第3話 農業と文明

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 その後さらに、2万年前から極寒の最終氷期最寒期LGM(Last Glacial Maximum)が始まる。


 現在より気温が7、8度低く海水面が100~120m下がり、氷原砂漠が拡大する時代を迎え、現生人類はアフリカ、東西ユーラシアで人口を激減させた。


 極東地域でもこの頃海面が100メートル以上下がり陸地が拡大する状態となり、中央アジアの狩猟民の東アジア・東南アジアへの移動が続いた。2.5~2.2万年前にはシベリアとアラスカを繋ぐベーリング海峡が陸地化し、現生人類が徒歩でアメリカ大陸へ進出して行く。


 シベリアと樺太と日本列島地域はすべて地続きであり、朝鮮半島と日本の間も狭い川のような海峡で隔てられ、ほぼ地続きの状態だった。その中、遺伝子タイプC系統やD系統の海岸採集民は、遺伝子タイプN系統やO系統の狩猟民の進出に押される形で、日本列島地域を含む東アジアの東端の地域へと移動していった。



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 そして突然長い氷期が終わり、約1万5千年前から再び「最終間氷期」の急激な高温化が始まった。この高温化は、13万年前の「リス・ヴュルム間氷期」以来、現生人類史上二度目の奇跡的な現象だった。そもそも地球の気温は百万年以上前から、長く続く極寒の氷河期が、本来の状態であり、ほぼ10万年ごとに訪れる間氷期の急激な高温期とその直後の温暖湿潤な気候こそが、奇跡的な環境と言える。そして現生人類を含むすべて生物は現在に至るまで、その最終間氷期の高温で安定した気候の恩恵を受けている。


 世界各地で農業を中心とした文明が起こり、紀元前9000年(11000年前)からチグリス・ユーフラテス川流域でメソポタミア文明、紀元前8000年頃からナイル川流域でエジプト文明、紀元前7000年頃からガンジス川流域でインダス文明が始まる。

ヨーロッパでは、紀元前6700年頃からアナトリア(トルコ)の農耕民がバルカン半島から西進しヨーロッパ印欧語族の祖先となったという説と、紀元前4000年頃からクルガン(黒海北岸)の騎馬民族が西進しヨーロッパ印欧語族の祖先となったという説がある。


 東アジアでは、中央アジアから移動してきた遺伝子タイプN系統やO系統の狩猟民が、温暖化による草原の回復で食料が豊かになり、各地で人口を増やしていく。

それとは逆に、大陸東岸の遺伝子タイプC系統やD系統の海岸採集民は、海面の上昇で居住地が海に沈んでいき、しかも内陸部では狩猟民からの圧迫を受けるという厳しい状況となった。狩猟民の海岸採集民に対する一方的な戦いは続き、海岸採集民に対して完全に優位に立った狩猟民は、やがて海岸採集民を支配下に置くようになった。過酷な隷属状態を脱するため、海岸採集民の多くは大陸を離れ東の海の向うの島々へ移住する事を決断した。


 紀元前9500年頃、最終間氷期の高温化の影響をうけた日本列島周辺は、「縄文海進」で海面が約百メートル上昇した状態となる。対馬海流、リマン海流の流入で日本海が拡大し、日本地域はユーラシア大陸から完全に切り離された状態となり、樺太・北海道・本州・四国・九州の五つの大きな島などからなる列島地帯が誕生していた。

そのなか日本列島、南西諸島などの島々で、主に遺伝子タイプC,Dを中心とする先住集団と、大陸から避難してきたD系統の海岸採集民が暮らすようになり、竪穴式住居と土器・土偶・丸木舟の縄文時代が始まる。


 中国大陸ではD系統の海岸採集民たちの多くが海を渡り、残された大陸地域は遺伝子タイプN系統やO系統の狩猟民集団が占有する地域となっていった。


 やがて、N系統の集団が中国東北部で狩猟を中心とした遼河文明を築く。O系統の集団(遺伝子タイプO1)は中国南部の長江流域で漁労・農耕(稲作)の長江文明を築いた。中央アジアから移動してきた別のO系統の集団(遺伝子タイプO2)は中国北部の黄河流域で畑作・牧畜の黄河文明を築いていく。中国大陸でこれらの集団が抗争と衝突を繰り返す事となる。


 紀元前3000年頃、遺伝子タイプNの遼河文明は、遺伝子タイプO2の黄河文明の集団に駆逐されたと推定される。紀元前2000年頃、残されたO1、O2両集団の戦いが始まり、遺伝子タイプO2の黄河文明の集団が勝利し、漢民族の祖として中原(黄河中流域)を支配し、中国初代の王朝と言われる夏を建国した。敗れたO1タイプの長江文明の集団はその後、中心部を離れ、長江上流域(現在の四川省、貴州省)、長江下流域(現在の江蘇省、浙江省)以南に移し、苗(ミャオ)族と呼ばれる事になった。


 紀元前1600年頃、殷の湯王が、東夷と呼ばれる苗族の諸族を従えた馬の曳く戦車を用いた戦術で、夏王朝を倒し殷王朝を建国した。


 紀元前1046年頃、西方の異民族出身の周の武王が、チベット系の姜族と共に、殷の紂王と東夷系の諸族を倒し、周を建国した。この時代、周王が東夷を討ち、魯・斉・燕・晋・衛などの同族を諸侯として配置したという記録がある。周代にはその後、東夷が淮河周辺に勢力を保ち「淮夷」として度々反乱を起こした。長江文明の集団は、この頃まで、中国大陸の中心の黄河文明の集団に対する抵抗勢力として存在を保っていた。


 紀元前770年、北方異民族の侵入により周王朝が滅亡し東周という小国になるとすると、中国大陸は多くの国が乱立する「春秋戦国」の時代を迎える。遺伝子タイプO1の長江文明の集団は呉・越・楚などを建国し、O2タイプの黄河文明の集団も晋・秦・燕・斉などを建国した。その後五百年以上各国が覇を争う戦乱が続き、敗れた国の民は戦乱を避け、南方の華南や東南アジア地域へ、そして東方の朝鮮半島や日本列島へと押し寄せる事になる。


 この物語は日本列島で暮らしていた遺伝子タイプDの海岸採集民を中心とした縄文人達のところへ、それらの渡来人達が、朝鮮半島を離れ海を越えて渡来してきたところからはじまる。




参照


*オッペンハイマーは、著書P268で「いわゆるモンゴロイド型の証拠は、およそ二万年前の最終最大氷期の時代までアジアに現れない。つまりその身体的な差異を生んだ力は、最初のアジア人が北アジアに到着した後、長い時間をかけて積み重なっていったのだろう。」と述べ、モンゴロイドのぶ厚いまぶた、扁平な顔、丸い体型などの身体的特徴が形成された経緯を、寒冷適応の面から説明している。


*漢族は中央アジアの或る部族が、黄河上流域に移動した民族だと思っています。・・・我が国とは異なる「主語・動詞・補語」の文法をはじめ、我が国が喉で発音するのに鼻母音の発音である事、さらに蒙古斑のないことなどから、漢族はアジア系の人種ではないと信じています。その漢族は中・下流域にいた強勢な苗族に対し、いくたびとなく挑戦します。ついに紀元前二千年のころ、漢族は苗族を討って中原に進出することに成功し、漢族として最初の夏国を建てます。  

                  (諏訪春雄 倭族と古代日本 P14)

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