第12話 クマ族の国

新しいわの国の南には、それからもヤマタイに囚われていた多くのわ人達が逃げ出し、避難してきた。それを追って、度々ヤマタイの兵が北の峠付近に現れた。ヤマタイの兵は砦に向かって矢を射かける時もあったが、砦に多くのわ国の兵が待ち構えているのを見て、引き返していった。年々、北の砦は増強され、城のようになっていった。


新しいわの国の南には、クマ族の国があった。わの国の人々とクマ族の人々はときおり出会ったが、互いに笑顔を見せ、言葉を交わし、食べ物を交換して争いを起こさず過ごしていた。土地は広く、人は少ない。土地をめぐって争う必要などなかった。


新しいわの国の長となったマサは、クマ族と友好を深めるために、贈り物を持って遠い南にいるクマ族の長のところへ出かけていく事にした。この地で新しくわの国を作った事や、その原因となったヤマタイについて知らせておくべきだとも考えたからだ。クマ族の人達を驚かせないように、ヤマタイの弓矢や盾や鎧を布で包んで背負い、途中のクマ族の集落の人々や長にも挨拶し、贈り物を渡しながら、南へと進んでいく。


クマ族の人達は多少気が荒いが、わ人の顔で、わ人の言葉を使い、時々わからない言葉があったが、不都合な事はほとんど無かった。


クマ族の国は、話によればヒタ国より多い五千人の人達が、西にひろがるクマ海という、外海よりも波の穏やかな内海沿いに暮らしている。

クマ海の向かい側の島々には、外海の向こうからきたそと人達が住んでいる。そのそと人達は、攻めて来る事はなく、ヤマタイほど凶悪ではないという。

クマ族の中にも外海の向こうからきたそと人達が多くいて、一緒に暮らしているという。


南に行くにつれて気候は温暖になり、ここは冬になると雪が降るのかと聞いてみたくなるほどだった。クマ族の人達によると、やはり腰ぐらいの高さの雪は降り積もるらしい。わの国の冬は人の背丈ほどの雪が降り積もり、狩りや収穫ができない日が続いていた。それに比べると、一年中狩りや収穫ができる土地は羨ましかった。


数日かけて、クマ海を望む小高い山の麓にある、クマ族の長のいる集落についた。マサ達は頭を下げて、ヒスイなどの贈り物を差し出した。


クマ族の長マカルとその一族はそと人で、体中に入れ墨をしていた。

クマ族の長は「良く来てくれた。我々クマ族とわの国の人達とは、昔から仲良く行き来し、品物を交換してきた。これからも仲良く暮らしていこう。」


マサはクマ族の長の言葉に感謝を述べた後、新しい土地でわの国を作る事になった原因のそと人の来寇、戦いのときに赤い顔をしたヤマタイの事を伝えた。おおよそを聞いたクマ族の長は、

「なるほど、ヤマタイの国はひどい事をする。クマ海の向こうの島にいるそと人達は悪い事はしないがなあ、違うところから来たそと人かも知れん」と言う。


マサ達は、ヤマタイのそと人達が使う弓矢や盾、鎧の入った包みを、クマ族の長に差し出した。その包みの中を見た長はやはり驚いたようで、このおおきな弓は、どのぐらい飛ぶのかと聞いてくる。

マサ達は、その矢がシカやイノシシなどの動物相手ではなく、人を殺すために作られている事、そしてそれを防ぐために盾や鎧がある。兜をかぶっている者もいた事を伝えた。

鎧を着けた馬を先頭に攻めて来る事なども伝えた。クマ族の人達も馬を知っていると言ったが、どうやら馬の大きさはかなり違うらしく、人が乗ることで武器になるとは考えにくいらしい。


とにかく、マサ達の話を聞いて、クマ族の人々は、ヒタ国と同様に、長の命令で、各集落に弓矢を大きくする事、盾と鎧を作る事を始める事になった。マサ達の持ってきた弓矢や盾、鎧は各集落に見本として回される事になった。こうして、クマ族の国も大きな弓矢と丈夫な盾、鎧をもつ国となっていった。



マサ達が、クマ族の国からわの国に戻って数か月の秋の日、突然、驚きの知らせが届いた。ヒタ国の人々が駆け込んできて、こう知らせた。

突然、百艘の舟に乗ったヤマタイの兵が、ヒタ国の北の浜に上がって来て、集落を襲った。そしてヒタ国の兵士たちが敗れたという、驚きの知らせだった。





参照


熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト王権に抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国曽於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされる。また5世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人」として仕えたという説もある(津田左右吉ら)。なお、隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。 また、魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとする説が、内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らにより唱えられている。ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致するものではない。            (Wikipedia熊襲)

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