第20話 秦人の襲来

しかし、そのワヒ国にとっての平和な時代は長く続かなかった。


この頃、西の大陸を統一した秦の始皇帝が没した。外征のための軍役や宮殿・長城などの建設のための労役で各国から徴用した多くの民は、その後の混乱の中で、多くが流民化し、陳勝・呉広の乱などの戦乱の中で西の大陸の周辺部へと移動してゆく。その民は韓・趙・魏・楚・燕・斉などの出身に関係なく「秦人」とよばれ、アジアの各地に混乱と戦乱を引き起こしてゆく。「秦」の名が周辺国に伝わり、シナ、チャイナ等の語源となった事は良く知られている。そして、この西の大陸で激烈な戦いの中で暮らしていた東アジアで最強の軍であった秦人達が、山東半島や朝鮮半島を経て日本列島へと渡来してくる事になる。


平和な日常を回復していたワヒ国に、ある年の秋突然、見たことのないそと人の大軍が、西の海と陸から来襲した。そと人たちは、ヤマタイや倭族よりも大きな体格の兵達で、黒い旗を立て、黒光りする鎧兜を身に着けていた。数千のそと人の兵達が隊列を組んだ俊敏な動きで北の浜から現れ、船から上陸した兵達と共に西の浜に集結し、五千を超える隊列を整えた。その中から三人の騎乗した使者が現れ、ワヒ国の砦の前で、そと人の言葉で声高に呼ばわった。

「この地の長に話がある、出てこい!」

ワヒ国の長のニカが出向くと、そと人の使者はこう言った。

「我々は西の大陸を統一した秦の民だ。この島に秦王の威光を伝えるために渡来した。有難く迎えよ!」

対して、ワヒ国の長のニカが応えた。

「そと人がこのワヒ国に来るには、それなりの礼儀がなくてはならぬ。ひとまず兵を引き、国に帰って、秦王の親書をもって、正式な使者を送れ。そうすればそれなりの礼儀をもって迎えるだろう」


ワヒ国が、秦人の兵達を迎える事を拒否したことを確かめた使者は、

「それでは、この秦人の兵達が、お前たち土人に、礼儀とは何かを教えるだろう」

と言い放ち、静まり返る秦人の兵の隊列へと引き返して行った。


そして、大きな鐘が鳴り響き、秦人の兵の隊列が動き始めた。まず、前面に弓隊が現れ、号令をかけそろった動きで大きな仕掛け弓に足を使って矢を装填し、一斉に矢を放った。空が黒くなるほど大量の矢が、村の砦の前に出てきたワヒ国の兵に向かって撃ち込まれた。盾をも貫く強烈な矢がワヒ国の兵を次々と倒していく。次に斧がついた長槍を高く掲げた兵達が隊列を組み、ワヒ国の兵に近づき、振りかざした長槍の斧を叩きつける。最後にその後ろから、鎧兜で武装した兵が飛び出して、ワヒ国の兵に長い刀で襲い掛かった。


ワヒ国の兵は村の砦で勇敢に戦い、大きな弓から放たれる大石でそと人の軍に損害を与えたが、そと人の軍はひるむことなく仲間の死体を乗り越えて突入し、村の砦を数時間で陥落させた。ワヒ国の兵士たちは皆殺しにされ、その死体は、東の岡に建つ城の前に山のように積み上げられた。これは「京観」という大陸の戦いでは勝利した軍により通常のように行われる風習だったが、城に避難していたワヒ国の女子供達にとっては大きな衝撃だった。


ワヒ国の村を守る砦を制圧した秦人達の軍は、東の岡に建つ城の大きな弓から打ち出される岩や石にひるむことなく、一斉に構えた大弓から雨のように火矢を撃ちかけ、燃え上がる柵を乗り越え侵入し、ワヒ国の兵を倒していく。ワヒ国の長ニカは、城にとどまり槍をふるって最後まで戦い殺された。女子供たちを中心としたワヒ国生き残りの人々は、そと人の軍の追撃を逃れ、東の山々を目指して落ち延びていった。


このワヒ国への来襲に先立って、秦人達はマツラ国に来襲していた。マツラ国の王は、入り江を埋め尽くす秦人の兵を見て、戦いを避け、国を譲り臣従する道を選んだ。マツラ国の人々は、この黒い旗を掲げる新しいそと人達が、秦人であり、西の大陸で恐ろしい強さを発揮した秦の部族であることを知っていた。戦う事が無益だと判断したマツラ国の人々は国を捨てて北へ逃げ延びるしかなかった。マツラ国は、ワヒ国に連絡する事も救援を求める事も出来ないままに消滅した。


