第四十八章 あなたですね?
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事件から一か月が経った。
八神邸の地下から発見された白骨死体は捜査本部にとてつもない衝撃と混乱を与え、世間を仰天させた。八神勇心殺害の決定的な証拠を掴めないまま時間だけが過ぎ、事件は早くも迷宮入りの気配を漂わせ始めていた。
その日、私と梢は新駿河市のマンションにいた。
解決の見込みが薄れたことで、私たちはお役御免となったわけだ。八神邸事件から身を引くことに躊躇がなかったわけではない。しかし、私はこれでいいと思っていた。ハッピーエンドではないけれど、少なくともこれ以上の悲劇が起こることはないのだから。
私は自室の作業机に向かって、締め切り間近の短編に取り組んでいた。頭の中に渦巻く悲しみをごまかすように、必死に小説を書いた。
これでいい。
そう自分に言い聞かせながら、私はひたすらキーを打った。
静寂を叩き割るようにインターホンが鳴ったのは、八月七日の午後一時ちょうどだった。その日は朝から重苦しい天気で、下界は蒸し風呂のような不快な暑さに支配されていた。
「はーい」
今日は誰かが訪ねてくる予定は入っていない。宅急便だろうか。私は液晶モニターの前に立ち、来客の姿を確認した。そうして、ドアの向こうに立っている女性の姿を目に捉え、私は驚いた。
モニターの荒い画面には八神林檎が映っていたのだ。嫌な予感を覚えつつ、玄関へ駆けた。
「こんにちは、楓先生。突然の訪問を許してくださいな」
「ど、ど、どうしたんですか、林檎さん」
いったい何をしに来たのだろう。
私は内心の動揺を悟られぬよう、神経を張り詰めた。
林檎はフォーマルな黒いドレスに身を包んでいる。持ち前の気品を崩さない程度に薄化粧を施し、首元には純金製のネックレスが輝いていた。まるでこれからパーティーにでも出席するかのような装いだ。
「わ、わざわざ富士宮から新駿河まで、いったい何の用でしょう」
「実は、ここを去ろうと思っているんです」
「え? ここって静岡をですか? どこに行くんです?」
その質問には答えないまま、林檎は大きな瞳で私を見据えて、
「最後に先生とお話をしたくて」
「林檎さん――」
背後に気配を感じて振り向くと、姉の姿があった。不敵な笑みを浮かべながら、梢は言う。
「だったら、こんなところで立ち話をするより、冷房の効いた部屋でじっくり腰を据えて話しましょうや。お茶くらいは淹れますよ。どうぞ、お入りください」
その口調には異を唱えさせない圧力のようなものが感じられた。
梢は強引に林檎を部屋に招き入れると、いそいそとキッチンに立った。私と林檎はリビングのソファーに向かい合わせで座る。ほどなくして、三人分のアイスコーヒーを盆にのせて梢が戻ってきた。
「お茶が切れていたので、コーヒーで我慢してください」
「どうぞ、お構いなく」
からからと氷がぶつかる音を聞きながら、私はアイスコーヒーを口に運んだ。あまりの緊張で乾いた口内に、冷たい苦みがじわじわと広がっていく。誰も口を開かず、場には神経を摩耗させるような沈黙が蔓延している。
梢は煙草に火を点け、じっくり味わうように燻らせた。
目の前の林檎の真意が掴めず、地獄にいるような緊張が私を支配していた。彼女は何も語らない。話をしたいと彼女の方から訪ねてきたのに、何かを待っているようにじっと口を結んでいた。
沈黙を破ったのは梢だった。
「八神勇心さんを殺したのはあなたですね?」
空気が張り詰める。
私は強い抗議の目を姉に送った。
そのことは、私たち姉妹だけの秘密にしておくと誓ったではないか。
私の親友、灰谷百合が繋いだ命のバトンを尊重し、彼女の死を無駄にしないためにも、百合の心臓を受け継いだ林檎を守ろうと、誓ったではないか。
「お姉ちゃん、何を――」
「どうして判ったのですか?」
林檎はようやく口を開いた。しかしながら、その表情、口調には罪を暴かれた動揺や恐怖などは微塵も感じられない。どころか、彼女は実に落ち着き払っていた。彼女は自らの手を汚したことを、これっぽっちも後悔していないようだった。
「あなただけが犯人である条件を満たしていた。ただそれだけのことですよ」
面白くもなさそうに梢が言うと、林檎は目を煌かせて、
「ぜひ、拝聴したいです。楓先生のお姉さまがどんな推理を組み立てて事件を解明したのか。ミステリマニアとして、本物の名探偵の推理を」
「いいでしょう」
梢は半分も吸ってない煙草を灰皿で消した。
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