3-6 小泉ひなたは青春がしたい
藤久良くんと合流し、売店でフランクフルトとチュロスを買って、それぞれ食べると、結構いい時間になってしまっていた。
五時を過ぎた辺りからだろうか、小さい子を連れた家族連れの姿がまばらになり、園内は先ほどよりちょっぴり静かだ。
ずいぶん日が延びたとはいえ、午後六時を過ぎた園内は、すっかり夕焼けに包まれていた。
「もうすぐ閉園だから、乗れるのはあとひとつかふたつってとこだな」
藤久良くんがそう言うと、ひなたは顔を上げ、指を指す。
「それならさ、あれ、乗りたい」
その指の先では、遊園地の目玉とも言える巨大なアトラクション、観覧車が、カラフルなゴンドラを無数につけ、ゆったりとまわっていた。
◇
係の人に誘導されながら、まずは藤久良くんが観覧車に乗り込む。
そして、動き続ける観覧車に戸惑いつつも、中から伸ばされた手を掴み、ひなたもおずおずとゴンドラの中に脚を踏み入れた。
ひなたは、藤久良くんの対面、向かい合う位置に座る。
今日一日ずっとそばに居たから、なんだかこの距離が、少しだけ遠く感じる。
「あのさ、藤久良くん」
ひなたが、口を開いた。
「ずっとね、憧れてたの。観覧車。病院の窓からね、見えるんだ」
藤久良くんの瞳の中に、ひなたが映っている。彼女の瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
「それでね、いつか、乗ってみたいなって、ずっと思ってたんだ」
さっきまでの元気にはしゃぐ無邪気な姿とは違い、静かに、かみしめるように滔々と語る。
けれど、自分の感情を素直にまっすぐ伝える姿は、やはり、どこまでもひなたらしいと感じた。
「なら、よかった」
藤久良くんも、ほっとしたようにやさしく笑って、そう言った。
それからしばらく、ゴンドラの中は静かだった。
とはいえ、それは気まずさを伴う静かさではない。むしろその逆で、穏やかさと、優しさを感じる、心がゆったりと安らぐような、そんな静けさだ。
ひなたは窓の外をみて、どんどん小さくなっていく来園者やほかのアトラクションに、時折「すごいなあ」と声を漏らしながら、口元をほころばせている。
そして、そんなひなたの様子を、藤久良くんは優しく見守っていた。
「ねえ」
ひなたが次に口を開いたのは、ちょうど二人を乗せたゴンドラが、頂上にさしかかろうというところだった。
「目、つむって」
そう言った唇は、緊張しているのか、きゅっと引き結ばれている。
「わ、わかった」
そんな彼女の言を受けて、藤久良くんが言われるがまま、目をつむった。彼も、なんだか緊張した様子だ。顔がこわばっている。
もしかして、もしかしなくても、そういうことなのだろうか。
観覧車に、ふたりきり。
私は友達と三人で遊園地に遊びに来たような気持ちで今日一日過ごしていたから、今の状況を客観視して、急にひなたと彼が、どんな状況にあるかに気づいて固まった。
『ねえ、朱音、いい?』
声には出さず、ひなたが問いかける。
いい? ていうのは、つまり、そういうことだよね。
どうなんだろう。いいの、だろうか。
私の唇が、彼のそれと触れるところを想像してみる。
いやでは、ないと思う。でも、それ以上に目の前がぐるぐるしてしまって、顔が、というかもう全身が熱くて、わあーって叫びだしたいみたいな気持ちになって、上手く想像することが出来なかった。
それになんか、なんだろう。私の身体が彼と触れること自体には、そう抵抗はないんだけど、今回のこれはなんだか、違うというか。
もやもや、するというか。
藤久良くんが、訝しげに眉をひそめた。
長いこと目をつぶった状態のまま放置されて、不審に思ったのだろう。
そうこうしているうちに、私たちを乗せた観覧車は、ついに頂上へとさしかかった。
私の答えを待たず、ひなたが立ち上がる。
そして、藤久良くんの側に移動した。
重心が傾いて、がたん、と大きく揺れる。
やっぱり、これ、そういうこと、なんだよね。
藤久良くんの隣に座ったひなたが、少しずつ彼のそばに身体を寄せる。
この段になっても、私はまだ自分の気持ちがよく分からなくて、でも、なんだかもやもやして、ぐるぐるして、とにもかくにも見ていられなくなって。
『やっぱりだめーーー!』
私が叫ぶのと、彼の唇にふさふさとした柔らかいものが触れるのは、同時だった。
ん? ふさふさ?
