第五十章 わたしの名前は
1
「臭いにより看破される可能性が高いため、本来であれば勇心さんの用意したニコチン液での毒殺は成功の見込みが薄い。しかし、相手が臭いというものを知覚できなければ、その問題はクリアできます。原液のままでは刺激が強いため、色合いの似ている紅茶で薄めたのでしょう。彼は紅茶に毒を仕込むと、自室の窓から毒を保管していた小瓶を投げ捨てた。そしてあなたが来るのを待っていたのです。しかし、あなたもまた勇心さんを殺す目的であの場を訪れていた。どちらの紅茶にも飲まれた形跡がないことから、あなたは部屋にやってきてすぐ勇心さんを殺した。違いますか?」
「その通りです。わたしが寝室を訪れた時、すでにお茶は淹れてありました。勇心はわたしに座るように促しましたが、わたしは彼の前まで歩くと、椅子に座るふりをして身をかがめ、隠し持った金槌を取り出して彼を殴りつけました。彼が車いすから倒れても、何度も同じ箇所を殴りました」
「動機についても調べはついています。あなたは百合という少女の仇をとるために実の父親を手にかけたのですね」
「……百合」
林檎は遠い過去の思い出を眺めるように目を細めた。
「およそ十年前に八神邸に引き取られた、不幸な少女です。あなたを苦しめていた心臓病を治療するため、勇心さんは彼女を引き取った。文字通り、あなたの心臓のスペアとして利用するためにね。あれから当時八神邸で働いていた元使用人との接触に成功し、あなたが大変百合さんに懐いていたことが判りました。どういういきさつであなたが真実を知ったのかは定かではありません。が、勇心が自分を生かすために灰谷百合を殺したという事実を知ったあなたは、復讐を決意した」
「……」
林檎は口を噤んでいる。梢は席を立って、三人分のコーヒーのおかわりを注ぎにキッチンに向かった。
取り残され、二人きりになった私たちは無言の視線を交わした。林檎のか細い息遣いが静寂を震わせる。私はここがチャンスとばかりに口を開いた。
「百合は……幸せでしたか?」
訊かずにはいられなかった。
「八神家で、百合は幸せに過ごしていましたか?」
灰谷家で辛い毎日を送り、ようやく父親と再会して救われたと思ったら、またしても悲劇が彼女を襲ったのだ。百合が最期に何を思ったのかは今となっては誰にも判らない。
百合はこの世を恨んだだろうか。
運命を恨んだだろうか。
自分の心臓を奪われることを知っていただろうか。
涙が溢れてきた。拭っても拭っても、滝のように涙が頬を流れていく。これが運命というのなら、こんなにもやりきれない話はない。
「幸せだったよ」
誰かが言った。
「え?」
どうしてか、私はその声に懐かしい響きを感じた。林檎の声のようだ。気がつくと、目の前の林檎も涙を浮かべていたので、私はおおいに慌てた。
「あ、辛い過去を思い出させてしまってごめんな――」
「辛くなんかなかった」
私の声をかき消すように林檎は言った。
「わたしはね、幸せだったよ。ごめんね、やっぱり無理だ。楓さんには隠せない」
「え?」
今、彼女は何と言ったのだろうか。先生ではなく、「さん」と付けて私の名を呼んだ。懐かしいその響きに刺激され、なぜか百合との記憶が脳内の抽斗からあふれ出した。
……?
私は困惑していた。
三人分のおかわりを持って梢が戻ってきた。姉は場に流れる空気を感じ取ったのか、無言のまま元の席に落ち着いた。
「楓さんたちの認識は根本的に間違ってるの。たしかにわたしが起こした事件そのものは梢さんの推理通りだけれど、その背景となる根幹の部分――八年前の事件は、楓さんたちが想像しているものとは真逆なのよ」
林檎の口調が明らかに変わっていた。先ほど前での気品に満ちたお嬢様風の話し方はなりを潜め、まるで親しい友人とおしゃべりをするような、庶民的な口調だった。
「何を……言ってるの。林檎さん」
何が起きているのか、彼女が何を言おうとしているのか、私には全く見当がつかなかった。
「ごめんなさい。本当は最初に告白すべきだったわね。特に、わたしの親友である楓さんには」
「親友?」
「でもまさかここまで気づかれないというのも、それはそれで悲しいことね」
「以前、どこかでお会いしましたっけ」
私の困惑は続いている。そんなことはお構いなしに、林檎は口を動かし続ける。
「たしかにわたしが八神勇心を殺したのは復讐のためよ。わたしの大切な人をあの男は殺したの。実に自分勝手な理由でね」
「大切な人……」
「そう、わたしの愛する妹を、あいつは殺したのよ。だからその仇をとった。ただそれだけの話」
「勇心さんは、だ、誰を殺したの……?」
「八神林檎」
その瞬間、鋭い衝撃が私の背筋を貫いた。
「じゃ、じゃあ、あなたは……」
私はおもむろに立ち上がった。
信じられない思いでいっぱいだった。
込み上げる感情をなんとか言葉にしようと努力するも、声を失った人魚姫のように口をぱくぱくさせるだけで精一杯だった。
息が荒くなり、頭の奥がずきずきと痛んだ。
視線がぼやけ、思い出の中でしかもう会えないはずの、懐かしい親友の姿が浮かび上がった。やがてそれは目の前の現実と重なり合い、十年という長い年月を超えて私の前に彼女を蘇らせた。
震える声で私は訊ねる。
「もしかして、百合……?」
にっこりと口角を挙げて彼女は微笑んだ。
「久しぶりね、楓さん」
何が起きているのか、判らない。
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