第29話 大和朝廷

この頃、西の大陸では266年に魏から禅譲された司馬炎の西晋王朝は、304年に始まる五胡十六国時代の混乱の中、匈奴族の漢(後の前趙)によって滅ぼされた。西晋の一族は華北を逃れ江南の地で東晋を建国した。西晋が去った華北の地にはには、周辺から異民族の五胡(匈奴、羯ケツ、鮮卑、テイ、姜)が進出し、互いに争いながら、幾つもの国、王朝が興亡する状態となった。これは朝鮮半島にも大きく影響し、半島の南西部には鮮卑族慕容部の前燕により慕韓(馬韓、後の百済)が建国され、半島の南東部にはテイ族の前秦により秦韓(辰韓、後の新羅)と呼ばれる国が造られた。その中、半島に残る倭人達はこれらの秦人達が支配する国の民となっていったが、伽耶(加羅、大和朝廷からは任那と呼ぶ)の地は、倭人達が小部族の国として蝟集する状態が続いていた。


海を隔てた日本列島の地でも、慕韓・秦韓と同様に、秦人系の王族と倭人系の豪族たちによって大和朝廷が建てられた。大和朝廷は、国の中心を九州の地から畿内に移すことになったものの、倭人達は伽耶諸族の同族であり、朝鮮半島に影響力を残しており、大和朝廷は伽耶諸族などから鉄製品などを「任那の調」として徴収していた。そしてその支配を維持するため、度々朝鮮半島に出兵する状態が続いていた。


崇神天皇の子の垂仁天皇の時代、新羅の王族は秦人系の昔氏であり、大和朝廷と新羅の関係は良好だった。この時代に新羅の王子アマノヒボコが日本海側の出雲に渡来した。父親に当たる脱解尼師今は多婆那国(但馬・丹波地方)の王妃の子とされ新羅へ渡来し、新羅王となったとされている。大和朝廷と新羅の関係が悪くなったのは、垂仁天皇が新羅と誼を通じようと、皇子の花嫁を新羅に求めたが、新羅王がこれを断った事にあるらしい。垂仁天皇は激怒して新羅に絶交状を送り、346年 大和朝廷は百済と結んで新羅を攻撃した。以降大和朝廷は新羅と敵対する事になった。


垂仁天皇の子、景行天皇の時代、西九州の球磨国の地には、崇神天皇のヤマトに服従しなかった卑弥呼一族を含む呉系の倭族と現住のクマ族が「熊襲」として勢力を築いていた。景行天皇は、大和朝廷の九州支配を強めるため、四道将軍の皇子小碓尊に軍勢を率いて九州に向かうことを命じた。大和朝廷軍は、筑紫の地に集合し二万の大軍で熊襲国に侵攻した。熊襲軍は頑強に抵抗し、攻めあぐねた大和朝廷は熊襲国に和議の申し出と偽って、熊襲国の皇子を筑紫に誘い出した。小碓尊は、和議のために来た熊襲国の皇子を絡めとって人質にした。熊襲国の戦意は挫かれ、熊襲国の王は降参し大和朝廷に臣従する事になったが、その後、熊襲国の王と皇子は倭健(ヤマトタケル)と改名した小碓尊によって殺された。


九州から畿内の地を支配することになった大和朝廷だったが、日本海側には越人系の国々があり、とくに新羅に近い山陰の地には出雲国が大きな勢力を築いていた。日本海に面した出雲は、西の海の向うの朝鮮半島から船が到着する豊かな内海があり、東日本の越(古志、新潟)の翡翠の産地から朝鮮半島への中継地として、渡来した越人達が国を造って栄えていた。景行天皇は、臣下となった越系の倭人達を四道将軍として派遣して、出雲の国の長大国主命(オオナムチ)に「国譲り」を強く要請した。同じ越系の倭人達の説得に出雲国は折れ、大きな社を建て、大国主命一族が社人として残る事を条件に、出雲国を譲り、大和朝廷に臣従する事に同意した。


「古事記」には、倭健は従わない熊襲健の兄弟を宴会に紛れ込んで騙し討ちにし、熊襲を平定した。倭健はその後、出雲国に向かい、出雲健の刀を盗み、偽の刀に取り換えて騙し討ちにして、国譲りをうけた。倭健は更に、東国の蝦夷の地に向かい、陸奥を平定した。と記されている。


参照


初期の新羅は高句麗に対し相当程度従属的な地位にあった。382年に新羅は再度単独で前秦への遣使を行っているが、これもその地理的条件から見て、高句麗の承認があって初めて可能であったものと考えられる。同時に新羅は建国初期から倭人の脅威にも晒されていた。『三国史記』「新羅本紀」は建国初期からたびたび倭人の侵入があり戦いを繰り返していたことを記録している。また、西隣の百済、それに同調する伽耶諸国とも対立しており、それらに対して倭が軍事支援を行っていたとも伝えられる。                       (Wikipedia新羅)


百済の歴史は、その首都の移動によって、大きく漢城時代(475年まで)、熊津時代(475-538年)、泗?時代(538年から)に分類される。 漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。 熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。 538年には新たな首都として泗?を建設し、一層、伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。 百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。               (Wikipedia百済)


