4-6 紅く染まる世界の中で

 紅姉の目が見開かれる。

 それは、あの日の光景に、とてもよく似ていた。


 頼む。

 届け!

 今度こそ届いてくれ!


 考えるよりも早く、とっさに手を伸ばす。

 届いた、とほっとするより先に、ぐん、と片腕に重みが、痛みがかかった。


「おい、何してんだ。離せよ」


 紅姉が、俺の腕に吊られながら険しい顔で言う。


「紅姉の方こそ何言ってんだ。そんなことしたら落ちるだろうが」


 そう言って、俺はぐっと紅姉の腕を握る手に力を込めた。

 玉森は比較的細身だが、だからって腕一本で軽々支えられるほど軽くはない。

 けれど、ここで手を離すわけにはいかなかった。


 地上十二階。ここから落ちたらどうなるかなんて、紅姉も俺も、いやと言うほど知りすぎている。


「だから、このままじゃお前まで落ちるっつってんだよ……! 離せよ! 早く!」


「ッ……!」


 指が食い込むくらい無理矢理に力を込めて、紅姉が落ちるのを防ぐ。

 腕に血管が浮き、食いしばりすぎた歯が痛い。

 しかし、俺の抵抗もむなしく、紅姉の身体はずりずりと、重力に引きずられていく。


「てめえみてえなガキに、俺様が持ち上げられるわけないだろ! いいから早く手を離せよ! このままじゃ二人とも落ちるだろうが!」


 紅姉は引かない。

 けれど、俺だって引くわけにはいかなかった。


 脳裏に甦るのはあの日の記憶だ。

 今みたいに屋上の縁から上半身を乗り出して、確認のために下を覗いたあの瞬間。


 想像の中で、真っ赤に染まる人物が、紅姉から玉森に変わる。


 そんなの、そんなの絶対に防がなければいけない。

 そのためなら、俺の腕が動かなくなったって、何だっていい。


 絶対に俺は、二人を助ける。

 いやな想像で喉の奥にこみ上げてきた酸っぱい物を必死で飲み込みながら、この状況すべてを鼻で笑い飛ばして、挑発的に言う。


「人の頼みを聞いてばっかな俺のことを、紅姉は殺したかったんだろ?」


 とはいえ、このままじゃじり貧だ。

 身体の上半分は、落ちる紅姉に必死で手を伸ばした時のまま半分宙に浮いているし、このままの状態が続けば、紅姉の言うとおり、二人とも落ちてしまうかもしれない。


 どうにか、紅姉を説得して、上ってきてもらわねば。

 しかし、そんな俺の思いとは裏腹に、紅姉はまるでだだっ子のように言う。


「ああそうだよ。俺様はお前を殺したかった。いつまでも人の死を勝手に自分のせいだと思い込んでうじうじしているお前を。でも、分かるだろ?! 俺様は、お前に、ただ、幸せになって、ほしくて――」


 紅姉はそう言うと、あろうことか俺の腕を握る手から力をぬいた。


「ざけんな紅姉ッ! いいから早く上がってこい!」


 本気で怒鳴りつける。

 けれど、いつも不敵に笑っていたはずの彼女は、泣きそうな薄ら笑いを浮かべて、まるで懇願するように言った。


「朱音ちゃんには、申し訳ないと思ってる。お前から朱音ちゃんを奪うことも。でも、このままじゃお前まで死んじまうだろ?! 俺は、一年間一緒に過ごしただけの心優しい他人より、弱虫でもかっこよくなくても、お前に、たったひとりの弟であるお前に、生きていてほしいんだよ……!」


 頼む、手を離してくれ。


 そう呟く紅姉は、不遜でも不敵でもない、ただのか弱い女の子だった。 

 死ぬ前の彼女も、こんな顔をしていたのだろうか。こんな時だというのに、ふとそんな思いが頭をよぎる。


 ならば。

 ならば、なおのこと、俺は紅姉を諦める訳にはいかない。


「大切な姉貴を、二度も死なせる訳には、いかねえだろうが……!」


 相手のことが大切なのは、姉弟のことを大切に思っているのは、自分だけだとでも思っていたのか。


 そんな怒りすら抱きながら、俺は無理矢理紅姉の腕を引き上げようとする。

 しかし、振り絞れるだけの力をすべて振り絞って、ぎりぎりのところでこらえているのが今の現状だ。無理に引き上げるため体勢を変えようとすると、こちらまで落ちそうになってしまう。


 紅姉と玉森を助けるためには、俺が支えていられる間に、紅姉自身の力で上ってきてもらうことが必要だ。


 腕はとっくの昔にしびれていて、痛い以外の感覚がない。

 時間がなかった。


 紅姉の瞳が、迷うように揺れている。

 もう一押し。手が滑らないよう指先に全神経を集中させたまま、俺は口を開く。


「なあ、知ってるか。犬の散歩って、結構体力使うんだよ」


「?」


「ほかにも、空手教室の体験行ったり、ミスコン会場から全力で駅まで走ったり、丸一日遊園地で遊び回ったりしてさ」


「何を、言って、」


 紅姉が、ぽかんとしながら言った。


「つまりさ、」と前置きして、俺は全身に力を込める。

 いま残っている、すべての力を。


「男子高校生の、体力を、なめんなぁぁぁああああああああ!!!」


 屋上の外に身を乗り出すようになっていた上半身を、根性で後ろに思いっきり倒す!


