第一章 わたしの存在理由
1
お手洗いの掃除を終え、リビングに向かうと、すでに辰夫が席についていた。
正子はいなくなっている。白いものの混じった辰夫の髪は生え際が大きく後退し、浅黒い肌はくすんでいてハリがない。実年齢よりもだいぶ老けて見える彼は、不機嫌そうな顔をテレビに向けていた。
「叔父様、おはようございます」
その背中に挨拶をする。辰夫は大儀そうに半身を向けると、ぼそぼそとした声で「ああ」と言った。
「すぐに朝食の用意を致します」
「ああ」
辰夫は召使いにするような生返事を繰り返す。わたしは正子の食器を片づけてからキッチンへ向かい、彼の朝食を作り始めた。
灰谷家での生活は居心地の良いものではなかったが、母を失ったことによる悲しみを忘れるにはむしろよかった。そう思わなくては、いつか精神が潰れてしまうと本能で理解していたのかもしれない。
「叔父様、
光緒とは灰谷家の一人息子で、わたしのいとこでもある。大学二年生で、県内の私大に通っているようだが、最近は家にいることが多い。
個人的にはあまり好きではない。どうやら彼は幼い少女に興味があるようで、時おりわたしを見る目に異常なぎらつきを感じるのだ。
叔父はトーストを齧りながらわたしを一瞥すると、
「ふん、ああ、冷蔵庫にでも入れておけ。起きたら勝手に食うだろう」
興味もなさそうにそう言った。
「判りました」
とその時、どこからか甲高い悲鳴のようなものが聞こえてきた。
「はっ、朝からうるさいやつだ」
辰夫はそうぼやきながらリモコンに手を伸ばしテレビの音を上げた。どうやら今の声の主は正子のようだった。また何かどやされるかもしれない。そんな胸騒ぎを覚えつつ廊下に顔を出すと、再びヒステリックな声が聞こえた。外からだ。
玄関から外に出る。空はだいぶ明るくなってきていたが、吹く風は変わらず冷たいままだ。
「叔母様、どうされましたか?」
正子は正面の門の前にいた。これから日課のジョギングに出かけるようで、ぴっちりとしたウェアに身を包んでいる。その視線は、こちらからでは死角になる塀の道路側の陰に落ちていた。
「どうしたもこうしたもないよ!」
正子の怒号が朝の静寂を砕く。わたしは弾かれるように正子の許に向かった。
「ふざけんじゃないよ、どこのどいつだ。こんなことをしやがったのは」
「いったい、何が……?」
「見てごらんよ、人様の家の前にこんな臭いものを捨てていきやがったやつがいる」
門から道路に出て、正子の視線を追う。そうしてわたしは彼女の怒りの根源を発見した。なるほど、そこには犬の糞が落ちていた。
「きっと
「はぁ」
「お前、あとでこの糞を並木の家に投げ入れてきな」
「えっ」
並木家は灰谷家から四軒挟んだ先にあり、老夫婦が二人で住んでいる。たしかにあの家は犬を飼っているが、この糞がその犬のものだとはまだ決まっていない。第一、並木のお爺さんが犬の散歩をするのはもっと遅い時間のはず。
見たところ、糞の表面は乾燥しており、かなり時間が経っているように思えた。しかし、正子の憤怒に論理は通じない。彼女がやれと言ったことにわたしは従わなくてはならない。
「返事は?」
正子は
「……はい、判りました」
「ふん、嫌そうな目をするじゃないか。あたしたちに不自由な暮らしをさせない。それがお前をこの家に置いておくたった一つの理由だよ。お前が野垂れ死にしようが、こっちはいっこうにかまわないんだ。自分の存在理由を忘れるんじゃないよ」
「……はい。申しわけありませんでした」
それから正子は無言でわたしの胸を強く押すと、どしどしと全身のぜい肉を揺らしながらジョギングに出かけて行った。押された衝撃は思いのほか強く、わたしは勢いよく尻もちをついてしまった。
「……痛い」
スカートを払いながら立ち上がる。上半身をねじり、お尻の部分が破れたり汚れたりしていないことに胸を撫で下ろした。それから、顔に当たる風の感触で自分が涙を流していることに気づいた。理不尽な仕打ちには慣れているはずなのに、涙が溢れて止まらなかった。
どうして、わたしだけがこんな目に遭わなければならないのか。この想いを誰にぶつければいいのだろう。誰を恨めばいいのだろう。
わたしを捨てた母か、母を奪った男か。それとも正子か。
仮にこの答えが出たとしても、ちっぽけなわたしにはどうすることもできない。生きていくために、我慢するほかないのだ。
惨めなわたしを嘲笑うかのように、乾いた風が髪を揺らした。泣いていても仕方がない。一人残されたわたしはひとまず足元の汚物を片づけるため、スコップとポリ袋を取りに戻った。そして再び外に出ると、ちょうど家の前を並木のお爺さんが通りかかった。一瞬ぎょっとした。彼はリードを持った右手をひょいと上げて、
「やあ、百合ちゃん。おはよう。今日も寒いねぇ」
少しこもった、ぬくもりのある声だ。
「おはようございます」
わたしはしゃがみ込み、寒さに負けじと尻尾を振る並木家の愛犬――品種はパピヨン――を撫でながらそろりと訊いた。
「これからお散歩ですか?」
並木は白い息を吐きながら、
「こう寒いと年寄りにはきついんだがね、どうしてもこの子が行きたいって騒ぐんだ。こんなことなら、犬じゃなくって猫を飼えばよかったかなぁ。ははは」
「お散歩大好きだもんね、うりうり」
パピヨン特有の大きな耳を包むように撫でてやると、わんっと愛くるしい声が返ってきた。彼らが今から散歩に出かけるなら、この糞は別の犬のものだろう。正子の推測はやはり間違っている。
「それにしても、マナーのなっていない飼い主は困るねぇ。貸してごらん」
「あっ」
並木はわたしの手からスコップを取り上げると、すっとその場にしゃがみ込んで塀の前の糞を自前のポリ袋に入れてしまった。
「家を出た時から、妙にこの子が興奮していてねぇ。この糞の臭いのせいだったんだね。犬は鼻がいいから」
そう言いながら並木はスコップだけを返し、糞の入った袋は左手に吊るした。
「あ、あの、それはわたしが片づけます。並木さんが持ち帰ることはありません」
「いいよいいよ。大丈夫だから」
「でも」
「ここの奥さんは犬嫌いで有名だからねぇ。百合ちゃんが犬の糞を持ち帰って庭にでも埋めたのがバレたら、きっとかんかんに怒っちゃうよ」
「それはそうですが……」
もうすでに怒りは爆発している。しかも、目の前にいる並木に濡れ衣を着せた上で。
「奥さんに見つかる前に退散することにするよ。じゃあね。学校頑張って」
そう言って、並木は愛犬を連れて行ってしまった。彼の後ろ姿が過度の向こうに消えると、それと入れ違いになるように、正子が反対方向からやってきた。まだ家を出て十分ほどしか経っていないのに、まるでフルマラソンを完走したかのように息を切らしている。もうジョギングは終わりなのだろうか。
「おかえりなさいませ」
「はぁはぁ、何そんなとこでぼさっとしてるんだい。早く飲み物とタオルを用意しな」
あまりの疲労で彼女は先ほどの犬の糞のことなど忘れてしまっているらしい。とぼとぼと玄関に向かう正子の後に続いて、わたしも家に入った。
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