伽耶(かや、伽?または加耶とも)、加羅(から)、または加羅諸国(からしょこく)は、3世紀から6世紀中頃にかけて朝鮮半島の中南部において、洛東江流域を中心として散在していた小国家群を指す。 加羅地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族が、当地で統治権・軍事指揮権・定期的な徴発権を有していたとする説もある。 倭国の半島での活動については、『日本書紀』『三国史記』など日本、中国や朝鮮の史書にも記されており、3世紀末の『三国志』魏書東夷伝倭人条には、朝鮮半島における倭国の北限が狗邪韓国(くやかんこく)とある。または「韓は南は倭と接する」とある。(Wikipedia伽耶)


父帝が崩御した翌年に即位。即位12年、九州に親征して熊襲・土蜘蛛を征伐。即位27年、熊襲が再叛すると小碓尊を遣わして川上梟帥を討たせた。即位40年、前もって武内宿禰に視察させた東国の蝦夷平定を小碓尊改め日本武尊に命じた。3年後、日本武尊が帰国中に伊勢国能褒野で逝去。         (wikipedia景行天皇)


国譲り(くにゆずり)は、日本神話において、天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受ける説話。葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)ともいう。

建御雷神と天鳥船神は、出雲国の伊那佐之小浜に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主神に「この国は我が御子が治めるべきであると天照大御神は仰せられた。それをどう思うか」と訊ねた。大国主神は、自分の前に息子の八重事代主神(やえことしろぬし)に訊ねるよう言った。事代主神はその時、鳥や魚を獲りに出かけていたため、天鳥船神が事代主神を連れて帰り、国譲りを迫った。これに対して事代主神が「恐れ多いことです。言葉通りこの国を差し上げましょう」と答えると、船をひっくり返し、逆手を打って船の上に青柴垣(あおふしがき)を作って、その中に隠れた。

建御雷神が「事代主神は承知したが、他に意見を言う子はいるか」と大国主神に訊ねると

、大国主神はもう一人の息子の建御名方神(たけみなかた)にも訊くよう言った。その時、建御名方神が千引石(ちびきのいわ)を手の先で持ち上げながらやって来て、「ここでひそひそ話すのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」と建御雷神の手を掴んだ。建御雷神は手をつららに変えて、さらに剣に変化させた。逆に建御雷神が建御名方神の手を掴むと、若い葦を摘むように握りつぶして放り投げたので、建御名方神は逃げ出した。建御雷神は建御名方神を追いかけ、科野国の州羽の海まで追い詰めて殺そうとした。すると、建御名方神は「恐れ入りました。どうか殺さないでください。この土地以外のほかの場所には行きません。私の父・大国主神や、事代主神の言葉には背きません。天津神の御子の仰せの通りに、この葦原中国を譲ります」と言い、建御雷神に降参した。

建御雷神は出雲に戻り、大国主神に再度訊ねた。大国主神は「二人の息子が天津神に従うのなら、私もこの国を天津神に差し上げます。その代わり、私の住む所として、天津神の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて下さい。そうすれば私は百足らず八十?手へ隠れましょう。私の180柱の子神たちは、長男の事代主神に従って天津神に背かないでしょう」と言った。すると、大国主神のために出雲国の多芸志(たぎし)の小浜に宮殿が建てられ、水戸神の孫・櫛八玉神(くしやたま)が沢山の料理を奉った。 建御雷神は葦原中国の平定をなし終えると、高天原に復命した。                         (wikipedia国譲り)


古事記 小碓命は父に恐れられ疎まれて、九州のクマソタケル(熊襲建)兄弟の討伐を命じられる。わずかな従者も与えられなかった小碓命は、まず叔母の倭比売命が斎王を勤めた伊勢へ赴き女性の衣装を授けられる。(中略)

小碓命が九州に入ると、熊襲建の家は三重の軍勢に囲まれて新築祝いの準備が行われていた。小碓命は髪を結い衣装を着て、少女の姿で宴に忍び込み、宴たけなわの頃にまず兄建を斬り、続いて弟建に刃を突き立てた。誅伐された弟建は死に臨み、「西の国に我ら二人より強い者はおりません。しかし大倭国には我ら二人より強い男がいました」と武勇を嘆賞し、自らを倭男具那(ヤマトヲグナ)と名乗る小碓命に名を譲って倭建(ヤマトタケル)の号を献じた。倭建命は弟健が言い終わると柔らかな瓜を切るように真っ二つに斬り殺した。

その後、倭建命は山の神、河の神、また穴戸の神を平定し、出雲に入り、出雲建と親交を結ぶ。しかし、ある日、出雲建の大刀を偽物と交換して大刀あわせを申し込み、殺してしまう。そうして「やつめさす 出雲建が 佩ける大刀 つづらさは巻き さ身無しにあはれ」と“出雲建の大刀は、つづらがたくさん巻いてあって派手だが刃が無くては意味がない、可哀想に”と歌う。こうして各地や国を払い平らげて、朝廷に参上し復命する。              (wikipediaヤマトタケル)

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