4-1 紅く染まる世界の中で
最初は、単なる風邪だろうと思った。
登校して、始業直前になっても空いたままの隣の席に寂しさを覚えつつも、そこまで気にはしていなかった。
担任に確認すると、風邪なので今日は休むと、本人から電話があったという。
昨日遅くまで遊園地ではしゃいだからかもしれない。そんな思いもあって、あと純粋に体調が心配で、休み時間にスマホで「風邪なんだって? 大丈夫か?」と送ってみる。
すると、程なく返信があり、「ちょっと熱っぽいだけだから大丈夫! ありがとう」という返信が、ゆるい猫のスタンプと共に送られてきた。
しかし、次の日も、その次の日も、玉森は登校してこなかった。
薔薇の世話をお願いしたい、という旨のメッセージと共に、ちょっと風邪をこじらせてしまったけれど、きちんと病院に行って薬ももらったし心配いらない、という内容が送られてきた。
普通のクラスメイトなら、風で数日休むくらい、別に気にしなかっただろう。
けれど、いま休んでいるのは玉森なのだ。
もしかしたら、なにかやっかいなお願いを叶えるため、学校を休んでいるのかもしれない。それなら、俺にも何か手伝えることがあるのでは。
そう思って聞いてみたのだが、返事は「大丈夫だから心配するな」の一点張りだった。
そして四日目、その日も空のままの隣の席を横目に見ながら、俺はある可能性に気づいて固まった。
(俺がやりとりをしているのは、学校に電話をかけてきているのは、本当に玉森なのか?)
玉森は、普通の人とは異なる体質を持っている。
彼女の身体は、彼女ひとりだけのものではないのだ。
悪意ある何者かが、玉森の身体を乗っ取っているのだとしたら……?
背筋が凍った。
どうして俺は、ここまでその可能性に気づかなかったんだろう。
考えすぎかもしれない。玉森は本当に風邪をちょっとこじらせてしまっただけなのかもしれない。
でも、それでも、俺は自分の頭に浮かんだ恐ろしい可能性を振り払うことが出来なかった。
スマホが着信を知らせたのは、ちょうどそんな時だ。
授業中にもかかわらず、俺は誰からの連絡なのかを確認する。
そして、目をむいた。
己の予感が的中してしまいそうで、息が詰まる。
スマホの画面に映し出されていたのは、俺がいま、ちょうど考えていた人物、玉森朱音その人だった。
ちょっと天然なところはあるけど、常識的で遠慮しいな玉森のことだ。授業中に電話をかけてくるなんて、何かよほどの非常事態に巻き込まれているに違いない。
あるいは、本当に俺の考えたとおりに、別の人物が玉森の身体を使って電話をかけてきているのか。
どちらにせよ、いてもたってもいられなくて、俺は授業中にもかかわらず鞄を引っ掴むと、唖然として制止も出来ないでいる教師を置き去りにして教室を飛び出した。
廊下を駆けながら、受信のボタンを押す。
指は、緊張のためか少し震えていた。
「おう、ヒロ、元気してたか?」
瞬間、すべてを察した。
「紅、姉……?」
喉が渇いて張り付く。
絞り出すように、どうにか問いかけた。
「おいおい。疑問系たあさみしいじゃねえか。たったひとりの大切な姉貴の声を忘れちまったのか?」
忘れるわけない。
あの日から一度だって、忘れた訳がなかった。忘れられたわけが。
視界が赤に染まる。
自分が今どこに居て、どこに向かっているのか。それすら分からなくなって、見失って。
世界が、自分が。すべての境界があやふやにぼやけていく感じがする。
「俺様が訊いてんのに無視たあいい度胸じゃねえか」
かはは、笑いながら紅姉が言う。
その笑みは、軽くて快活な響きと裏腹に、本能的に震え上がってしまうような捕食者の凄みもはらんでいた。
そうだったよな。紅姉はいつも俺様だったよな。
こっちの気も知らないで、好きなだけ振り回して。
「――玉森朱音は預かった。返してほしくば、俺様のことを探し出してみろ」
犯行予告めいた低い声を最後に、電話は唐突に切れた。
自分の言いたいことだけ、一方的に言って。
「なんなんだよ……」
クソッ、とその辺の壁を思い切り殴りつける。
どっ、と、全身から汗が噴き出た。
いつの間にか、電話を握りしめていた手も、汗でびっしょりと濡れている。
知らぬ間に、校舎から離れたところまで来ていたらしい。
こんな時間に制服のまま、尋常でない様子でいる高校生をみて、通行人は関わりあいたくないとばかりに目線をそらして足早に駆けていった。
「紅姉、なんで……。今更、こんな」
意味をなさない言葉が、口から漏れる。
彼女が何を考えてるのか、何がしたいのか、俺には全く分からない。
分からないけど、しかし。
「玉森朱音は預かった、か」
分からないが故に、乗るしかないのだろう。彼女の要求に。
こうして、俺たち姉弟のかくれんぼが始まった。
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