第28話 東征の時代

その後、新しく倭(ヤマト)の王となったミマキイリヒコ(崇神天皇)は、瀬戸内海を渡り東の地の征服へと向かうことになる。これは数百年前から内海(瀬戸内海)の沿岸の豊かな地にある幾つもの呉系のそと人の国を、ヤマトの地にしたいという、越系の倭族部族達の強い要望でもあった。崇神天皇は、日向(ヒムカ)の地を出発し、北へ向かい、豊国の宇陀(宇佐、旧ヒタ国)で軍勢を整え、九州北部の筑紫で倭(イ)族の軍を糾合し、船団を整えて瀬戸内海へ向かった。


ヤマト軍はまず、数百年前に大陸から渡来した呉人達が支配する阿岐(安芸)国に入った。この地には赤い色の大きな社があり、黒いナマズ型の冠を被った王が、服を前で重ね合わせる「呉服」を着た拝み人達を従えていた。呉人達は筑紫の国で起こった事を伝え聞いており、倭(ヤマト)がどのような者達かを十分承知していた。そして多くが戦わずに倭(ヤマト)国の臣下として生きる道を選んだ。その支配に服さないものは東の呉人の支配する国へ去った。倭(ヤマト)は、阿岐国の地を七年の歳月をかけて制圧した。


ミマキイリヒコ率いる筑紫・阿岐国の軍がつぎに向かった吉備国は、ヤマト軍の東征に備えて高台に幾つもの砦を築き、抵抗の姿勢をみせた。しかし、ヤマト軍が吉備国に侵入し数年にわたり占拠を続けると、次第に抵抗をやめ、倭(ヤマト)国の臣下となる道を選んだ。倭(ヤマト)は、吉備国を八年かけて終に制圧した。



これらの国々は、九州の地でマツラ国、奴国などの同族の国が、秦人達によって滅ぼされた事を伝え聞いており、秦人達に逆らって徹底した反抗をする事はなかった。ヤマトはこれらの国を服従させ、信頼できる代官を置き、食料と人夫と舟を差し出させた。


こうしてヤマト軍は九州の地を出て十五年、筑紫・阿岐・吉備の軍を引き連れ(桃太郎の伝説の様に)東のまつろわぬ鬼の国を退治するために出発した。ヤマト軍はまず淡路島に上陸し、さらに東の畿内の地へと向かった。瀬戸内海の東端の難波(浪速)の地は、数百年にわたり呉人が支配しており、「登美」という豪族が大きな勢力を持っていた。この地の呉人達は、筑紫・阿岐・吉備の地から逃れてきた者達から、ヤマト軍の来襲を予め知り、充分に備えていた。


瀬戸内海を東へ進んできたヤマト軍が難波に上陸し、河内の湖を進んでいくと、高台に砦を築き、用意周到に防衛線を構えていた登美の那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢との間に激しい戦が起こった。登美の兵士達が堅固な砦から放つ矢にさんざん撃たれ、敗北を喫したヤマトは、軍を引き、一旦海上へ逃れた。ヤマト軍は難波への上陸を諦め、迂回して奈良の地を目指す事となり、潮の渦巻く阿波の海を南下し、紀伊の南の地に再上陸した。そこでも呉人系の豪族との戦いになり、多くの兵が倒れ、ミマキイリヒコの兄弟も戦死した。が、高倉下という越系の豪族の助けにより窮地を脱した。


ヤマト軍が、吉野川沿いに急峻な山道を北に向かって登っていくと、そこに熊のように凶暴な種族が現れて行く手を阻み、ヤマト軍は大混乱に陥った。しかし、その地の協力者を得て和議を結び、その地を熊野と名付けた。その後、宇陀という地では豪族の兄弟を離反させる事により平定し、忍坂の地では土雲(ツチグモ)の八十建(ヤソタケル)を馳走を与えると偽って騙し討ちにし、磐余という地でも豪族の兄弟を離反させる事により平定した。

ヤマト軍は最後に吉野山を下り三輪山の麓で、難波(浪速)地で敗れた強敵、登美の那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢と戦うことになった。砦のない平地での互角の戦いが始まった。ヤマト軍は棒の先に鏡を取り付け、太陽の光を反射し敵兵を驚かす工夫をした。しかし登美軍の矢数は多く、勇猛なヤマト軍もなかなか勝てなかった。そこに呉人の豪族と対立する越人の豪族の長の邇藝速日命(ニギハヤヒ、物部氏の祖)がヤマト軍の味方として参上し、登美軍の背後を突いた。呉人と越人達の子孫は、この地でも抗争を続けており、越人達は新来のヤマトに加勢する道を選択した。不意を突かれた登美軍は敗走し、ヤマト軍は越人の助力を得て、登美の那賀須泥毘古を倒した。こうしてヤマト軍は、熊野から奈良を占領する事に成功した。この奈良(ナラ)は、百済(クダラ)、加羅(カラ)、新羅(シラ、シラギ)と同様の都という意の「ラ」をつけた造語だった。


