第23話 倭国大乱

旧ワヒ国のわ人たちが南を目指し、ヒタ国を去ってから数十年の年月が過ぎていた。ある日、山奥で暮らすヒタ国の人々に、ヤマタイの大軍が旧ヒタ国に押し寄せ、倭族と戦いを始めたという知らせが、届いた。


ヒムカ国を支配することになったヤマタイは、邪馬台国として繁栄を続けていた。

ヤマタイの人々はヒムカの地での生活に満足していたが、ヤマタイの王たちは、旧わ国の地や、ヒタ国の地から自分達を追い出した同族の倭(イ)族に対する復讐の念があった。六代目のヤマタイの王がついに、かつて支配していた北の旧ヒタ国(倭人達に支配されウサ国という名になっていた)への遠征を開始した。


邪馬台国の王は一万を超える大軍をウサ国に向けて発進させた。

迎え撃つウサ国の軍は弓に秀でた倭人達であり、弓を放ち、剣をふるい勇猛に戦ったが数で劣っていた。邪馬台軍は、ヒムカ国のわ人達の奴隷を前面に出し、後方から弓を射るという攻撃で、次第にウサ国の軍を圧倒していった。ウサ国は倭族達に救援の要請をしたが、倭族達は要請になかなか応じなかった。


倭人達の諸部族はその頃、新しく渡来した部族も含め数十の国に分かれていた。倭人達の祖先は呉系と越系に分かれていた。呉系のそと人は数百年前から倭の地に渡来しており、この北九州の地以外にも、東の内海(瀬戸内海)に沿って幾つかの国を造っていた。越系のそと人は、呉系のそと人の渡来の二百年後、つまりこの時点から百年ほど前に渡来し、内海沿いの呉人達の国を避け、北の海(日本海)の沿岸に上陸し幾つかの国を造っていた。この九州の地(筑紫)にも、先に呉系のそと人が上陸し、松浦(マツラ)国や伊都(いと)国を造っていた。新しく渡来した倭人たちは、ヤマタイのような越系の部族が多かった。つまり、この北九州の地はこの時点で、呉系の部族と越系の部族の勢力は拮抗していた。呉系と越系の部族は、「呉越同舟」という言葉で知られるように、宿敵であり、度々諍いを起こしており、ウサ国の救援の要請になかなか応じる事ができなかった。


しかし、ウサ国の敗勢が見えてくるとようやく各部族がまとまって、共通の敵であるヤマタイと戦うために、援軍をウサ国に派遣した。救援に駆けつけた倭族の国々と、邪馬台国の戦いが始まった。この戦いは、他の国々を巻き込んで、一進一退の争乱となった。これが紀元後148年から起こったとされる「倭国大乱」である。



ヒタ国の人々の中には、旧わの国の西崎にいた拝み人たちも暮らしていた。その中にミコという名の、輝くばかりの美しい少女がいた。その評判はヒタ国中に知れ渡り、ミコの声と姿を見るために多くの人が拝み人の社に詰めかけ、貢物をするようになった。ある時、ヤマタイの王がこれを聞きつけ、ヒタ国にその少女を差し出せという命令を伝えてきた。ヒタ国の人々はミコを差し出す事に反対し、ヤマタイ軍と戦う事も辞さなかった。しかし、少女は自分がヤマタイに行く事でヒタ国の人々が死ななくて済むのならと、自分の意志でヤマタイに行く事を望んだ。ヒタ国を離れる日、拝み人達を引き連れ、ヤマタイの兵の担ぐ輿に乗って去っていくミコの姿を、ヒタ国の人々は涙を流し見送った。


邪馬台国に着いたミコという名の少女を、ヤマタイの王は気に入り、王子の嫁にと望んだが、王子は結婚を前に病死した。そしてヤマタイの王の死後、170年頃、ヒタ国から来たミコという名の少女は邪馬台国の女王卑弥呼(ヒミコ)となった。女王卑弥呼は、初めは有力な家臣達の都合の良い形ばかりの女王として祭り上げられていた。しかし徐々に賢明な女王卑弥呼の評判は高まり、邪馬台国の家臣達をまとめるのに欠かせない女王となっていった。


