3-1 小泉ひなたは青春がしたい

 鏡で髪が跳ねてないか確認して、スカートになぜかついていた糸くずをぱっぱと手で払った。


 ほんとはちゃんとゴミ箱に入れるべきなんだけど、急いでるしいいだろう。怒る人もいないし。


 そして、仏壇の前で手を合わせる。


「お父さん、お母さん、行ってきます」


 いつもの朝だ。

 私、玉森朱音の朝は、毎朝こうやってはじまる。


 神社のことは叔父さんがやってくれるし、家事は週に二度、ヘルパーさんがきてくれる。

 ひとりだけなら正直そんなに家事もたまらないし、いいって言ったんだけど、叔父さんが気を利かせてくれた。


 だから、私は自分だけの仕事に専念できる。

 ひとり暮らしにはもう慣れた。

 寂しいとはもう思わない。


 そもそも、この家に住んでる身体は私ひとりだけど、この身体にはいつも誰かしらいるし。

 それに、最近では、私のことを手伝ってくれるひとも現れたし……。


『ねえちょっと、あたしの話、ちゃんと聞いてた?』


 頭の中に声が響く。今は意識を外に向けているから、彼女がどんな表情でそう言ったのかまでは分からない。


 前に魂守の能力がどんな感じなのか問われ、巨大ロボットに例えたことがあるが、意識を外に向けているときは、世界の見え方や感じ方は普通の人と同じだ。


 ただ一つちがっているのは、頭の中でみんなの声がすること。

 なんて言うか、脳内無線でつながっていて、いつでも通話が出来る感じ?


『聞いてたけど……ねえ、本当にやらないとだめ?』


 声には出さず、心の中で彼女に返答する。

 すると、彼女は不満げに言った。


『だってしょうがないじゃん。玉森さんもあたしに成仏してほしいんでしょ?』

『そりゃそうだけど……』

『なら、きまり! 早くしないと遅刻しちゃうよ? ほら、素敵な出逢いに向かって、れっつごー!』


 弾んだ声で言う彼女とは裏腹に、私はちょっぴり、いや、それなりに憂鬱だった。

 だって、今時こんなの、少女漫画でも見たことないよ……。


 しかし、私は玉森朱音。街のみんなの魂を守る魂守なんだ。

 私は小さく、「よし」と呟いて気合いを入れると、焼きたてのトーストを口にくわえた。そして、学校を目指して駆け出す。


『玉森さん、ほらほら、「遅刻、遅刻~!」って言わないと!』

『口にくわえたまましゃべったら、パンが落ちちゃうでしょっ?』


 うっかりパンをかみちぎって、落としてしまわないように注意しながら、心の声でそう言い返す。


 いま私の中にいる彼女、小泉ひなたの最後の願い、それは、

 ――青春がしたい、だった。



『うーん。トーストダッシュ作戦も失敗かぁ……』


 一時間目の授業中、頭の中で小泉さんがぽつりとつぶやく。

 ちなみに、トーストダッシュ作戦とは、今朝のトーストをくわえて高校まで駆けて登校するというあれである。


 正直私は乗り気じゃなかった。

 だって、せっかく最近、ほたるんに教えてもらった可愛くなる工夫のおかげで、藤久倉くん以外のクラスのひとたちと話せるようになってきたのに、パンをくわえて走ってるところなんて見られたくなかったんだもん。変な子だと思われちゃうし。


 幸い、途中でスクーターに乗った藤久良くんと出くわしたおかげで、クラスのみんなに私の奇行を見られることはなかった。


 小泉さんが、『バイク! バイク乗ってみたい! 二人乗りとかめっちゃ青春じゃん!』と言い出したからである。


 おかげで、いつかのように藤久良くんの後ろに乗った私は、上機嫌な小泉さんの鼻唄が脳内に響くのを聞きつつ、囓りかけのトーストをむしゃむしゃしながらの登校となった。二人乗りが教師に見られるとまずいので、高校にほど近いコンビニの辺りで徒歩に切り替えたが。


 藤久良くんには、本当に感謝である。

 しかし、乗り気じゃない方法を私が試すのには、理由があった。


『男の子の運転するバイクで二人乗り、とか、かなり青春ポイント高いと思ったんだけどなぁ』


 小泉さんが、また呟く。

 その声は、心なしか沈んでいた。


 そうなのだ、小泉さんの持つ願い、心残りは、“青春がしたい”という漠然としたもので。

 彼女自身、何をどうしたら行くべきところに行けるのか、よく分かっていないのである。


 だからこそ、私も乗り気じゃないトーストダッシュ作戦でもなんでも、もう思いついた方法は手当たり次第に試してみてるんだけど……。


「青春、かぁ……」


 声に出さずに、ぽつりとつぶやく。

 小泉さんの願いを聞いてから早二週間、結果が出ないのは、何も彼女だけが問題という訳ではないのだろう。


 なぜなら、私もまた、普通のひとが当たり前に過ごす青春なんて、経験したことがなかったのだから。



 小泉さんは、私より一つ年上の、高校二年生、だった。


 けれど、彼女が高校に通ったことは、一度もないという。

 それどころか、中学校にも、脚を踏み入れたことさえないらしい。


 幼い頃から病気がちだった小泉さんは、小学校高学年の頃に入院をし、そして、そのまま病院を出ることなくこの世を去った。


 だから、彼女の願いは“青春をすること”。


 病室で読んだ漫画や小説のような、きらきらとした学生生活を送ることが、彼女をこの世に留まらせている心残り、なのだった。


 最初、小泉さんは私に、「高校に行ってみたい」と言った。

 確かに、彼女は高校に行ったことがない。多くの少女漫画や青春小説の舞台となっている高校という場所そのものに、憧れを持っていたのだろう。


 けれど、高校に行くだけでは、小泉さんの心残りは晴れなかったらしい。

 最近はお昼ごはんをひとりで食べることもなくなったし、休み時間に机の周りに集まって声かけてくれる子もふえたし、私としてはそれなりに青春してるつもりだったんだけどな。


 結局いい作戦が思い浮かぶことなく、その日も午前中の授業が終わってしまった。


 ブレザーの右ポケットが震えたのはそのときだった。

 見ると、メッセージが届いたことを知らせるポップアップがあがっている。藤久良くんからだ。


『お昼休み屋上行かね? 朝言ってた小泉さん? の件、作戦会議しようぜ』


 隣の席なのにあえてチャットアプリを使うのは、クラスのみんなからの誤解を防ぐためだろう。以前、ほたるんの手によって普段よりかわいくして登校した際、私と藤久倉くんの関係を誤解するような声が聞こえてきた。


だから、藤久良くんが私に声をかけるときは、メッセージアプリを使うことが常だ。


 ちょうど、自分ひとりでは行き詰まりを感じていたところだ。

 私は、了解を示すスタンプを送ろうとして手を止めた。幸い、お昼休みに入ったばかりの教室は喧噪に包まれていて、こちらに視線を向けている者はいない様子。


 それを確認してから、私はスタンプを送る代わりに、彼の机をちょんちょん、と指先で叩く。そして、こちらを向いて小首を傾げている彼に向かって、指でオッケーを表す円をつくり、笑顔で頷いたのだった。

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