4-5 紅く染まる世界の中で

 どうして、と。今度もまた、先ほどと同じ問いが胸を満たした。

 しかし、今度のそれは声にならない。


 頭が混乱する。

 紅姉が一年以上もこの街に残っているのは、俺を殺すため?


 仲のいい、姉弟だと思っていた。

 けれど、どうやらそれは、俺の勝手な思い込みだったらしい。


 一体どこで間違えてしまったのだろう。

 最後の呼び出しに応じなかったのを、それほど恨んでいるのか。


 それとも、それよりずっとずっと前から、俺たちはもう、どうしようもないくらいにすれ違ってしまっていたのか。


 まとまらない思考の中で、唯一合点がいったことがある。

 玉森は、紅姉の目的、心残りを知っていて。だから、俺を近づかせたくなかったのだろう。


 そう考えれば、先の電話も、かたくなに大丈夫だと主張していたチャットでの様子にも合点がいく。


 混乱する俺をよそに、紅姉が一歩後ろに下がった。

 と、同時に紅姉の握っていたナイフも、シュコッという音とともに俺の体から離れる。


 ……シュコ?


 そして、俺はあるはずのものがないことに気づいた。

 血が、一切出ていないのである。

 夕焼けで真っ赤に染まる世界の中で、俺のワイシャツは未だ純白を保っていた。


「かはは」


 と、目の前に視線をやると、そこには肩を震わせて笑う紅姉の姿。

 その手に握られたナイフにもやっぱり血はついていなくて。ナイフの刃の部分を掌に押し付けては、引っ込ませたりまた出したりして、シュコシュコと遊んでいる。


 つまりこれは。


「紅姉だましやがったな!」


 先ほど紅姉の声が震えていたのも、もしかしたらあの時からすでに、笑いをこらえていたのかもしれない。


 まったく、玉森に四日間も学校を休ませて、俺のことも散々心配させて、それでこの仕打ちか。これはどうお灸をすえてやろう。


 そんなことを考えていた俺は、瞬間、声を失った。

 先ほどまで俯いていた紅姉と、今日初めて目が合う。

 その瞳に燃える、抑えきれない感情に、思わず血の気が引く。


 先ほど紅姉の声を震わせていたもの、それは、溢れんばかりの怒り、だった。


 からんからん、と乾いた音がコンクリートの床をたたく。

 見ると、紅姉がナイフのおもちゃを床に投げ捨てたところだった。


「まったく、傑作だよなあ。この嬢ちゃんも、俺様がヒロのこと本気で殺そうとしてると思って、学校休んで立てこもっちゃうし。さっきなんて、一瞬俺様のこと押しのけて出てきたしな」


 やはり。俺が屋上に来てすぐ、「来ないで」と叫んだのは玉森だったのだ。どうやら、玉森が俺に見つけないでほしがっていたのも、俺の想像通りの理由かららしい。


 紅姉には、言いたいことも聞きたいことも、たくさんあった。

 けれど、激しい怒りを灯した紅姉の瞳を前に、うまく言葉が紡げない。

 結果、俺の口から出てきたのは。


「なあ、なんで紅姉がここにいんだよ」


 という疑問だった。

 俺としては、当然の疑問を問うただけのつもりだったが、紅姉の眉が吊り上がる。

 怒りの温度が、一段、上昇した気がした。


「俺様がこの街に残ってる理由? それならさっき言ったろ」


 腑に落ちない表情でいる俺の襟首をおもむろに掴み、ほとんど顔と顔が触れそうな距離で、紅姉が吠える。


「だ、か、ら、俺様がお前を殺したくて、それが心残りでこの街にいるってのは、嘘でも冗談でもねえってことだよッ!」


 目を見開くことしか、俺にはできなかった。

 呆然としている俺に、一方的に紅姉は言う。


「さっきナイフで刺したろ。あれで昨日までのお前は死んだんだ。今日からは新しいヒロの誕生ってワケ。だから、俺様のことなんて忘れて、新しい人生を生きろ」


 は?

