3-2 小泉ひなたは青春がしたい

 少しだけ時間差をつけて、屋上へと向かう。

 重たい扉を開けると、そこには少しだけ先に来ていた藤久良くんが、お弁当を広げたまま手はつけないで待っていた。


 どうやら、私が来るのを待っていてくれたらしい。そんな些細な気遣いに頬を緩ませながら、私は意識を内側に向ける。


 瞬間、屋上の風景が、窓の外のように遠くなった。

 そして、目の前に見えるのは、瞳をきらきらと輝かせた、色白で細身の少女。


『屋上でお昼ごはんなんて、夢みたい! 玉森さん、なんでもっと早く教えてくんなかったの?』


 目の前にいる彼女こそ、私の中にいる小泉ひなた、その人だった。

 ここなら藤久良くん以外誰もいないし、暴走しがちな彼女に出てきてもらってもいいだろう。


 そう考えた私は、『ねえ、屋上でお昼ごはん、食べてみる?』と声をかける。

 複数人の魂が入っていても、私の身体は一つだけだ。

 私以外の誰かが私の身体を動かすには、双方の合意がいる。


 もっとも、今まで経験がないだけで、私の身体を強引に乗っ取ろうとする誰かが現れたら、その限りではないのかもしれないが……。


『え? いいの? やったー!』


 二つ返事で小泉さんが私の提案をのむ。

 その声を聞いて、私は意識的に気を緩めた。


 私の顔を見ていた藤久良くんの瞳が、僅かに見開かれるのを、どこか遠くの出来事のようにぼんやりと眺める。


「あの、あなたが藤久良くん、だよね……? あたしは、その、小泉ひなたっていうの、よろしく!」


 私の口が、私以外の言葉を紡ぐ。

 これでもう、私の身体の操縦士は小泉さんに移り変わった。


 つっかえつっかえに放たれた言葉は、私と接するときの天真爛漫な印象とはちがって、緊張に満ちあふれている。

 頬もなんとなく赤くなっている気がするし、動き方もどこかぎこちない。


 そんな様子を私は、映画館のスクリーンでも眺めるように、ただぼんやりと眺めていた。


「その、あたし、同世代の子としゃべったことがあんまなくてっ。ていうか、ほとんど初めてっていうか……。そもそも、男のひとなんて、お父さんと先生以外と会う機会もなかったしっ」


 赤面しながらわたわたと、言い訳めいたことを話す小泉さん。

 正直、この展開は予想外だった。

 彼女はいっつもやりたい放題というか、私には言いたいこと何でも言ってきて、正直ちょっとうるさいくらいなのに。


 うーん。小泉さんと直接話してもらって糸口を掴もうかと思ったんだけど、やっぱり私が説明した方がいいかもしれない。

 そう思って、小泉さんに声をかけようとしたその時。


「とりあえず、昼飯にしねえ? 腹へっちゃってさ」


 藤久良くんが、手に持ったお弁当を掲げて言った。


「う、うんっ……」


 そして、まるで借りてきた猫のように、小泉さんが藤久良くんの隣にちょこんと座る。

 そして、昼食をとりながら、二人は改めて自己紹介を始めたのだった。



「青春、かぁ……」


 数十分後、空のお弁当箱を膝の上にのせた藤久良くんは、腕を組んで考え込んでいた。


 藤久良くんはすごかった。

 緊張で上手くしゃべれない小泉さんに、にこやかに話題を振り続け、距離を縮めながら状況の把握までこなしてしまったのだ。


 最初の内は「はい」「いいえ」で簡単に答えられる質問から始め、けれど問い詰めるような雰囲気にならないよう冗談や自分の話も交えつつ、徐々に小泉さん自身の言葉でしゃべってもらえるような質問にシフトしていく、という技を見せつけられてしまった。コミュ力の塊……!


 そんな藤久良くんなら、私には思いつかなかった画期的なアイデアを提案してくれるのでは? そんな期待に満ちたまなざしを向けると、ちょうど藤久良くんが口を開いた。


「やっぱりさ、青春っていうと、部活なんじゃないかな」

「部活……確かに、青春ポイントめちゃ高かもっ!」


 小泉さんが、思わずといった様子で藤久良くんの方に身を乗り出す。

 さっきまでの緊張はどこへやら、この至近距離を全く意に介さない様子の小泉さんに、身体を提供している私としてはひやひやしてしまう。


 どうやら小泉さん、同世代の子との距離感が、小学生同士のそれから成長していないのである。

 端的に言えば、男女というものを過剰に意識する割には、物理的距離がすこぶる近い。


 もう、藤久良くんだからいいけどさ。ほかの男子にまでこの調子で近づいたりスキンシップをとられたりしたら……。


 って、いやいや、何考えてるの私。藤久良くんのことはべつにそういうんじゃ……!