「なーんちゃって」
彼の唇から、先ほど見事に撃ち落としたウサギのぬいぐるみを離しながら、ひなたがいたずらっぽく笑う。
目をぱちくりとさせながら、自分の唇に触れたものの正体をようやっと把握した様子の藤久良くんは、どこかほっとしたように笑った。
「緊張して損したわ~」
「なに、なんか期待でもしてたの?」
そんな二人のやりとりを聞いて、私も一気に肩の力が抜ける。
『ねえ朱音』
声には出さず、再びひなたが私に話しかけてくる。
『あのさ、初めては朱音にとっといてあげるからさ、これくらいは許してくれるよね?』
え?
疑問符を浮かべる私をよそに、ひなたは手に持ったままのウサギを、自らの唇にちゅっ、とつける。
観覧車の中。彼の隣。
小泉ひなたは、その日、人生最初で最後のキスをした。
「藤久良くん、少し、朱音と話しをさせてもらってもいいかな」
笑顔だけど、どこか寂しげにひなたが言った。
「ああ」
「それから、今日一日。とっても、とっっっても楽しかった。藤久良くんが昨日デートに誘ってくれたからだよ。ありがとう」
観覧車はすでに下りにさしかかっていた。
少しずつ、けれど着実に、地面が近づいてくる。
観覧車の外では、閉園をつげるアナウンスが鳴っていた。
夢は覚め、魔法は、もうすぐとける。
『朱音』
ひなたが、改まった様子で呼びかけてくる。
『あたしね、ずっと、自分が何をしたいのか、何が心のこりでこの世界に留まり続けているのか、ずっと分からなかった。だって、やりたいこと、やりのこしたこと、あまりにも、多すぎたんだもん』
『うん』
『でもね、今日、やっと分かった』
晴れやかな笑顔で、彼女は言う。
『あたしはずっと、友達がほしかっったんだ』
予想だにしなかった言葉に、虚を突かれた。
『そりゃあもちろん、学校にだって通いたかったし、部活だってしたかったし、デートだって、恋だって、やりたいことなんて、いくらでもあったよ』
まあ、半分くらいは叶えてもらえたんだけどね、とはにかみながら、彼女は続ける。
『でも、あたしが本当に、心の底から望んでたのは、ずっと憧れていたのは、同じ年頃の女の子の友達と、放課後くだらない話をしたり、恋バナをしてみたり、たまにはこうやってちょっと遠くに遊びに来てみたリさ、そういう、そういうことだったんだよ』
『だからね、今日は本当に、本当に楽しかった。友達と三人で遊びに来たみたいで、とっても!』
胸が、熱い。
彼女も私と同じ気持ちだったから。
今日は、「デートをしてみたい」というひなたの願いを叶えるため、来ているはずだった。だけど、いつのまにか、私も一緒にまわってるような気持ちになって。三人で、遊びに来たみたいに思っていて。
『私も、私も楽しかった!』
ああ、やっぱり私たち、似たもの同士だったんだ。
私の言を受けて、ひなたの顔にぱあっと笑みが浮かぶ。
名前そのままの、周りの者みんなを温かい気持ちにするような、そんな笑みだ。
『ところで朱音、朱音は藤久良くんの、どんなところが好きなの?』
かと思えば、にやりと子どもっぽく笑って、そんなことを訊いてくる。
『なっ、藤久良くんのことは、べ、べべべべつに好きとかそんなんじゃ』
不意打ちはずるい。慌ててそう返す私に、ひなたはにやにやしたままからかうようなことを言ってくる。
その目はとろんとしていて、今にも瞑ってしまいそうだった。
何度も見てきた、この世に満足した彼ら彼女らが、行くべきところへ行く時の前兆。
『え~でもでも、さっきあたしがちゅーしようとしたとき、なんかすっごく赤くなってたし、だめーって言ってきたし~』
