第二章  武光楓は推理小説が好き

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 庭に洗濯物を干してから、わたしは家を出て学校へ向かった。教室は相変わらずがやがやとしていて、個人的には落ち着かない。


「あたし昨日『クローズZERO』観てきちゃった」

「マジ? どうだった?」

小栗おぐりしゅんマジやばかった。マジどんだけぇ~って感じ」

「お前モンハンどこまで進んだ?」

「ティガレックスが倒せねぇ」

「は? あんなんソロで余裕だろ」

「あれ、香水変えた?」

「判る? パパにエンジェルハート買って貰っちゃった」

「いいなー」

「俺の母ちゃん今さらビリーズブートキャンプ始めてさぁ」

「今日学校終わったらカラオケ行こうよ」

「あたしあらし歌うー」

「あたしは倖田こうだ來未くみ


 彼らの話題に挙げている内容は、そのほとんどがわたしにとって未知のものだった。

 わたしが世俗に疎いということもあるだろう。家ではテレビを観る暇があれば家事をやらされるし、小遣いも貰っていない。当然、友達もいない。わたしの境遇はいくつもの尾ひれをつけて広まっているようで、腫れ物を扱うような感覚でクラスの皆は接してくる。いじめに発展していないだけマシかもしれない。


 もし母がわたしを見捨てなかったら、わたしも彼らの輪の中に入り、毎日を楽しく生きることができたのだろうか。

 授業が始まるまでまだ余裕があったので、わたしは本を手に図書室に行くことにした。

 たくさんの本に囲まれた、ひっそりとした空間。この時間帯にここを訪れる物好きはわたし以外にいないだろう。誰の邪魔も入らない、わたしだけの世界だ。


 本は好きだ。


 図書室で借りるだけならお金がかからないし、何より本を読んでいる間はその世界に入り込んで現実を忘れることができるからだ。特に好んで読むジャンルは決まっていないが、舞台が現実とかけ離れた空想世界であればあるほど、日常の辛さを忘れることができる。


 図書室で借りた本は学校に図書カードを届け出れば家に持ち帰ることもできる。小遣いのないわたしにとってこれは非常にありがたいものだった。さっそく一昨日借りた本を本棚に返す。


「あと十五分か」


 壁に掛かった古い時計は午前七時四十五分を示していた。八時から朝読書の時間が始まるので、あまり長居はしていられない。今日は何を借りようか。視線を細かく動かし、本棚から本棚へ蟹歩きで移動する。シューズと床が擦れる音を聞きながら本を選んでいると、がらぁっとドアを引く音がした。


「あっ」

 誰かが来たようだ。

「あれっ、灰谷さん?」


 現れたのはクラスメイトの武光たけみつかえでだった。その突然の邂逅に、わたしは少なくない恐怖を感じた。というのも、彼女とは今までほとんど喋ったことがなかったからだ。

 わたしなんかとは違い、武光楓はきらきらとした本物の美少女でクラスの人気者でもある。バスケ部ではエースを務め、成績も優秀。よりによって、そんな太陽のような存在である彼女と二人きりになってしまうとは。


 死刑を宣告されたような気分だ。


「あっ……あ……」

「おはよう」

「お、おはよう、ございます」


 楓のはつらつとした瞳がわたしの姿を捉える。何を喋っていいかも判らず、わたしは機械的に声を発するばかりだった。

 いや、そもそも楓がわたしごときにかまうわけがないのだから、何もせずやり過ごすのが無難だ。そうして彼女の視界から逃れようと本棚の陰に移動した。


(何しに来たんだろう)