 流石に黙っていられない。


「そんなことできるわけねえだろ?! だいたい、俺が今日までどんな思いで……」


 脳裏に浮かぶのは先ほどの玉森との電話だ。


「お願い」と言われ、自分の意志に反してつぶやかれる「わかった」の声。

 俺は今日までずっと、あの日のことを悔いて生きてきた。

 俺が紅姉の頼みを断ってなければ、紅姉は今頃――


「だあら、それがうぜえっつってんだよ」


 右手でわしゃわしゃと髪を掻きながら、紅姉が言う。


「いつまでもあの日のことを引きずってんじゃねえよバカ」


 その言葉に、先ほどまで押されっぱなしだった俺も、我慢ができなくなる。


「だってしょうがねえだろ? あの日俺が誘いを断ってなければ、紅姉はいまもここにいたはずで。それにそもそも、もっと早くに俺が紅姉の悩みや苦しみに気づいていればこんなことにはならなかたはずで! だから、俺が殺したみたいなもんで」


 紅姉の顔が真っ赤に染まった。

 原因はもちろん、怒りだ。

 紅姉は再度俺の襟首を掴む。そして。


「ふ、ざ、け、ん、なッ!」


 視界に星が飛ぶ。

 頭突きだった。

 人の体を使っていることなんて気にもとめず、彼女はあろう事か、全力の頭突きを放ってきたのだ。

 思わずバランスを崩し、そのまま座り込む俺に、紅姉はブチ切れる。


「いいか、よく聞け! 俺様の人生は、俺様だけのものだ。それを自分が気づいていればとか、自分がもっと助けてあげていたら、とか、てめえは何様のつもりだ? ああん?」


 言われて、はっとする。

 自分が今まで思ってきたことは、傲慢だったのか?


 でも、それでも、と俺は思う。

 それでも、どうにかして、姉の死を防ぐことが、俺にはできたのではないか、と。


「お前、まだくだらねえこと考えてやがるな」


 しかし、俺の考えなんてすべてお見通しとばかりに、姉がぎろりと俺のことを睨みつける。


「まだ分からねえようだから、はっきり言ってやる。いいか、俺様の死は、俺様が自分の意思で選んだものだ。俺様だけのものだ。だから、お前が仮にあの日一緒にメシに行ってたとして、それで自殺すんのをやめてたとして、別の日に俺様は死んでただけだ。

 それに、お前が俺様の悩みに気づいてようが、気にかけてようが、それは死ぬのを申し訳なく思う罪悪感が増すだけで、死ぬのをやめる理由になんかならねえんだよ」


 俺の存在は、姉にとってそんなにちっぽけな、どうでもいいものだったのだろうか。

 そう思うと、胸の痛みを無理矢理覆い隠すかのように、怒りがこみ上げてきた。


「俺は、紅姉にとって、そんなもんだったのかよ。取るに足らない、存在だったってことかよ」


 たたきつけるように言うと、姉の顔が殴られたかのようにゆがんだ気がした。

 けれど、それも一瞬のことで、すぐにいつもの傲岸不遜な態度に戻る。

 そして、はっきりと断言した。


「ああ、そうだ」

「そうかよ」


 吐き捨てるように言うと、とりあえず俺に言いたいことは言い切ったようで、ふう、と大きく息を吸う。


「お前もだからな玉森!」


 そして、俺の瞳の中に映る玉森をびしっと指さして、吠えた。


「どいつもこいつも、お人好しがすぎんだよ。自分がやらなきゃ、この町のひとの魂が救えない? そんなもん、ほっとけばいいじゃねえか。生きてるうちにやりたかったことに囚われてる自業自得の幽霊なんて、ほっときゃいいんだそんなもん」


 一言の反論も許さないまま、姉の演説は続く。


「だいたいな、一人の人間にできることなんて限りがあんだよ。人間なんて、自分という人間ひとり幸せにするのだって、なかなか簡単にできるもんじゃない。それなのに他人のことまで救おうとするとか、てめえらは馬鹿か。お前らみてえな普通の人間は、黙って自分のことだけ幸せにしてればいいんだ馬鹿」


 ふいに、玉森から表情が消えた。

 かと思うと、キッと目の前――俺の瞳を睨みつけ、両の頬をパアンと勢いよく叩く。


「お人好しはこっちの台詞です!」


 その瞳は濡れていた。

 それは痛みによるものなのか、それともそれ以外のせいなのか。


「お姉さんだって、びっくりするくらいのお人好しじゃないですか。そうやって悪役面して、藤久倉くんを助けようとしてるでしょう」


「な、俺様はただ、こいつのことが気に入らなくて」


 前に玉森は、一つの体の中に複数の人格が入っていることを、巨大ロボットに例えた。操縦席が一つあって、その座席に座っている方の人間が、体を動かすことができるのだと。


 きっと今は、その操縦席を、二人で奪い合っている状況なのだろう。

 玉森の体はころころと表情を変えながら、二人分の言葉を一人で話す。


「お姉さんは、藤久倉くんが心配で心配でどうしようもなくて、いつまで経ってもこの街から出られなかったんですよね」


 語られるのは、俺の知らない、紅姉の想いだった。


「違う。俺様はいつまでもうじうじしてるこいつが気に食わなくて、一発カツをいれてやりたくて……」


「だから、それがお人よしだって言ってんです。今回の町内おにごっこだって、私のことを騙して、わざと藤久倉くんに“お願い”するように仕向けましたよね? 彼を、人の頼みを断ることができない、という呪いから救うために」


