第25話 親魏倭王

西の大陸では、後漢の支配が宦官と外戚の内紛や外征の失敗で乱れ、西暦184年から黄巾の乱を始めとする戦乱が起こり、西暦220年後漢は滅びた。その後、魏・呉・蜀の三国の戦いとなり、その中、後漢の地方官だった公孫度が遼東地方で勢力を拡大し、朝鮮半島で楽浪郡に代わる帯方郡を設置し、ついには燕を称して独立し強勢を誇っていた。


西暦238年、狗奴(くど)国との戦いに難渋していた卑弥呼は、各部族の長達と策を協議した。その結果、西の大陸の北東部で強大な力を持っていた公孫氏の燕に使者を送り、助力を求める事にした。このため、側近の難升米や西の大陸の言葉や地理に通じた安羅族の阿知を使者として送り出す事にした。


東風の吹く日、使者の乗った大船は、白い帆を張り漕ぎ手の兵士30人と献上する奴隷や品々を載せて、筑紫の浜を出港した。東風に帆を張った大船は静かな海を進み、壱岐島を経て、対馬に到着した。その地からは対岸の半島が目前に見えた。風待ちで数日過ごした後、使者たちの船は北に流れる潮の流れを乗り越え、西の半島の船着き場に到着した。

上陸した半島の地は、山と森の多い倭国とは違い、草木の少ない荒れ地が広がり、稲などの作物を植えている耕地は少ない。そこに色々な部族の城塞に囲まれた集落が点在していた。土地と作物が原因する部族間の対立が日常であり、その険悪さは邪馬台国の使者難升米らにも向けられた。難升米らは、騒動を避けるため、まず倭族と同族の伽耶族を捜し出して連絡をつけ、伽耶族の集落に行き着いた。


伽耶族の歓迎を受け、主だった部族の長らに話を聞いた。すると邪馬台国が使者を送る予定だった公孫氏の燕が、魏という国によって前年に滅ぼされたという驚くべき事実を聞かされた。魏の大軍に囲まれた帯方郡の城が落ちた後、公孫氏の王公孫淵は捕えられ、七千人の兵とともに殺され、城の前に山積みになっているという。邪馬台国の使者達は困惑したが、話し合いの結果、今度はその魏という国に赴いて誼を通じるべきだという結論となった。この年は西暦208年の赤壁の戦いから30年後の年で、魏は呉や蜀との戦いの真っ最中だった。


一行は魏の支配する帯方郡に向かう事になり、伽耶族の兵百人の護衛と共に出発した。途中幾度も他の部族に行く手を遮られたが、なんとか衝突を回避し、帯方郡に到着した。難升米らは、帯方郡の太守に面会し、太守は都洛陽に伝令を出し魏の王の許しを得て、郡の役人たちの案内で、西の大陸の中原にある魏の都を目指すこととなった。


一行は郡の役人が用意した馬に乗り、見渡す限りの褐色の荒地を進んでいく。行く手に北方の凶悪な部族の騎馬集団が度々現れたが、帯方郡の役人たちが掲げる魏の文字が書かれた黄色の旗を見ると、馬を巡らせ引いていった。


果てしもなく続く草原を行く事数日、行く手の南の山裾に万里の長城が見えはじめた。近づくと人の高さの三倍はある長大な石垣が南への進路を延々と遮っている。帯方郡の役人の案内で、使者たちは長城の下にある門を通り抜け、魏の国に到着した。


長城の南の魏の国には、村々の黄色い大地に作物が実る畑が広がり、賑やかな街の大きな通りには様々な家が建ち並び、市にはさまざまな人々が溢れ、活気に満ち賑わっていた。その中を雑多な種族の兵達が、黄色の旗を立て隊列を組み移動していた。難升米ら一行は魏の役人に案内された宿に一泊し、翌日、黄色く濁った水の流れる大きな河に沿って、急な崖が続く岸を西へ進んでいった。途中大きな崖の淵に行き着き、役人達から、この辺りが四百年前に楚の項羽が秦兵20万を埋めた谷だという説明を聞かされ、難升米ら一行は身震いする思いをした。その楚を漢が滅ぼし、その漢が四百年続いた後滅んで、いま魏の国がこの一帯を治めている。


数日後、魏の都のある洛陽に到着し、巨大な宮殿に案内された。難升米らの使者は宮殿の広場に平伏し、宮殿の奥の魏王に通訳を通して口上を述べ、邪馬台国への助力を求めた。魏王は遠路からの使者を善しとし、洛陽に長く滞在することを許した。


難升米ら邪馬台国の使者は、一年後帰国の途に就いた。洛陽から東へ向かい遼東半島から船で帯方郡に渡り、伽耶族の地を経て倭国へと帰国し、卑弥呼に親魏倭王の称号と金印・銅鏡百枚を伝えた。