こうして、崇神天皇(御肇国天皇 ハツクニシラススメラミコト)率いるヤマト軍は、九州から遠征し、畿内の地迄を征服した。崇神天皇は、後に初代神武天皇と称され、その遠征は「神武東征」として伝えられる事になる。崇神天皇は、この時代奈良盆地南東の三輪山の麓を根拠地にして、大和朝廷を開いた。崇神天皇は、奈良平定に協力した越人系の豪族物部氏の長ニギハヤヒの娘を妃に迎え、連携を強めた。大和朝廷はその他にも、呉人系の葛城氏、原住系?の春日氏、和爾氏等の豪族の協力を得て、畿内の支配を強め、さらに、四道将軍をそれぞれ、北陸、東海、西道、丹波の各地に派遣していった。



参照


*神武東征(『古事記』編集)

神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ、若御毛沼命)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で、葦原中国を治めるにはどこへ行くのが適当か相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いた彼らは、日向を出発し筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着く。宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って彼らに食事を差し上げた。彼らはそこから移動して、岡田宮で1年過ごし、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

浪速国の白肩津[注釈 1]に停泊すると、登美能那賀須泥毘古(ナガスネビコ)の軍勢が待ち構えていた。その軍勢との戦いの中で、五瀬命は那賀須泥毘古が放った矢に当たってしまった。五瀬命は、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、五瀬命は紀国の男之水門に着いた所で亡くなった。 神倭伊波礼毘古命が熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。すると 神倭伊波礼毘古命を始め彼が率いていた兵士たちは皆気を失ってしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの大刀を持って来ると、神倭伊波礼毘古命はすぐに目が覚めた。高倉下から神倭伊波礼毘古命がその大刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、兵士たちは意識を回復した。

(中略)

また、高木神の命令で遣わされた八咫烏の案内で、熊野から吉野の川辺を経て、さらに険しい道を行き大和の宇陀に至った。宇陀には兄宇迦斯(エウカシ)・弟宇迦斯(オトウカシ)の兄弟がいた。まず八咫烏を遣わして、神倭伊波礼毘古命に仕えるか尋ねさせたが、兄の兄宇迦斯は鳴鏑を射て追い返してしまった。兄宇迦斯は神倭伊波礼毘古命を迎え撃とうとしたが、軍勢を集められなかった。そこで、神倭伊波礼毘古命に仕えると偽って、御殿を作ってその中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。弟の弟宇迦斯は神倭伊波礼毘古命にこのことを報告した。そこで神倭伊波礼毘古命は、大伴氏大伴連らの祖の道臣命(ミチノオミ)と久米直らの祖の大久米命(オオクメ)を兄宇迦斯に遣わした。二神は矢をつがえて「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える様子を見せろ」と兄宇迦斯に迫り、兄宇迦斯は自分が仕掛けた罠にかかって死んだ。その後、圧死した兄宇迦斯の死体を引き出

し、バラバラに切り刻んで撒いたため、その地を「宇陀の血原」という。

忍坂の地では、土雲の八十建[注釈 2]が待ち構えていた。そこで神倭伊波礼毘古命は八十建に御馳走を与え、それぞれに刀を隠し持った調理人をつけた。そして合図とともに一斉に打ち殺した。 その後、目的地である磐余の弟師木(オトシキ)を帰順させて兄師木(エシキ)と戦った。最後に、登美毘古(ナガスネビコ)と戦い、そこに邇藝速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。

こうして荒ぶる神たちや多くの土雲(豪族)を服従させ、神倭伊波礼毘古命は畝火の白檮原宮で神武天皇として即位した。        (wikipedia神武東征)


吉備は古代、畿内や出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた。また、優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされる。この地方独特の特殊器台・特殊壺は、綾杉紋や鋸歯紋で飾られ、赤く朱で塗った大きな筒形の土器で、弥生時代後期の後半(2世紀初めから3世紀中頃まで)につくられ、部族ごとの首長埋葬の祭祀に使われるようになり、弥生墳丘墓(楯築弥生墳丘墓)や最古級の前方後円墳(箸墓古墳・西殿塚古墳)から出土しており、後に埴輪として古墳時代に日本列島各地に広まった。      (wikipedia吉備国)


即位12年、戸口を調査して初めて課役を科した。この偉業をもって御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられている。『古事記』には天下を統一して平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。崇神天皇は奈良盆地南東の三輪山麓を根拠地として宗教的・軍事的方法によって国内の統一を進めており、後世これを「はつくにしらす」と追称しているのは彼が原初的な小国家を統一してヤマト王権を確立したことを示すものと考えられる。

                           (wikipedia崇神天皇)


『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族である那賀須泥毘古が奉じる神として登場する。那賀須泥毘古の妹の登美夜須毘売(『日本書紀』では三炊屋媛という)を妻とし、との間に宇摩志麻遅命をもうけた。宇摩志麻遅命は、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。神倭伊波礼毘古(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗した那賀須泥毘古が敗れた後、神倭伊波礼毘古が天照大御神の子孫であることを知り、神倭伊波礼毘古のもとに下った。

『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、天照大神から十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、瓊瓊杵尊の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、饒速日命の存在には多くの重要な問題が含まれている。    (wikipediaニギハヤヒ)

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