だった。
◇
数分後、俺はファミレスの前で立ち尽くしていた。
「クソッ、ここでもねえのかよ」
紅姉からの最後の誘い。今更だけど、もう何もかも遅すぎるけれど、乗ってやろうと思ったのに。
居るなら、ここしかないと、そう思ったのに。
ここじゃないのなら、一体どこだって言うんだ。
そもそも、紅姉は一体何を考えてこんな真似を……。
無駄だと分かりつつも、俺はスマホに手を伸ばす。
紅姉を探して町中を原付で走る傍ら、俺は紅姉ともう一度コンタクトを取ろうと、何度も電話をかけていた。
しかし、一度もその電話がつながることはなかった。メッセージも既読にすらならない。
俺のスマホが、着信を知らせたのはそんなときだった。
飛びつくように通話のボタンを押す。
「おい紅姉、お前いい加減に、」
「藤久良くん」
叩きつけるように放たれた俺の声を遮って、ここ数ヶ月ですっかり耳慣れた、そして、ここ数日ずっと聞きたかった声が耳朶を打った。
「玉森、か……?」
「うん」
「お前、大丈夫なのか?」
「……うん」
「飯とか、ちゃんと食ってるのか? 姉貴にひどいことされたりとか」
「大丈夫だよ。ごはんはきちんと食べてるし。……心配、かけてごめんね」
「それは別に、いいんだけど……。それより、お前いまどこに、」
「ねえ、藤久良くん」
「これは私がなんとかするから。私は大丈夫だから、だから、私のことはもう探さないで」
「お願い」
視界がちかちかと点滅する。
眼に浮かぶのはあの日の記憶だ。
「ああ。わかっ、た」
気づけば、渇いた唇が、俺の意思とは関係なしにそう紡いでいた。
「うん、ありがとう」
俺の言葉を聴くと、玉森は少し濡れた声で、ふぅと安堵の息を吐いた。
視界がぐらぐらする。
それどころか、足下すらぐらぐらしている気がして、揺れているのは地面ではなく自分自身だと気づいたのは、しばらく経ってからだった。
いつの間にか、通話は切れていた。
もう何も聞こえないスマホを握りしめた右腕を、力なくだらりと下げる。
思い出すのは、先ほどの玉森とのやり取りだ。
「お願い」
震える声で、彼女は確かにそう言った。
俺には呪いがかかっている。
誰かの頼みを、断れないという呪い。
あの日、俺が紅姉からの誘いを断っていなければ、紅姉はいまでも家で快活に笑っていたかもしれない。
だめなんだ。「お願い」なんて言われたら、俺は頷くしかないんだ。
だって怖いから。
俺がその頼みを無碍にしてしまったら、またその人が居なくなってしまう気がして。
頭ではそんなことあるわけないと分かりつつも、どうしたって怖いのだ。
俺はあの日以来、人の頼みを断ることが出来なくなった。
さっきまで、俺は玉森が、姉貴に無理矢理身体を奪われているんだと思っていた。
だから、「朱音ちゃんを救ってくれんか?」というゲン爺のお願いと、自分自身の玉森を助けたいという気持ちで、学校を飛び出してまで玉森のことを探していた。
だが、玉森はそんなこと望んでないのだとしたら……?
学校を四日も休んでいるのだ。緊急事態なのは間違いない。
けれど、俺の電話に出ないのは、どこかに隠れてヒントすらよこさないのは、玉森自身の意思なのかもしれない。
玉森は、俺に来てほしくない、のかもしれない。
もちろん、先ほどの電話の内容が、全部紅姉に言わされたもの、演技だという可能性もある。
けれど、まだまだ短い期間だけど、ここ最近玉森と一緒に過ごしてきた俺には、さっきの玉森の言葉が嘘だとは思えなかった。
「お願い」と言ったときの言葉の震えや、俺が「わかった」と応えたときの、ほっとして吐き出された吐息は、とても演技だと思えない。
もうどうしたらいいか分からなくなって、俺はその場に立ち尽くしてしまった。
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