魏の国は中原を支配していたものの、南には呉・蜀の強国が覇を争っており予断を許さない状況が続いていた。東方では公孫氏の燕を滅ぼしたものの、高句麗などとの戦いは続いており、魏と敵対する呉や高句麗の東にある邪馬台国と友誼を結ぶことは、呉や高句麗の後方を牽制することになり、魏の利益にかなった事だった。


魏王は朝鮮半島の反乱を治めるために邪馬台国を利用する事を考え、そのうえで、公孫氏との戦いの中で秦人達とも協力関係のあった魏は、倭国内の争いを調停しようと、倭国に使者を送ることにした。西暦247年、魏王から派遣された使者張政は、百人の乗る大船で邪馬台国に到着した。使者張政は邪馬台国の卑弥呼と面会し、魏王の命令として狗奴国と戦うことを禁じた。邪馬台国と球磨国の戦いは、魏の使者の仲裁で停戦に至った。その年に卑弥呼は、狗奴国を征討できなかったという失意の中で、亡くなったと伝えられている。


参照


公孫氏(こうそんし)は、三国時代の中国において栄えた氏族。2世紀後半、後漢の地方官だった公孫度が黄巾の乱以来の混乱に乗じて遼東地方に半独立政権を樹立した。 民族・風習とも、まったくの漢民族であるが、その領土は朝鮮半島中西部の帯方郡を境に、南は韓と接し、東北は高句麗、 西北は烏丸・鮮卑と接するなど、異国・異民族との関わりが深かった。公孫氏の勢力圏である遼東以北の地はいわば中華圏の北東端にあり、漢・魏など時の中華王朝からは絶域とみなされ、それが公孫氏の勢力圏を半独立的な地方政権としての地位を確立する上で大きな意味を持った。公孫康の時代以後、韓や倭は帯方郡に帰属したとされる。

189年、公孫度は後漢により遼東太守に任命されたが、そのまま後漢から自立する。そして朝鮮半島の北端である楽浪郡や、一時は山東半島まで勢力を伸張した。204年には、公孫度の嫡子である公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を設置し、韓や倭を勢力下に置くほどまでに至る(『魏志韓伝』)。父の代に半独立を果たした公孫氏ではあったが、曹操により再び後漢の勢力が強まったため、公孫康は後漢に服属し、左将軍の官位を授けられた。 公孫康の後継にはその弟である公孫恭が立ったが、228年に公孫康の子・公孫淵が謀叛し、叔父から位を奪いとった。 当時、時代は後漢が崩壊して魏・呉・蜀の三国に分立し、互いに覇を競っていたが、公孫淵は三国一強盛にして自領と隣接する魏に臣従を装いながら、一方では呉と同盟工作を行うなど、密かに独立を謀っていた。 236年、魏の皇帝曹叡から上洛を求められた際、公孫淵はついに魏に反旗を翻し、燕王を称した。翌年には年号を紹漢と定め、本格的に支配体制を確立。近隣部族に印璽を与えるなどして魏を刺激し、いよいよ軍事衝突は決定的となった。 公孫淵は一度は魏の幽州刺史の軍勢を退けたものの、238年、太尉司馬懿の討伐を受けて国都襄平に包囲されて降伏し、一族ともども処刑されたために公孫氏の勢力は消滅した(遼隧の戦い)。

『魏志倭人伝』において、黄巾の乱の前後に起きたとされる倭国大乱から公孫氏滅亡後の卑弥呼による魏への遣使まで、倭に関する記事が途絶えており、かつ公孫氏滅亡直後に遼東経由で遣使されていることから、公孫氏が倭の勢力が中国本土へ朝貢する道を遮っていたことになり、倭からの朝貢を公孫氏が受けていた可能性もある。                         (Wikipedia公孫氏)


魏(ぎ、?音: Wei、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏(そうぎ)、あるいは北魏に対して前魏(ぜんぎ)とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。

魏志倭人伝によれば「倭人は帯方郡(現在の北朝鮮南西部にあたる地域)の東南、大海の中に在る。山島に依って国や邑(むら)を為している。旧(もと)は百余国あった。漢の時、朝見する者がいた。今は交流可能な国は三十国である……」などとある。卑弥呼を女王とする邪馬台国はその中心とされ、三十国のうちの多く(二十国弱=対馬国から奴国まで)がその支配下にあったという。  (Wikipedia魏)


三国時代の魏国の支配地域であった帯方郡の武官で肩書は塞曹掾史(さいそうえんし)帯方郡太守、王?の部下。正始8年(247年)に邪馬台国が狗奴国と紛争になった際、和睦を促すために魏から派遣された役人(塞曹掾史)。この時期は卑弥呼が死去した時期であり、一説によれば、卑弥呼の後継者争いに巻き込まれ、20年近くを邪馬台国で過ごして泰始2年(266年)に帰国したとする説もある。 (Wikipedia張政)







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