第27話 倭(ヤマト)

九州南部のツマ族の地(投馬国)を占拠していたハヤト(隼人)族は、ある時、王の座を巡って兄弟が争い、一族は分裂した。(「山幸彦と海幸彦」伝説)


兄の一族はツマ族の地に残り、阿多・大隅に居住した隼人族となった。


弟ニニギの一族は新たな地を目指して東へ向かった。

ニニギに率いられたハヤト族は、行く手に立ちはだかる急峻な高千穂の峰に登り、東の方向に豊かな地があることを発見した。ニニギはタカチホの山頂に剣を立て、この東の地を征服することを誓い(「天下り」と呼ばれている)、ハヤト族を率いて、東に広がる海に面した稲穂の実る豊かなヒムカの地に進軍していった。


ヒムカの地では、タカチホの山からヒムカの地に降り来たったハヤト族の軍を見て、邪馬台国の支配者達が驚愕した。この時、邪馬台国は半島で新羅との戦いに苦慮していた。半島に残る伽耶諸族を守るべく、邪馬台国は倭族の諸部族をまとめ、毎年のように新羅との戦いに備えており、ヒムカの地でハヤト軍を打ち払う余裕はなかった。知らせを受けた筑紫の地の邪馬台国の女王台与は、このハヤト族の軍に敵対するのではなく、ヒムカ国の一部を譲り、共存する道を選んだ。百年前の「倭国大乱」のとき、女王卑弥呼の招きに応じ、秦人の早良族、安羅族等の部族が邪馬台の味方になり、邪馬台は倭族を束ね、掌握することができた。しかも狗奴国との戦いでは、邪馬台国は秦人達の兵に苦戦し散々な目にあった。そのため、邪馬台国の支配者たちは、この新しく現れた秦人達と同族のハヤト族の大軍と敵対することは考えられなかった。ヒムカ国の一部を手中にしたニニギの一族は、その後、ソ族の地に残っていた兄の一族も呼び寄せ、続々とヒムカの地に侵入し、豊かな稲穂が実る日向国の主となり、次第に邪馬台国を凌ぐ勢力を蓄えてゆく事になる。この王達は(1)瓊瓊杵尊(2)火折尊(3)鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト)であり、「日向三代」と呼ばれている。


「秦人」(漢民族)達の祖先は、遠い昔、西の大陸の砂漠周辺に暮らしていた部族だった。秦人達は、代々王が亡くなると、周囲の国々に威容を見せつけるように砂漠にピラミッドのような大きな墳墓を作った。その際、死後の世界で王を守るため、生きた奴隷や馬を道連れにして埋めるという「殉死」という風習があった。そのため、王が死ぬたびに奴隷や馬の数が減少することになった。が、秦の始皇帝は知恵を働かせ、奴隷や馬を殺す事をせず、人口を増やしたいと考えた。そして墳墓の地下に奴隷や馬の代わりに、土器で作った兵馬俑をつくった。ハヤト族はその伝統に従い、ニニギ王が亡くなると大きな墳墓を作り、臣下や馬を象った埴輪を墳墓の上に並べるという工夫を始めた。



299年、邪馬台国の女王台与が亡くなり、その後継として卑弥呼一族のナガサが王となった。しかしこの王には各部族をまとめる力が不足していた。元来邪馬台国の王は越系の部族だったが、卑弥呼一族は呉系のそと人とわ人の血統だった。輝くばかりの美しさと才知で統率した卑弥呼や台与の死後、邪馬台国の王に誰がふさわしいかが問題となり、争いの原因となっていったのは当然の成り行きだった。


女王という太陽のような存在が消え、再び日が隠れた状態となった邪馬台国は、またもや越系・呉系の各部族間で意見が対立し混乱が続いた。倭族の多数を占める越系の部族の長達は、秦人の早良族、安羅族とも相談をした結果、ハヤト族の王イワレヒコを日向国から筑紫の地に呼び寄せ、邪馬台国の王の座を譲ることした。邪馬台国の使者となった早良族、安羅族は大陸北方の燕出身の者が多く、ハヤト族は大陸南方の楚出身の者が多かったが、同じ秦人(漢民族)として言葉が通じた。その早良族、安羅族達が使者として日向国へ向かい、ハヤト族の王イワレヒコに邪馬台国の王となる事を要請した。