九州の西の地でワヒ国に侵攻した秦人達は、ワヒ国の地を占領しただけで事足りたわけではなかった。この地の民は逃げ去り、無人と化していた。このままでは使役する民がいない。秦人達は自分たちで田畑を耕したり魚を獲るのは不得手だった。その次の、年秦人達は、使役できる民を求めて、南のクマ族の地を目指して進撃を始めた。


クマ族の地に現れた秦人の兵達の侵入を防ぐために、クマ族は四千人の兵を集め、荒々しい模様の大盾を並べ、弓を放ち、槍を振るい激しく戦った。しかし、五千人の秦人の兵は、より大きな仕掛け弓から放たれる強力な矢を雨のようにクマ族の軍に浴びせ、黒い鎧兜で整列した隊列が前進し、大きな斧の付いた長槍を振り下ろした。四千人のクマ族の軍は無残に敗北した。


歯が立たないとみたクマ族は、秦人達を迎え入れ、臣従する道を選んだ。クマ族は数百年前にそと人達を受け入れ、王として迎えていた。そのクマ族にとって、これ以上秦人達と戦って多くの犠牲を払うよりも、秦人達を受け入れ臣従するという選択が賢明に思えた。クマ族の王だったそと人の一族は新しく来た秦人達の王に国王の座を譲り、国を去った。秦人達はクマ族の決定に満足し、クマ族の人々を使役することで、その暮らしを豊かにしていった。この秦人達を迎え入れた球磨国は西九州の地で、強大な勢力を有する事になった。




参照


秦朝は、紀元前221年から206年まで存在した、中国の統一王朝である。この王朝は、秦が戦国七雄の他の6国を征服することで成立した。秦朝を建てた皇帝は、始皇帝として知られている。秦は現在の甘粛省や陝西省の秦の拠点に由来した。秦の強さは、戦国時代の紀元前4世紀の商鞅の法家改革により大いに高められた。紀元前3世紀中葉と後半に、秦は一連の迅速な征服を成し遂げ、弱体化した周を終わらせ、結局戦国七雄の6国を征服して全中国を支配した。      (Wikipedia秦朝)


葦原中国(あしはらのなかつくに)とは、日本神話において、高天原と黄泉の国の間にあるとされる世界。 豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)もしくは、中津国(中つ国)とも言う。日本書紀には、豊葦原千五百秋瑞穂国(とよあしはらのちいおあきのみずほのくに)という記載がある。 垂直型構造の世界観において高天原と黄泉国、根之堅洲国の中間に存在するとされる場所で、地上世界を指すとされる。また、中国には「中心の国」という意味もある。日本神話によれば、須佐之男命の粗暴に心を痛めた姉の天照大御神は天岩戸に隠れてしまい世の中が混乱してしまった。このため、八百万の神々は協議の結果、須佐之男命に千位置戸(通説では財物、異説では拷問道具)を納めさせ、鬚を切り、手足の爪を抜いて高天原から追放したとされる(『古事記』では神逐(かんやらい)、『日本書紀』では逐降(かんやらひやらひ)と称する)。須佐之男命の子孫または息子である大国主神(オホナムチ)が、少名毘古那神と協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、葦原中国の国作りを完成させたといわれる。その後天照大御神の使者達に国土を天孫邇邇芸命に譲渡することを要請され、息子の事代主神と建御名方神の了承・降伏を受け、宮殿の建築と引き換えに大国主神は杵築(きづき)の地に隠退、後に出雲大社の祭神となっている。また『日本書紀』には服従しない神々を殺戮し、最終的に事代主神と大物主神が帰順したとされる。 (Wikipedia葦原中国)


(伊邪那岐命は)天地開闢において神世七代の最後に伊邪那美命とともに生まれた。そして高天原の神々に命ぜられ、海に漂っていた脂のような国土を固めるべく、天の浮き橋から天沼矛で海をかき回し、出来上がった淤能碁呂島にて伊邪那美命と結婚した。国産み・神産みにおいて伊邪那美命の間に日本国土を形づくる多数の子を儲ける。その中には淡路島をはじめ大八洲(本州・四国・九州等)の島々、石・木・海(大綿津見神)・水・風・山(大山津見神)・野・火など森羅万象の神が含まれる。・・・その後伊邪那岐命は火之迦具土神を殺し、出雲と伯伎(伯耆)の国境の比婆山に埋葬した。              (Wikipediaイザナギ)

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