4-2 紅く染まる世界の中で

 俺に姉が出来たのは、小学五年生の頃だった。

 名前は紅華べにか


 姉ちゃん、なんて呼ぶのはどうにも居心地が悪くて、でも名前を呼び捨てにするわけにもいかなくて、俺はいつも紅姉べにねえと呼んでいた。


 仲のいい、姉弟だったと思う。

 もっとも、世間の想像する〝仲の良い姉弟〟とは、大分様子が違っているのだろうが。


「おいヒロ! いいもん見つけたからこっち来いよ!」


 二階の自室にいる俺に向かって、家の前の道路から紅姉が呼びつける。


「いま俺勉強してんだけど」


 最近出来たばかりの、自分より四つ年上の姉に、俺はまだどんな距離感で接したら良いか分からない。

 素っ気なく言う俺に、しかし、紅姉はとんでもないものを見せびらかしてきた。


「ふーん。本当にいいもの見つけたってのになあ」


 にやにやと笑う彼女の声に、ちらと視線を向けてみると、何やら彼女は雑誌のようなものを持っていた。


 問題なのはその中身だ。そこにはあられもない格好をした女性が、あんなポーズやこんなポーズをしている写真がどどんと載っていた。


「んなッ。ちょ、おま、女子が昼間っからそんなもんひらひらさせてんじゃねーよ!」


 その写真は、小学生の俺にはあまりに刺激が強すぎる。

 顔を真っ赤にしてそう言いつつも、俺は紅姉の持っているエロ本から、目が離せない。

 そんな俺をみて、一層にやにや度を高めた紅姉は、恐るべきことを言う。


「こんな感じのが、いやコレよりもっとすげえやつがたくさん捨てられてたんだけど、ヒロは興味ないのかー」


 ちょっと待て、今なんと言った。

 コレよりもっとすげえやつが、たくさん……。


「ま、お子ちゃまのヒロにはまだ早かったな。俺様だけで楽しむとするか」


 そんじゃ。と手を振りながら、後ろを向いて去って行く紅姉。

 存外あっさりと、紅姉は家から離れていってしまう。


「おい」


 ガキ扱いすんじゃねえよ、とか、女の紅姉がエロ本で何を楽しむんだよ、とかとか。言うべきことはほかにも色々あるはずだった。

 だが、俺の口から零れたのは、


「捨てられてたって、どこにだよ」


 紅姉の方を見ていられなくて、目線を思い切りそらしながら言う。

 なるべく興味ない風に、素っ気なく聞こえるように言ったつもりだけど、どうなんだろう。


 瞬間。俺の言葉を待っていたかのように、紅姉がくるりと振り返った。

 そして、にやりと笑うと、口を開く。


「四十秒で支度しな」


 俺は紅姉の言葉を聞くと、はじかれたように自室を飛び出した。

 エロ本より大事な宿題なんて、この世に存在しない。


 四十秒どころか二十秒足らずで紅姉の元にたどり着くと、紅姉はかかかと快活に笑った。どう猛な犬歯がむき出しの、けれど、どこか頼りがいを感じさせるような豪快な笑み。

 そして、俺の肩に勢いよく手を回すと、


「分かってると思うけど、俺様とヒロだけのひみつな」


 と、耳元で囁く。

 すると、肩口で切りそろえられた髪は、俺と同じシャンプーで洗ってるはずなのに、何やらふんわりとした甘いにおいで鼻をくすぐって、俺はただ赤べこのように首をこくこくと縦に振った。


 全く、紅姉はずるい。

 いまにして思えば、紅姉と二人きりで出かけたのは、このときが初めてだったと思う。


 こうやって紅姉は、まるで兄のような距離感と豪快さで、再婚相手の連れ子から、俺の姉貴になったのだった。

 