ハヤト族の王イワレヒコはこの要請を聞き入れ、大軍を率いて日向国から筑紫に入った。ヤマタイを始めとする越系の部族は、この秦人の王に臣従することに同意した。しかし、秦人の王を邪馬台国に迎えることに不満を持つ呉系の各部族は次々と筑紫の地を離れ、南の熊襲国や、東の内海沿いの安芸国や吉備国に移動して行く事になった。卑弥呼一族はヤマタイの地から離れ、ヒタ国へと帰還することになった。


秦人系と越人系の部族を従えて邪馬台国の王となったイワレヒコは「ミマキイリヒコ(今来入彦)」と名を改め、新しい国の名を「ヤマト」とした。これは「ヤマタイ」から「イ」を除いた名で、用いる漢字はこれ迄用いられていたイ族を表す「倭」の字を使い、「ヤマト」という読みにした。後に「倭」が(小さい)という意味を持つのに気付いたヤマト国は、「大」をつけて「大倭」、更に倭の字をなくして「大和」という表記とした。(日本という国号を用いたのは、後の時代、686年天武天皇の時代からとされている)


参照


山の猟が得意な山幸彦(弟)と、海の漁が得意な海幸彦(兄)の話である。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けたが、兄に借りた釣針を失くしてしまう。困り果てていた所、塩椎神シオツチノカミに教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮ワタツミノカミノミヤ」(又は綿津見の宮、海神の宮殿の意味)に赴く。

海神(大綿津見神)に歓迎され、娘・豊玉姫(豊玉毘売命トヨタマヒメ)と結婚し、綿津見神宮で楽しく暮らすうち既に3年もの月日が経っていた。山幸彦は地上へ帰らねばならず、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠シオミツタマ」と「潮乾珠シオフルタマ」を貰い、その玉を使って海幸彦をこらしめ、忠誠を誓わせたという。この海幸彦は交易していた隼人族の祖と考えられる。 その後、妻の豊玉姫は子供を産み、それが鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)であり、山幸彦は神武天皇の祖父にあたる。                         (Wikipedia山幸彦と海幸彦)


天照大神の孫であるニニギノミコト(瓊瓊杵尊)が、葦原中国の統治のために降臨(天孫降臨)した山であるとされ、『紀元節の歌』(作詞 高崎正風)にも「雲に聳ゆる 高千穂の」と愛唱された。なお、天孫降臨の地を宮崎県北部の高千穂町域に比定する説もある。 現存する山頂の天逆鉾山頂には、ニニギノミコトが降臨したときに峰に突き立てたとされる、青銅製の天逆鉾が立っており、・・・

                           (Wikipedia高千穂峰)


天孫降臨(てんそんこうりん)とは、天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が、天照大御神の神勅を受けて葦原の中津国を治めるために、高天原から筑紫の日向の襲の高千穂峰へ天降ったこと。 邇邇藝命は天照大御神から授かった三種の神器をたずさえ、天児屋命(あまのこやねのみこと)などの神々を連れて、高天原から地上へと向かう。途中、猿田毘古神(さるたひこのかみ)が案内をした。『記紀(古事記と日本書紀)』に記された日本神話である。

邇邇藝命の天降りに、天児屋命、布刀玉命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命の五伴緒(いつとものお)が従うことになった。 さらに、天照大御神は三種の神器と思金神、手力男神、天石門別神を副え、「この鏡を私の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言った。・・・

邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。 天忍日命と天津久米命が武装して先導した。天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの、天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの、それぞれ祖神である。邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに

宮殿を建てて住むことにした。             (Wikipedia天孫降臨)



天津神・国津神(あまつかみ・くにつかみ)は、日本神話に登場する神の分類である。

天津神は高天原にいる神々、または高天原から天降った神々の総称、国津神は地(葦原中国)に現れた神々の総称とされている。日本神話において、国津神がニニギを筆頭とする天津神に対して国土(葦原中国)の移譲を受け入れたことを国譲りとして描かれている。これはヤマト王権によって平定された地域の人々(蝦夷、隼人など)が信仰していた神が国津神に、ヤマト王権の皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になったものと考えられる。国津神については、記紀に取り入れられる際に変容し、本来の伝承が残っていないものも多い。なお高天原から天降ったスサノオや、その子孫である大国主などは国津神とされている。 

                        (Wikipedia天津神・国津神)

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