 腕が痛い。熱い。痛い痛い痛い。痛いし痺れてるし最悪だ。ブチブチという、切れてはいけない何かが切れたような音がしたが強引に無視した。


 俺と関わって、玉森は何か変わったのかもしれない。


 同じように、俺も玉森と出会って、変わったのだ。

 一年前の俺とは、紅姉の中の俺とはちがうんだ。


 頼む。届け。

 紅姉、もう一度だけでいい、俺のことを頼ってくれ。


「紅姉いまだ! 上がってこい!」


 迷うように揺れていた瞳が、俺のことを捉えた。

 その目に映る俺を、一年前の、中学生の頃とはちがう俺の姿を、彼女はどう捉えたのだろう。

 紅姉は小さく頷くと、にかっと不敵に笑った。


「ったく、ちょっと目を離した隙に、一丁前になってんじゃねえか!」


 紅姉が俺の腕を引いて上ってくる。 

 引きずられそうになるのを必死でこらえる。

 俺のことを認めて、信頼してくれた紅姉に応えるために。

 二人の大切な女の子を、助けるために。

 



 数分後。俺と紅姉は、二人そろって屋上に手をつき、四つん這いになってぜーぜーあえいでいた。


「はー、死ぬかと思った」


 さっきまでか弱い女の子に見えた紅姉は、いつものカラッとした不敵な笑みを浮かべながらそう言う。


 けれど、俺は気づいてしまった。その顔がいつもより青白いのも、身体が小さく震えていることも。

 きっと紅姉は、不安とか、恐怖とか、たくさんの思いを当時から無理矢理、笑い飛ばしてきたのだろう。不敵な笑みで、弱い自分を覆い隠して。


 あの時から、ちゃんと紅姉の弱い部分にも、こうやってちゃんと気づくことが出来ていれば、少しは変わったのだろうか。

 こうやって、隣で笑い合えていたのだろうか。玉森の身体ではなく、紅姉本来の姿のままで。


「こーらッ」


 と、紅姉が俺の頭を小突く。


「まーたお前は懲りもせず、あの時ああしていればー、とか、こうしていればー、とか、引きずってんのか? ああん?」


 お前には学習能力がないのか? 変わったつったのは嘘だったのか? と、煽ってくる紅姉。

 そんなやりとりに懐かしさを覚えつつ、確かにこれは俺が悪かったな、と少しだけ反省した。


「なあ、ヒロ」


 雑談の延長のような、軽いトーンで紅姉は言った。


「俺様が何で死んだのか、聞きたい?」 


 ほんとはみっともないからあんま言いたくなかったんだけどさ、と照れ隠しのように、にしし、と笑う。


 正直、気になってはいたんだ。遺書も何も遺さず、ある日突然居なくなってしまったから。

 俺たち家族ですら、事故じゃないかと疑った。あるいは事件に巻き込まれ、殺されたのではないかと。


 けれど、紅姉が死んだ時間、屋上には俺以外いなかったはずだし、屋上にきれいにそろえられた靴は、紅姉の死が事故ではないことを物語っていた。


 ごくり、と生唾を飲む。

 それを肯定と受け取ったのか、紅姉は滔々と語り始めた。

 



 それは、恋の話だった。

 どこにでもありそうな、恋の。


 一人の女子高生が、一人の男に恋をした。

 けれど、その男は教師だった。


 その男は、俺が好きなのはお前だけだと言い、二人は卒業したら結婚しようと誓い合った。


 だから、少女は待った。

 好きだったから、待って、高校生活三年間、ほかの同世代の男には見向きもしないで、大学生になってからも、周りの出逢いを全部見て見ぬふりして。


 ただ、待ち続けた。


 けれど、やがて待ちきれなくなって、少女は彼の家を訪れる。

 そういえば、もう付き合って四年にもなるのに、家には遊びに行ったことがなかった。


 驚くだろうか。喜んでくれるだろうか。

 そして、期待と少しばかりの不安に胸をどきどきさせていた彼女を迎えたのは、彼の妻子だった。


「な、しょうもない話だろ」


 そう言って紅姉は、かはは、と乾いた笑いを浮かべる。

 その瞳はどこかとろんとしていて、眠そうだった。


 この感じは知っている。

 思い出すのは、いつかの柏木の様子だ。念願だったコウくんとの対面を果たしてから、柏木はずっと眠たそうだった。

 きっと、もうすぐ紅姉は、行くべきところに向かうんだ。


「あの目の前に建ってるマンションな、そいつん家なんだよ。ほんと、女々しいよな。自分でも笑っちゃうくらい」


 紅姉の瞼が、くっついては必死でこじ開けられる。


「だから、さ。本当に、お前が気に病む必要なんてないんだよ。お前があの日俺様の誘いを断ってなくても、俺様は次の日には死んでたんだろうし」


 もうすぐ、本当にお別れだ。

 だから、俺には言わなければならないことがあった。


「……ねえよ」


「?」


「しょうもなくなんかねえよ!」


 今にも閉じられそうだった紅姉の目が、一瞬見開かれた。

 栗色の玉森の瞳で、俺のことを映す。


「だって、それほど好きだったんだろ? なら、それはしょうもなくなんかない。だから、そうやって無理して笑うなよ」


 死んだあとになってまで、無理して笑う必要なんて、ないんだ。

 途端、先ほどまで乾いた笑みを浮かべていた紅姉の顔が、くしゃっと歪んだ。


「なんだ、俺様がわざわざのこることなかったじゃん」


 そろそろと伸ばされた手が、俺の頭にふれる。


「ちょっと見ない間に、こんなに大きくなって――」


 そして、そのまま、紅姉の意識は途絶えた。

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