「ここには、いねえか……」


 電話をもらって数十分後。

 俺は、紅姉と初めて二人で出かけて宝探しをした、公園に来ていた。

 数年たって治安がよくなったのか、あるいは単にタイミングの問題なのか、今日はエロ本は落ちていない。


 紅姉の犯行予告があって、俺はまず真っ先に自宅へと向かった。

 そして、半年近くがたつ今も手つかずの、紅姉の自室を開ける。


 しかし、そこには誰も居なかった。


 考えてみれば当たり前だ。

 いくらそこが紅姉の部屋だからといって、いま実際にこの世界で行動をしているのは玉森の身体なのだ。


 俺の家の鍵を持っていない玉森が、部屋に入れるわけがなかった。

 俺はとりあえず鞄をリビングに投げ置き、携帯と財布だけがポッケに入った状態で、再び家を飛び出した。


 紅姉が町中隠れ鬼をさせる気なら、徒歩より原付の方が都合が良い。

 俺は原付に跨がり、思いつくところを片っ端からまわることにした。



「なあヒロ。今すぐタオルと財布持ってこい」


 耳元で、電話が切れたことを知らせる、ツーツーという機械音がする。

あれは確か、俺が中一の頃だったか。いつだかにも、言いたいことだけを電話口で一方的に言いつけて、電話を切られたことがある。


 もっとも、紅姉が言いたいことだけ言って電話を切るのは、そう珍しいことではなかった。


 とはいえ、その日はどうも様子がおかしかった。いつになく切羽詰まった真剣な声に、俺は言われたとおり財布とタオルを掴むと、自転車に飛び乗った。


 場所は伝えられていなかったが、この時間なら紅姉は塾からの帰り道だろう。

 そう当たりをつけて家から紅姉の通う進学塾に向かうと、案の定目的の姿を見つけることが出来た。


 高校に入り、紅姉は髪を伸ばし始めた。

 最近は、どうやら化粧もし始めたらしい。 


 そうすると、元が良いのもあって、一気に女っぽくなって、兄妹だってのにときどき無意味にどきどきしたのを覚えている。


 けれど、その時の紅姉は、せっかく伸ばした髪も、化粧をしているのであろう顔も、どろどろに汚して、何かを抱きかかえていた。


「紅姉! 一体、どうし、」

「ヒロ! 財布にいくら入ってる?」


 俺の言葉を遮って、紅姉が問いかけた。


「え、っと、五千円くらい、かな」


 俺が財布の中身を思い出す間にも、紅姉は俺の持ってきたタオルをひったくり、大事そうにそのタオルでなにものかを包み込んだ。


「足りねえ、けど、ま、なんとかなるか……」

「おい、さっきから一体何が」


 思案気に呟く紅姉にいい加減我慢できず、俺は問いかけた。

 と、紅姉がタオルの中を小さく開き、そっと見せる。


「排水溝に、うずくまってたんだ。塾が始まる前からおんなじとこに居て、親が来る様子もないし。明日雨だから、このままじゃ流されちまうだろ?」


 紅姉の抱えるタオルの中、そこに居たのは、子猫だった。

 まだ生まれて間もないのだろう。あまり抵抗もせずに、時折みゃあみゃあと力なく鳴く。

 あるいは、抵抗できないくらい、弱っているのだろうか。


「ヒロ。病院行くぞ」


 ここでようやっと、紅姉が財布を持ってこさせた意味に気づく。

 いきなり呼びつけといて、弟に動物病院の代金を払わせるとか、ほんと紅姉らしい。


 とはいえ、目の前にある小さな命を前にして、紅姉のその提案に反対する気なんて毛頭なかった。


 俺は路の端に適当に自転車を止めると、猫を抱えて慎重に、けれども最大限急ぐという器用なまねをして動物病院に向かう紅姉のあとを追った。



「ここでもねえか……」


 どろどろになっていた紅姉のことを思い出しながら、子猫を保護した辺りを見渡す。

 当時空き地だったそこは、今では駐車場になっていた。


 ちなみに、保護した子猫は無事に元気を取り戻し、二週間だけ我が家で面倒を見てから、猫を飼いたいというひとに貰われていった。


 そのまま紅姉の通っていた進学塾の前まで行き、求めていた姿がないのを確認する。


 思い当たるところは、ほとんど見たつもりだ。

 紅姉の通っていた中学校や、俺でも家を知ってるレベルで仲のよかった、紅姉の友達の家は見てきた。


 玉森の家ももちろん確認した。

 となると、紅姉が俺と出会う前、俺の姉になる前に住んでいた家や小学校もあやしいか。脳裏によぎった考えを、俺は、いや、と自ら否定した。


 紅姉はわざわざ俺に「俺様のところまで来い」と言った。

 つまり、紅姉はわざわざ場所を伝えなくても、紅姉がどこに居るのか分かると考えているんだろう。


 紅姉は偉そうで自分勝手に見えるときもあるが、基本的に無理難題を押しつけることはない。


 となると、紅姉の居る場所は、俺にも推測可能なはずで……。

 俺は大きく息を吸い、脳に酸素を取り込んだ。

 五月のぬるい風で肺を満たしながら、俺は紅姉との日々を一つずつ思い出していた。


 初めて出会った日、紅姉は舎弟ができたとうれしそうに笑っていたこと。


 距離感が分からずに素っ気ない態度を続ける俺に、いつも話しかけてきてくれたこと。


 初めて一緒に公園で宝探しをしたこと。そのあと、俺が放り出した宿題を手伝ってくれたこと。


 ドッチボールをする俺たち小学生に混ざって、本気で遊んだこともあった。

 高校生になって見た目がぐんと大人っぽくなってからも、紅姉は相変わらずだった。


 一緒にテレビゲームで大乱闘したり、ファミレスでいかにまずい飲み物を作れるか、ドリンクバーで競争したり。


 やがて紅姉は大学生になって、俺はその時中学三年生で。

 そして俺は思い出す。

 俺と紅姉との、最後の思い出を。


「……ぅ、ぐ」


 こみ上げる吐き気を必死で飲み込んで、俺はあの日のことに思いを馳せた。

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