『そ、それは、ちょっとびっくりしちゃっただけだし……』
これはお姉さんからの忠告なんだけどさ、と、前置きして、彼女は言った。
『朱音は、ちゃんと、藤久良くんに好きって言うんだよ。あたしなんか、って思って、勝手に諦めたり、遠慮したりしちゃ、だめなんだからねっ!』
『だから、藤久良くんのことはまだ、そういうんじゃ、って、あぁ……」
操縦者を失った自分の身体が、ぐらりと傾ぐのを感じて、感傷に浸るよりも先に、半ば反射のように意識を集中させる。
「玉、森……?」
隣を見遣ると、気遣わしげな表情の藤久良くんと目が合った。
「うん」
その頷きで全てを悟ったのだろう。
彼は「おつかれ」と小さく呟いて、あとはずっと、ただ黙って、隣にいてくれた。
初めは、ひなたのことが、正直あまり好きではなかった。
年がうんと離れているならともかく、同世代というのはそれだけでなかなかやりづらいものがある。その上、彼女はひとつ年上で、そして、そうとは思えないくらいよく言えば無邪気で、ストレートに言ってしまえば子どもっぽかった。
パンケーキが食べたいと言われて有名店に並んだのに、半分食べたところでおなかいっぱいになっちゃったと言われたり、この前のトーストダッシュ作戦だったり、ちょっとわがままだなって、思うようなこともあった。
でも、彼女はいつもまっすぐで、前向きで、彼女が弱音を吐いたところは、思えば昨日しか見てない。
そうやって、ずっと頑張ってきたのだろう。人と同じ生活がおくれなくても、治療が辛くても、周りの大人を振り回しながら、弱いところは見せないで。
正反対のタイプだと思って、苦手意識を持っていたはずなのに。
彼女と私の共通点に気づいてから、私はこんなにも、ひなたのことを好きになっていたんだ。
観覧車が地上に着くまでの数分間、私はぼろぼろと涙を流しながら、友達との別れを惜しんだ。
◇
観覧車を降りると、私たちはどちらからともなく、退場ゲートへと向かって歩いた。
言葉少なに電車に揺られ、家の最寄り駅の改札を通る。
暗いし家まで送ると言ってくれた藤久良くんに、まだ八時前だから大丈夫と告げると、私はぱあん、と自分の両の頬を挟むようにはたいた。
彼が驚いた様子でこちらを見ているが、気にしない。
気持ちを切り替えるには、こんな些細なことでもいいから、きっかけが必要だったのだ。
だって、最後の最後まで賑やかだった彼女のことだ、湿っぽいのは、きっとあんまり好きじゃないんだろうから。
「ねえ、藤久良くん」
色々な気持ちを全部振り切るように、わざと弾んだ声で私は言う。
「おう」
彼もそのことに気づいているのだろう。
穏やかな表情で、ちょっとだけ作ったような軽い口調で、私の呼びかけに応える。
「また明日!」
だから私も、笑顔で大きく手を振った。
死があまりにも身近すぎて、また明日、なんて、気軽に信じられなくなっていた。だから、すんなりこの言葉がでてきて、自分で自分にびっくりする。
変わったのだろう。私は。
そしてそれは、彼のおかげだ。
去り際にひなたの言った言葉を思い出し、胸がかあっと熱くなるような、突然走りだしたくてしょうがなくなるような、不思議な気持ちになる。
「恋かぁ……」
今はまだ、自分の気持ちのことはよく分からない。
けれど、明日学校に行くのが、彼の隣の席に座ることが楽しみなことだけは、確かだった。
――玉森朱音が失踪したのは、その翌日のことだった。
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