第26話 女王台与

西暦246年卑弥呼の死後、先王の縁者にあたる者が邪馬台国の王となった。球磨国との停戦の後、邪馬台国はまたもや有力部族が対立し、呉系の部族の赤旗、越系の部族の白旗が乱れ立つ内乱状態となっていった。戦いの中で多くの者が倒れ、決着はなかなかつかなかった。そして邪馬台国の王は、次第にその権威を失墜していった。


海の向こうの半島南部の伽耶に住む倭人達は、北の高句麗、西の百済、東の新羅に接しており、とくに東の新羅とは以前から度々争いが起こっていた。この時代、新羅はもともと呉系の倭人が建国したが、その後越系の倭人が流入し、この時代は秦人系の王(昔氏)となっていた。倭族は越人系の同族の伽耶諸族を助けるため、筑紫の地から幾度も海を渡り、半島の地で新羅と戦を起こしていた。


西暦233年、邪馬台国の船団は筑紫を出港し、新羅の東海岸に侵攻し激しく戦った。しかし、勝つ事が出来ずに筑紫の地に引き上げた。その数年後邪馬台国の王は新羅に使者を送り、両国が和平する事を希望した。しかし、倭軍に勝ち戦をした驕りから、昔于老という王族の老人が酒の場で「倭王を塩汲みにその妃を炊事婦にしよう」と暴言を言ったため、それを帰国した使者から聞いた邪馬台国の男王は怒り、邪馬台国のすべての兵を西の半島に送って新羅を滅ぼす事を命じた。しかしさすがにそれに反対する部族もあり、邪馬台国の王の命令は全部族の賛同を得られず、邪馬台国の王は更に権威を失墜していく事になった。


西暦247年、魏の使者張政は有力者達と協議し、再び、拝み人達の中から台与(とよ)という13歳の少女を選び邪馬台国の女王の座に就けた。邪馬台国の人々は、輝くばかりに美しい台与を見て卑弥呼の再来と喜び、邪馬台国は再び平穏さを取り戻した。実はこの女王台与は、夫を持たないとされた卑弥呼と難升米との間の孫のひとりだった。


249年 邪馬台国は女王台与の下で再び結束し、新羅に兵を送る事にした。倭の大軍は新羅に攻め入り、数年前に倭国王の使者に無礼をはたらいた昔于老を差し出すことを新羅に要求した。新羅はそれを受け入れ、倭軍は差し出された昔于老をみせしめに殺し、引き上げた。


女王台与の後見役となっていた魏の使者張政は、魏に帰国することになり、狗奴国を占拠する秦人達に倭族との和解を勧め、半島に帰国して魏のために働けば相応の待遇を与えると説得した。このころ、魏は北方の高句麗と度々戦いを続けており、そのため倭族と狗奴国との争いを鎮め、この狗奴国を占拠する秦人達の軍を味方として勧誘する事は、魏の国として重要な政策になっていた。


その後260年、13年の長きに渡る倭国滞在を終えた魏の使者張政は、数千人の秦人の兵達を引き連れて帰国して行った。邪馬台国の女王台与は使者張政の船と共に使者を送り、半島から魏の都洛陽に向かい、魏王に朝貢した。この時魏王は、邪馬台国が狗奴国を併合する事を了解した。


262年、敵対していた新羅が邪馬台国と同じ越系の王(金氏)となり、以降、邪馬台国と新羅は友好関係を築いていた。邪馬台国は魏の黄旗を押し立てて球磨国に攻め入った。秦人達が不在となった狗奴国はほとんど戦う事もなく、邪馬台国の支配を受け入れた。こうして邪馬台国は、女王卑弥呼の時代以来、長年の課題としていた狗奴国の併合を達成した。ヒタ国のわ人達は旧ワヒ国の地に戻る事となり、百数十年ぶりにわ人達のワヒ国が復活した。ワヒ国は南のクマ族とも昔のような友好関係を築き、平穏な日常を取り戻した。クマ族の長は、以前クマ族の長だった呉系の一族の子孫が戻ってきた。これ以降、旧マツラ国や倭族の呉系の部族が旧ワヒ国やクマ族の地に移り住むことが多くなり、この地はクマソ国として栄えていく。


265年 魏の実権を掌握した司馬氏が、魏の王家から禅譲の形で国を譲られ、晋を建国した。266年に邪馬台国は使者を送り、魏から晋への王朝交代の式典に参加している。


この頃、朝鮮半島の南東部の新羅は、邪馬台国と同じ越系の王(金氏)から、秦人系の昔氏が新羅の王になり、邪馬台国と新羅との関係は急速に悪化した。

287~294年、邪馬台国の女王台与は、新羅の攻勢から朝鮮半島に残る越系の倭族(伽耶諸族)を救援する目的で、九州から海を渡って軍勢を送り、新羅を攻撃している。



参照


233年5月及び7月には新羅は倭人の侵攻を受けたが、7月の侵攻の際には于老は沙道(慶尚北道浦項市)で迎え撃ち、兵船を焼き払って倭人を壊滅させる功があった。これらの功績があって、244年1月には舒弗邯(1等官の伊伐?の別名)に引き上げられ、軍事の統括を委任された。・・・

のちに倭国の使者葛那古を接待したときに、戯れに「汝の王を塩奴(潮汲み人夫)にして、王妃を炊事婦にしよう」と言ってしまったために、倭王は大いに怒り、将軍の于道朱君を派遣して新羅に攻めてきた。于老は倭軍の陣に赴いて失言をわびたが、倭人は許さず、于老は捕らえられて焼き殺されてしまった。于老の死後、味鄒尼師今の時代になって倭国の大臣が新羅に訪れたとき、于老の妻が味鄒尼師今に願い出て、私的に倭国の大臣を饗応した。大臣が泥酔したところを壮士に命じて庭に引きずりおろして焼き殺し、怨みを晴らした。このことが原因で倭人は新羅の首都金城(慶州市)を攻撃してきたが、勝てずして引き揚げたという。                                   (Wikipedia昔于老)



臺與(「とよ」あるいは「いよ」、生没年不詳)は、・・・魏志倭人伝によると、 正始8年(247年)に帯方郡太守として王?が着任した。 倭国は帯方郡へ載斯烏越ら使者を派遣し、親魏倭王の女王卑彌呼に未だ従わない狗奴国の男王卑弥弓呼を攻撃中であると(王?に)報告した。 太守は塞曹掾史の張政らを派遣し、詔書および黄幢(魏帝軍旗)を難升米(なしめ)に授けて和平を仲介した。 後に女王卑弥呼が死ぬと径百余歩の大きな塚を作り、奴婢百余人を殉葬した。

ところが、後継者として立てた男王を不服として国が内乱状態となり、千余人が誅殺し合った。改めて卑彌呼の宗女である壹與を13歳の女王として立てた結果、倭国は遂に安定した。

張政らは(幼くして新女王となった)壹與に対し、檄文の内容を判りやすく具体的に説明した。壹與は倭国大夫率善中郎將の掖邪狗ら二十人を随行させた上で張政らを帰還させた。 その際、男女生口三十人を献上すると共に白珠五千孔、靑大勾珠二枚および異文雑錦二十匹を貢いだ。 とされる。 張政が倭に渡った正始8年から卑弥呼の死と壹與の王位継承は、それ程年月が経っていないと思われる。

この正始10年(4月に改元されて嘉平元年)(249年)は、中国では曹操に始まる曹氏の魏から、司馬懿に始まる司馬氏の晋へ禅譲革命が行われる265年12月(泰始元年)に至る契機となった年である。             (Wikipedia台与)


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