邪馬台と倭(イ)族の国々と戦いは、なかなか決着はつかなかったが、ヤマタイの女王卑弥呼の出現により、その状勢は変化した。女王卑弥呼は敵対する他の部族に拝み人たちを使者として送り、言葉巧みに「言向け和す(ことむけやわす)」事で、講和に努めた。拝み人たちの着物は、元来「呉服」として今に伝わるように呉の服であり、その衣装を着た邪馬台国の使者が現れると、呉系の部族は邪馬台国に敵対する意欲をなくした。そして返礼として邪馬台国に到着し、女王卑弥呼の姿を見、その丁重な言葉を聞いた部族の長たちは、女王卑弥呼のために戦いを収めようと約束した。


こうして、まず呉系の諸部族、つづいて新しく渡来してきた秦人の早良族(後の平郡氏)、安羅族(後の東漢氏ヤマトノアヤシ)等の部族が女王卑弥呼の招きに応じ、邪馬台は次第に優位に立っていった。その後172年、邪馬台国を倭国の要とする和議が成立し、邪馬台国は九州北部の中心にある伊都国に「一大卒」という軍を(後の鎌倉幕府が京都に六波羅探題を置いたように)駐留させ、北九州の倭族を支配する事に成功した。


こうして女王卑弥呼の下で、邪馬台国は北九州のわ族の国々を統率する一大勢力となった。紀元後173年に邪馬台国は、朝鮮半島に残る倭族と同族の伽耶諸族や新羅に使者を送り、女王卑弥呼の即位を伝えている。


参照


*倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。『三国志』(魏志倭人伝)「其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼 事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫婿」

                         (Wikipedia倭国大乱)


*「魏略」逸文「自帯方至女(王)国、萬二千余里。其俗男子皆點(黒占)而文、聞其旧語、自謂大伯之後。昔夏后小康之子、封於会稽、断髪文身、以避蛟龍之害。今倭人亦文身、以厭水害也                  (倭人とは何かP92)


*『魏志』倭人伝には「今使訳通ずる所三十国」の記載があることから、3世紀にいたるまで小国分立の状態がつづいたとみられる。 また、小国相互の政治的結合が必ずしも強固なものでなかったことは、『後漢書』の「桓霊の間、倭国大いに乱れ更相攻伐して歴年主なし」の記述があることからも明らかであり、考古資料においても、その記述を裏づけるように、周りに深い濠や土塁をめぐらした環濠集落や、稲作に不適な高所に営まれて見張り的な機能を有したと見える高地性集落が造られ、墓に納められた遺体も戦争によって死傷したことの明らかな人骨が数多く出土している。縄文時代にあってはもっぱら小動物の狩猟の道具として用いられた石鏃も、弥生時代にあっては大型化し、人間を対象とする武器に変容しており、小国間の抗争が激しかったことがうかがえる。           (Wikipedia大和王権)


*『魏志』倭人伝は、3世紀前半に邪馬台国に卑弥呼が現れ、国々(ここでいう国とは、中国語の国邑、すなわち土塁などで囲われた都市国家的な自治共同体のことであろう)は卑弥呼を「共立」して倭の女王とし、それによって争乱は収まって30国ほどの小国連合が生まれた、とし、「親魏倭王」印を授与したことを記している。邪馬台国には、大人と下戸の身分差や刑罰、租税の制もあり、九州北部にあったと考えられる伊都国には「一大率」という監察官的な役人が置かれるなど、統治組織もある程度整っていたことが分かる。          (Wikipedia大和王権)


伊都国(いとこく)は、『魏志倭人伝』など中国の史書にみえる倭国内の国の一つである。末廬国から陸を東南に500里進んだ地に所在するとされ、福岡県糸島市、福岡市西区(旧怡土郡)付近に比定している研究者が多い。 

一大率は、卑弥呼の王権によって任命された派遣官である。倭国の官人である。その官名は城郭の四方を守る将軍である大率に由来するとする説もある(『墨子』の「迎敵祠」条)。 『魏志倭人伝』には、次のように書かれている。「女王国の北側には、特別に一大率(いちたいすい、いちだいそつ)を置き諸国を監察させており、諸国は畏(おそ)敬っている。常に伊都国で治めており、国中(漢、魏)の刺史(しし、監察官)のようだ。」である。         (Wikipedia伊都国)


*「伽耶」は「神の国」を表す古代朝鮮語である。・・・(倭人とは何かP64)


*國出鐵韓濊倭皆従取之 諸市買皆用鐵如中国用銭 又以供給二郡

                          (魏志韓伝辰韓伝)

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