 いつもはふにゃふにゃとして天然な印象の玉森が、今日はとても凛々しい顔をしている。対照的に、獰猛な捕食者の印象が色濃い紅姉は、玉森に押されてたじろいでいる様子だった。


「な、勝手に決めつけてんじゃねえ! 俺様は本当に、こいつがムカついて、気になってたってだけで……」


「お姉さんが本当に殺したかったのは、お姉さんの死を自分のせいだと抱えこんで、人の頼みを断れなくなってしまった藤久倉くんなんでしょう?」


 こうなってしまうともう、どちらの言い分が正解なのかは、考えるまでもない。

 紅姉は、これほどまでに俺のことを思ってくれていたのか。

 そう思うと、なんだか胸が熱くて。胸の熱いものが、やがて目頭まで登ってくる。


 それと同時に、先ほど売り言葉に買い言葉で喧嘩をしてしまった自分を、ひどく恥じる気持ちもあった。


「せっかく再会できたんです。仲直り、しましょう?」


 このままお別れなんて、悲しすぎますから。と、玉森が言う。そして、すっ、と紅姉に入れ替わった。


「あーもぅーっ!」


 しばし、紅姉は両の手で髪の毛をくしゃくしゃにしていた。

 しかし、俺と目が合うと、いい加減観念したようで、「ほらよ」と右の手をぶっきらぼうに突き出す。


「さっきは頭突きして悪かった」


 あと、どうでもいい存在とか言って、それもごめん。

 唇を尖らせながら、ぼそぼそとした言い方だったけれど、紅姉が確かに俺に謝る。


「こっちこそ、紅姉の気持ちとか何にも考えず、つっかかって悪かった」


 差し出された手を、俺も素直に受け取る。

 すると、ほどなくして目の前の人物の雰囲気が変わった。

 そして、握られた俺たち姉弟の手を、にこにこと微笑ましそうに眺めている。

 かと思えば、玉森の瞳からまた、すべての色が消えて――


「うーっし、ハイジャック成功!」


 紅姉が、勝ち誇ったように、にかかと笑った。


「は? おい、玉森は大丈夫なのかよ」


 玉森の身体をどういう仕組みで複数人の魂が使っているのか、詳しいことは俺にはわからない。


 けれど、今まではこんなに頻繁に二人の人格が入れ替わったりしてなかったし、時間を取り決めたりして、両社の合意のもと身体の操縦権を受け渡していたような印象があった。


 しかし、心配する俺をよそに、紅姉はあっけからんとしていて、


「なあに、ちょっと寝てもらっただけだから心配すんな」


 なんてのたまっている。ほんと、人の身体だってのにほんと遠慮とかしねえな姉貴は。

 それに、とちいさく呟いてから、紅姉は言った。


「最期の時くらい、家族水入らずで過ごしたいだろ?」


 少し照れた様子で、そう寂しげに笑われてしまっては、こっちも強く言い返せない。


 紅姉の心残りは、いつまでも紅姉の死を自分のせいだと思い、人の頼みを断れなくなってしまった俺自身だった。


 だから、玉森のお願いに背いてこの場所まで俺が来たってことは、紅姉はもう何時消えてしまってもおかしくない。


 予想外の連続だったけど、何はともあれ約一年ぶりの再会だ。

 紅姉がいくべきところに行く、最後の最後の瞬間まで、いろんなことを話そう。

 玉森とともに過ごしてきた、今日までのことを。


 そんなことを、考えていた時だった。


 急に、視界が傾ぐ。


 それは、なんてことない揺れだったのだろう。

 日本に住んでいれば慣れてしまうような、震度三とか四とか、せいぜいそれぐらいの。


 だが、場所が悪かった。

 紅姉が死んだときからそのままになっている、壊れかけの廃ビル。

 十二階建てのそれは地面の振動を何倍にも増幅し、そして。


 屋上の縁に腰かけていた玉森の身体を、無慈悲に投げ出した。

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