 と、私が心の中で一人百面相をしている間に、何やら話が進んでいたらしい。


「じゃあ、俺放課後体験入部できないか、早速訊いてみるよ」

「ありがとう!」


 どうやら、今日の放課後は、何らかの部活の体験入部をすることに決まったようだ。



 そして放課後、私はジャージに身を包んでいた。

 色は学年カラーを表す赤である。ジャージってことは運動部なんだろうし、一応髪も後ろで一つに結わいてみた。ポニーテールと呼ぶには短いそれが、しっぽのように首の辺りをくすぐる。


 お昼休み、教室に帰るやいなや、藤久良くんは早速クラスの子に、体験入部の件を訊ねてくれたらしい。


 私が時間差をつけて教室に戻った頃には、もう話は済んでたみたいで、「放課後、ジャージに着替えてグラウンドな」というメッセージが飛んできていた。


 言われたとおりグラウンドにやってきたはいいものの、うっかり話を聞きそびれてしまっていた私は、この段になっても、今日なんの部活の体験をするのか知らなかった。


 まあ、どんな部活動を体験するにせよ、魂守としての役割を果たす必要がある私が正式に入部することは出来ない。毎日放課後に長時間拘束されてしまう部活動を、私は高校に入学した当初から諦めて、体験入部にすら顔を出さなかった。


 けれど、生まれて初めての運動部での活動に胸が高鳴らないと言えば嘘になる。

少しばかりの嫉妬をのみこんで、お昼休みぶりに、私は身体を再び小泉さんに明け渡した。


 程なくして、同じクラスの子がやってくる。確か、杉井さんと言ったか。こんがりと健康的に焼けた肌が眩しい彼女は、小泉さんに向かって笑顔で手を振った。


「それにしても意外だったよ。玉森さんがテニスに興味あるなんて!」


 さっぱりとした笑みを浮かべながら、杉井さんが言った。


「うん、やったことはないんだけど、かっこいいなって思って!」


 声をかけられた小泉さんが、そう返す。

 なるほど、テニスか。確かに、テニス部の子たちのこんがりと焼けた肌や、引き締まった腕、脚はとても魅力的だし、汗を流しながらもどこかさわやかな印象で憧れるのも頷ける。


「あたしも羆落としできるかなぁ……」


 期待に充ち満ちた声で、小泉さんが呟いた。


「何か言った?」

「ううん。それよりさ、早くコートに行こ!」


 そう言う小泉さんに、しかし、杉井さんは容赦なく告げる。


「あ、ごめんね。今日はコートには入れないんだ」

「へ?」


 小泉さんと一緒に、頭に疑問符を浮かべる私。


「一年生は、体力作りとボール拾いがメインなの。コートに立ってラケットを握れるのは一週間の内土曜日だけだよ」

「そ、そんなあ……」


 がっくりと項垂れる小泉さんの手を取り、杉井さんは相も変わらず爽やかな笑みで告げる。


「さあ! 今日も元気に体力づくりするぞー! まずはグラウンド十周からね。ファイト!」


 数十分後、私はグラウンドの隅でぐったりとしていた。

 最初のランニングまでは、周回遅れになりながらもどうにかついていったのだ。

 しかし、体力作りはそれだけで終わらない。


 むしろ、ここからが本番とばかりに、腹筋、背筋、腕立て、素振りと、基礎トレーニングは際限なく続いた。

 結果、運動なんて体育の授業くらいでしかしない私の身体が耐えきれるはずもなく、一時間と保たずに、ひとり見学することとなったのだ。


「玉森さん、なんかごめんね。私、テニスのこととなると周りのことがあんまり見えなくなっちゃうみたいで……。顔色もよくないし、今日はこの辺にしといた方がいいよ」


 一通りの準備運動を終えた杉井さんが、申し訳なさそうにそう言う。


「こっちこそ、なんかごめんね」


 私以上に運動になれておらず、グロッキーな小泉さんは、息も絶えだえになんとかそう返すと、よろよろと校舎に向かっていった。

 


「悪い、ちょっとつかまってて遅くなった……って、あれ? 小泉? どうしたんだ? テニス部の体験入部してたんじゃないのか?」


 とりあえず汗みどろのジャージを着替えようと教室に向かって歩いていると、慌てた様子で教室から出てきた藤久良くんと遭遇した。


 どうやら、体験入部に付き合ってくれるつもりだったのが、先生に捕まってしまって、ようやっと解放されたところらしい。


 藤久良くんが誰かに頼まれごとをされて、それを断っているところを見たことがない。大方、今日も、誰かに何かを頼まれてしまったのだろう。


「それが……」


 小泉さんが藤久良くんに一部始終を話すのを、私はぼんやりと聞いていた。

 自分の頬が、小泉さんによって緩く持ち上げられているのを感じる。

 彼女が浮かべている表情は、諦めの笑みだった。


「やっぱりさ、私に青春なんて無理だったんだよ。運動どころか、何年も外に出てすらいなかった私に、テニスなんて無理だったんだ」


 そう呟く小泉さんに、藤久良くんは、「いや、テニス部の運動量が異常なだけだと思うぞ」と律儀につっこんでから、にやり、と笑った。


「じゃあさ、運動部以外の部活を体験してみようぜ」

「え?」


 予想外の申し出に首を傾げる小泉さんに、藤久良くんが言う。


「体験入部ってのは、いくつかの部活を体験して、その中から一番自分に合う部活を探すもんなんだよ」


 そういえば。

 私は魂守のお務めがあるから、最初から部活に入るつもりはなかった。だからその当たり前の発想が頭から抜け落ちていた。


 それは、中学にも高校にも通えなかった小泉さんも同じだったらしい。

彼女の瞳に、再びきらきらとした光が浮かぶ。


「小泉さ、漫画読むの好きなんだろ? だったらさ、自分で描いてみるってのはどうだ?」


「自分で、漫画を……。そんなこと、あたし、考えたこともなかった! 漫画、描いてみたい!」


「よし! そうと決まれば、さっそく漫研へレッツゴーだ!」


 こうして、私たち三人の、長い長い体験入部延長戦が始まった。

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