1-3 リトル・ヒーロー

 ほどなくして、俺たちは胴着に身を包んでいた。

 近所の道場である。先ほどの公園から十分ほど歩いたところに、その道場はあった。


 ここは、生前快翔が通っていた道場らしい。

 道場を経営するのは、快翔のおじいちゃんで、近所の子どもたち相手に柔道を教えているのだそうだ。


 快翔曰く、大人の男は強くてかっこいい。強い男になるには修行しかない。とのこと。


 そんなわけで、快翔は〝柔道の体験にきた女子高生〟として、この馴染みの道場で修行をすることにしたのだった。


 いまの時間はちょうど道場教室がない時間のようで、おじいちゃんがマンツーマンで快翔の特訓につきあってくれている。


 俺はというと、ただの付き添いということで、道場の端の方に座り、二人のことをぼんやりと眺めていた。


「ほう。筋肉の付き方からして、柔道は初めてかと思ったが、筋がいいの」


 くるんと宙に浮き、投げ出された畳の上でそのまま息を荒げている快翔に、快翔のおじいちゃんが言った。


「わしの孫も、受け身は上手かったんじゃ」


 そういったおじいちゃんの目が、眩しいものを見るかのように、愛しげに細められる。

 受け身だけじゃがな、と笑いながらおじいちゃんが続けた。


「なっ、受け身以外だっておれは」


 言いかけた口を自分でふさいで、快翔は大きく深呼吸をした。どうやら、自分がいまは黒木快翔ではない、ということに、ちゃんと自分で気づいたらしい。


「もう一本、お願いします」


 そして、きっ、と顔を引き締め、頭を下げる。


「やる気があるのは、いいことじゃな」


 そして再び、おじいちゃんと快翔との組み手が始まった。

 そんな二人のことを道場の端から眺めながら、思う。


 はたして、この特訓に効果はあるのだろうか、と。

 快翔の目的は百瀬優花に告白することだ。そして、その兄が、現在障害として立ちはだかっている。


 それを乗り越える、あるいは認めてもらうために、快翔は強い大人の男を目指しているようだけど、ことはそんなに単純じゃないだろう。


 それを快翔に理解してもらう必要があるが、あいにく俺は子守の経験なんてない。どう伝えれば、真に俺の言いたいことを理解してもらえるのか、見当もつかなかった。


 それに、百瀬優花の兄が、なぜ快翔の邪魔をしているのかも気になるし……。

 と、俺が答えのない思考にふけっていると、道場の扉が開いた。

 そして。


「げっ」

「む」


 道場の中には、顔をしかめる人間が二人。


 一人は、おじいちゃんといまさっきまで組み手をしていた、黒木快翔。 


 そしてもう一人は、扉を開いた張本人――胴着に身を包んだ百瀬優花の兄、その人だった。


「どうしてお前がここにいるんだ」


 冷たい口調に、快翔が眉をつり上げる。


「おれがじいちゃんの道場にいてなにがわるいんだよッ」


 怒りで完全に自分の身体のことを忘れてしまっている快翔に、あちゃーと天を仰ぐ俺。


 快翔のおじいちゃんの反応が気になって、視線を向けると、しかし、意外にも先ほどまでと変わらず、冷静に静観しているおじいちゃんの姿がそこにはあった。


「勝負だにいちゃん! いままではうでとかあしとかの長さがちがくて負けちゃってたけど、今日はおれのほうがでかいんだからな!」


 優花の兄の冷たい視線を受けて、快翔が吠える。

 吠えたのが小学生男児なら、吠えられたのもまた、小学生男児だ。


「てめえみたいなバ快翔にだれが負けるかよ。バーカ」


 挑発的にそう言うと、審判不在の野良試合の火ぶたが、突然切って落とされた。


 とはいえ、審判なんていなくても、勝敗は明らかだった。

 頭に血が上った快翔は、バカみたいにまっすぐ優花兄に突っ込む。


 ただでさえ技量で劣る相手に、そんなに素直な攻撃を仕掛けちゃ、勝てるわけがない。


 優花兄は懐に飛び込んできた快翔の襟元をぐっとつかむと、足払いをかけ、流れるように畳にたたきつけた。


 ダーンと、受け身をとった快翔の手が、畳を叩く音が響く。

 投げられた快翔は、顔全部をくしゃくしゃにつかって、悔しがっていた。


「一本ッ!」


 審判のいないはずだった突発試合に、おじいちゃんの声が鋭く鳴る。しかし、敗者が全力で悔しがっている一方で、勝者はというと、つまらなさそうにため息をつき、


「やっぱり今日は帰る」


 とつぶやくと、その場を後にしてしまった。

 去り際に道場に一礼をして、けれど、その瞳が快翔の方を向くことはなかった。


 この態度、やはり、何か気になる。

 いま追いかければ、一人でいる優花兄に話を聞くことが出来るかもしれない。


 しかし。


 力でも、それ以外でも、圧倒的差を見せつけられて負けた快翔のことが気になって、俺はその場を動けない。


 と、快翔のおじいちゃんが、俺を見て深くうなずいた。

 まるで、自分の孫のことは、自分が面倒を見るから、とでも言うように。


 そのときのおじいちゃんは、先ほどまでの「子どもたちに柔道を教える道場主のおじいちゃん」とは異なる、「特定の誰かのおじいちゃん」の顔をしていた。


 優しくて、あたたかくて、けれどなぜか泣きそうになってしまう顔だ。

 俺は快翔のおじいちゃんと道場に礼をすると、急いで優花兄を追いかけた。

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