第22話 霧山の麓

わ人達は数日間、ヒムカ族の人達の世話になり、ヒムカ族の人達に礼を言って、さらに大きな山(キリヤマと呼ぶらしい)の向こうの南の地を目指すために出発しようとした。


ワヒ国の長のトカはこう言った。

「ヒムカ族の人達には、我々ワヒ国の一行を受け入れていただき、大変な世話になった。我々わ人は、もともと北の浜で魚を獲って暮らしていた。そこにヤマタイが侵攻し、戦いの末に西の浜でワヒ国を造ることになったと伝えられている。そしていま、ヤマタイとは別のそと人にワヒ国を追われて、この地に来ている。いつの日か再び、海のある浜で魚を獲って暮らしたいというのが我々の希望だ。我々は南へ向かう。」


が、ヒムカ族の長のムサロがこう言った。

「山の向こうの南の地は、以前は人も少なく、我々と同じようなツマ族という人々が魚を獲ったりして暮らしていたが、最近、見たことのない、ヤマタイとは違ったハヤトというそと人が入って来た。そのハヤト達は凶暴で、その地のツマ族の人々を追い払ったらしい。ハヤトに追われて、このヒムカ族の地に逃れてきた人達もいるという。ヒムカ族の者は、山の向こうの南の地に行かない。ワヒ国の人達も、山の向こうの南の地に行くべきではない。」


ワヒ国の人々は、ヒムカ族の長のムサロの言葉を聞いて考え込んだ。ここより南の地に、ヤマタイとは違うそと人が入っている?倭族だろうか?それとも、あのワヒ国を滅ぼした秦人達のようなそと人だろうか?

そこでトカは、そのハヤトというそと人はどんな様子かを尋ねた。


ヒムカ族の長のムサロはこう言った。

「南の地から逃れてきたツマ族の人たちの話では、ハヤトはクマ族やヤマタイとは、言葉も顔つきもまったく違うそと人達で、大きな身体をして、鎧や兜を着け、大きな弓矢、長い槍、鋭い刀で、見境なく襲いかかって来たという。ハヤト達は、この地は今からハヤトの地だ、お前たち土人は出ていけ!と叫び、抵抗した者を皆殺しにして、その死体を村の入り口に山のように積み上げた」という。人々はそれを見てただ逃げるほかはなかったという。


この言葉を聞いて、トカは、ハヤトはワヒ国を滅ぼした秦人と同じ部族だと考えた。

「ワヒ国に攻め入った秦人達も、村の前に死体を山のように積み上げた。ワヒ国の人々はそれを見て、これは人間ではない、鬼だと思った。ハヤトはクマ族やヤマタイとは違う秦人と呼ばれるそと人だと思う。」



「我々は、東のヤマタイや南のハヤトの侵攻に備える必要がある。ヤマタイやその秦人達と戦った事のあるワヒ国の人々がこの地にとどまり、力を合わせてこの地を守ってもらいたい。この地で我々と一緒に新しい国を造ろう!」


しばらくして、ワヒ国の長のトカはこう言った。

「ありがたくその話をお受けする。ワヒ国の人々は、ヒムカ族の人々と一つになってこの国を守ろう。になってもらいたい。ワヒ国の人々はヒムカ族の長のムサロの命に従うだろう。」

ヒムカ族の長のムサロはこう応えた。

「ここにいるヒムカ族とワヒ国の一行の人数はほぼ同じだ。だから、新しい国の長は、ヒムカ族とワヒ国から一人ずつ選んで、二人の長が新しい国を治める事にしたい。新しい国の名前は、このキリ山の名前をとってキリ国としよう!」


こうして、ヒムカ族とワヒ国の人々は、この大きなキリ山の麓の地に、キリ国を造り、助け合い暮らしていくことになった。


ヒムカ族とワヒ国の人々は、互いに知恵を出し、作物を育て、狩りをして暮らしていく。畑でコメ等の作物を育てることはヒムカ族の知恵が勝り、シカやイノシシ等の狩りについてはわ族の知恵が勝っていた。

東のヤマタイや南のハヤトとの戦いに備えるために、キリ国のヒムカ族とわ族の人々は、弓矢の数をそろえ、ヤマタイを二度も破った岩と丸太を落とす仕掛けを、急峻な崖を利用して備えていった。大きな砦は目立ちすぎるので、高い崖の上にある岩陰を利用して幾つもの物見を配置した。

その後時折、南のハヤトらしき者たちが現れることがあったが、平地の少ない急峻な山と谷の地形に難渋し、崖の上のキリ国の存在に気付くことはなかった。


数百年前から南九州の地には、西の海に面してクマ族(球磨国)、南の海に面してツマ族(投馬国)という、いずれも西の大陸の呉の国から渡来したそと人達の国があった。


その後半島から渡来したヤマタイ・倭(イ)族の中には、その後の国を滅ぼした越の国の子孫も多かった。


そして今急激に渡来してきた、秦人・ハヤト族は、その越という国が滅んだ後、戦乱を逃れて大陸各地から、呉の地を経て海を渡り南九州に渡来した者たちを言う。




参照


隼人(はやと)とは、古代日本において、阿多・大隅(現在の鹿児島県本土部分)に居住した人々[1]。日本神話には海幸彦が隼人の阿多君の始祖であり、祖神火照命の末裔であるとされる。「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「(犬のように)吠える人」の意味とも、「ハヤブサのような人」の形容とも方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも(あくまで隼人は大和側の呼称)。風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。兵部省の被官、隼人司に属した。 (Wikipedia隼人)


神功皇后、応神天皇の時代に秦氏一族(数千人から1万人規模)が当国に帰化したとの記録が残っており、 天皇家に協力して朝廷の設立に関わったとされている。渡来人には弓月君、阿直岐、王仁、阿知使主といった人物がおり、秦の始皇帝三世直系の弓月君は秦氏の中心的人物であり、和邇吉師(王仁)によって論語と千字文が伝わったという。『古事記』

日本へ渡ると豊前国に入り拠点とし、その後は中央政権へ進出していった。大和国のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)、摂津国豊嶋郡、針間国(現在の兵庫県)、阿波国、伊予国神野郡など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。

中国の王朝秦の流れをくむ百済経由の渡来氏族。『日本書紀』における弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する(笠井倭人・佐伯有清)。

秦王朝後裔の流れではなく、遠い祖先が秦王朝と同じ氏族(種族)に起源を持つ渡来系氏族。華北沿岸部にあったものが朝鮮半島にて辰韓を形成し、辰韓滅亡後にその遺民が日本列島に到来した(宝賀寿男)。         (Wikipedia秦氏)

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