 決まっている。本を借りるためだ。きっと彼女も朝読書用の本を求めてやって来たのだろう。そんな簡単なことにも頭が回らないほど、今の私は動揺していた。


「ねぇ」

「わっ」


 目の前に楓の顔があった。彼女は半身を本棚の陰から出し、わたしの顔を覗き込んでいた。


「ご、ごめんなさい」

「はぁ? なんで謝るのよ」

「あ、ごめんなさい」

「だ、か、ら……まあいいか。灰谷さんも本を借りに来たの?」

 よく通るはきはきとした声で楓は続ける。

「う、うん」

「そっか。休み時間はよく本読んでるもんね、灰谷さんは。読書好きなんだ? 何借りたの? こっち来なよ」


 ようやく落ち着きを取り戻したわたしは、彼女に引っ張られるように本棚の陰から出た。


「まだ決めてなくて。武光さんも?」

「うん。あっ、なんだか苗字で呼ばれるの気持ち悪いから楓でいいよ。私も百合って呼んでいい?」


 なんと楓はわたしの下の名を知っていた。彼女にとってわたしなんてその辺の虫けらと変わらないちっぽけな存在だろうに。


「そういえば、あんまり話したことなかったね」

「そうだね」

「百合ってどんな本が好きなの?」

「えーと、ファンタジー系、かな。楓……さんは?」

「私はねぇ、笑わないでよ? 推理小説が好きなの」

「……推理小説」

「そう、うちのお姉ちゃんがそういうの好きなんだ。私が近寄って話しかけても気づかないくらい熱中して読んでたから、そんなに面白いのかよって、興味半分で読んでみたら、見事にハマっちゃったの」

「ここに推理小説を借りに来たの?」

「そ。ここの図書室、けっこう古いやつが揃ってて、ちょくちょく借りに来るの。お姉ちゃんの部屋の本棚より、よっぽど品揃えが充実してるわ」


 そう言って、楓は入り口の近くの本棚に歩み寄って行った。

 正直意外だった。活発な彼女に読書の趣味があるとは、人は見かけでは判断できないものだ。


「百合は推理小説って読んだことあるー?」

「あっ、ないです」

「読んでみなよ、まだ何借りるか決まってないんでしょ。面白いよ」

 見ると、楓はすでに文庫本を一冊手に取っていた。

「人が死ぬ物語なんですよね。怖そう」


 小さい頃からホラー系は大の苦手だった。母と生活していた頃は、特番の心霊番組やホラー映画が放送されるとすぐにトイレに逃げたものだ。


「怖い? あははっ、そんなことないよ。ホラー小説じゃないから、読んだ後トイレに行けなくなるくらい怖くなるってのはほとんどないよ」

「でも人が死ぬんですよね?」

「そりゃ、まあ、そうだけど。でも、死そのものじゃなくって、どうして死んだのか、誰が殺したのか、どうやって殺したのかっていうとこにスポットを当ててるから、まあ、とにかく大丈夫よ」

「はぁ」


 そういうものなのだろうか。


「初めて読む人におすすめの推理小説はねぇ……これか、これかな」

 楓はしなやかな手つきで棚の中段から二冊の本を抜き取り、わたしに差し出してきた。タイトルに目を落とす。『11枚のとらんぷ』、『星降り山荘の殺人』とある。どちらも初めて見る本だ。


「どっちがいい?」

「えと、じゃあ、こっちで」

 わたしは『11枚のとらんぷ』を選んだ。こちらを選んだ理由は直感ではない。もう片方のタイトルにある「殺人」という単語が、いやに恐ろしく感じられたからだ。


「それはね、マジックをテーマにした推理小説で、ちょっと変わった構成になってるの。でも、初心者でも読みやすいと思うよ」

「あ、ありがとう」


 楓から受け取った本を胸に抱き、上目遣いで彼女を見る。すると、晴れやかな笑顔が返ってきて、わたしは思わず視線を下げた。どういうわけか、胸が苦しかった。


「さて戻ろうか。もう時間ないし」


 図書カードを記入し、隅にある受付に提出し終えると、わたしたちは連れ立って図書室を出た。教室の手前まで来ると楓は急に立ち止まり、振り返った。

「読み終わったら感想教えてね」

「う、うん」


 そうして彼女はウィンクを投げ、先に教室へ入っていった。

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