百合と林檎の物語

館西夕木

第一部  灰谷百合の青春

プロローグ  わたしはなんのために生まれてきたのだろうか

 1


 二〇〇七年、十一月下旬。


 目覚まし時計の音で目が覚めた。

 薄汚れた毛布にくるまりながら、わたしはのっそりと手を伸ばして時計を止めた。嵐が去った後のような静けさが痛いほど耳にしみた。


 午前五時三十分。


 気だるい体を起こしながら、電灯から垂れ下がった紐を引いて電灯を点けた。四畳半の小汚い部屋の光景が現れる。

 中央に敷かれた薄い布団、隅にちょこんと置かれた段ボール箱には、必要最低限の私物が入っている。服は今着ている薄い部屋着と二日分の下着、そして壁に掛かった中学校の制服と体操服にジャージだけだ。板張りの壁にはポスターはおろか、カレンダーの類すらない。


 起きて眠るだけのあまりにも侘しく、そして小さいわたしだけの世界。


「寒い」


 カーテンをまくって窓に顔を寄せる。外はまだ薄闇に包まれていた。東の空の果てが、うっすらと淡く輝いている。朝の到来を恨めしく思いながら、わたしはおずおずと窓から離れた。


 部屋着を脱ぎ、制服に着替える。暖房などない部屋で肌をさらけ出すのは、毎朝のことながら本当に辛い。刺すような冷気に耐えながら一通りの着替えを終えると、わたしは脱いだばかりの下着を手に、廊下へ出た。


 まだ家人たちは誰も起き出していないようだ。そのことにほっと胸を撫で下ろす。そろりそろりと足を運び、突き当りにある階段を下りて一階へ。脱衣所にある洗濯機に下着を放り込み、脇にある洗濯籠を手前に寄せる。機械的な動作で次々と衣類を洗濯機に投げ入れた。

 洗濯機を稼働させると、そのまま隣接した浴室へ入る。


「ひゃっ」

 

 浴室は身が凍るほど冷え切っており、床は氷のように冷たかった。スカートをたくし上げ、腕まくりをする。足の裏にたしかな痛みを感じながら、わたしは無心で風呂掃除を始めた。終わったのは六時過ぎで、ずっとしゃがみ込んでいたからか腰に鈍い痛みを感じた。


 脱衣所をあとにすると、そのまま外へ出た。空は依然として黒々としている。まだまだ夜が明けるには時間がかかりそうである。

 外の寒さは浴室の比ではなかった。吹き付ける寒風はどんどんわたしの体温を奪い、冷たく乾燥した空気に鼻の奥が痛んだ。辛いはずなのに、外の空気はどうしてか美味しく感じられる。呼吸をするたびに、肺の中に溜まった悪いものが流れ出ていくような、そんな感覚だ。


(いけない、いけない……)


 しなければならないことはたくさん残っている。門の脇のポストから朝刊を引っ張り出し、わたしは玄関へ走った。


 午前六時。そろそろ叔母が起きる頃合いだ。


 リビングに赴いて大理石でできた縦長のダイニングテーブルに朝刊を置き、エアコンの暖房をつけた。ややあって、冷えた体を慰めるようにゆったりとした温風が流れてきた。


「はぁ、あったかい」


 どっと力が抜けるのを感じた。よく頑張ったね、と誰も労ってくれない今までの苦労を、代わりに労ってくれているかのようだ。もう少しだけこの温もりに触れていたいけれど、わたしにはやるべきことがまだまだたくさんある。

 そうして奥のキッチンへ向かいかけたところで、どしどしと重たい足音が響いた。私は瞬間的に背筋を伸ばし、戸口に向き直った。


「おはようございます。叔母様」


 現れたのはトドみたいにでっぷりと太った中年女性――灰谷はいたに正子まさこだ。薄い顔立ちの分、ほうれい線やしわがよく目立つ。こちらに一瞥もくれず、正子は不機嫌そうに体を揺さぶりながらテーブルに着いた。そしてぼそぼそとした声で、


「コーヒー」


 とだけ呟いた。


「はい。少々お待ちください」


 わたしは改めてキッチンへ向かい、コーヒーメーカーのスイッチを入れた。そして正子の朝食に準備に取り掛かる。

 今日は洋風朝食だ。フライパンに油をひき、冷蔵庫から卵とベーコンを取り出す。昨夜作ったコンソメスープの鍋に火をかけ、トースターを温める。その様子を面白くもなさそうに眺めながら、正子は一言。


「コーヒーはまだかい?」


 その声は先ほどのぼそぼそ声とは比較にならないほど大きく響き、わたしは再び背筋を伸ばした。


「も、申しわけありません。今しばらくお待ちください」

「本当にすっとろい子だねぇ。あたしがコーヒーを飲みたいと言っているのに、あんたは料理の方を先に始めやがった。これはおかしいじゃあないか。耳は聞こえるかい? 何様だい? 誰のおかげで三食も飯が食えてると思ってんだ。ああ? お前の役目はあたしたちに不自由な暮らしをさせないことだろうが」


「申しわけありませんでした」


 正子はぼさぼさに乱れた髪をかき上げて、

「はん、この家に住、という感謝の気持ちが足りないみたいだね。あんたみたいなできそこないをわざわざ引き取ってやったあたしたちの温情に報いたいとは思わないのかい」


 正子のいびりはそれから十分弱も続いた。


 おそらく叔父の帰宅は昨晩も遅かったのだろう。

 いつだか小耳に挟んだ情報によると一流企業の重役である叔父――灰谷辰夫たつおは若い部下と不倫の関係にあるらしく、時おり帰りが遅くなる。正子も薄々それに感づいており、かといって辰夫に直接問い質す勇気もないので、今のようにわたしをいびることによって抱えた鬱憤を晴らしているのだ。

 できあがった朝食をコーヒーと共に出し、わたしは足早で戸口へ向かった。


「お手洗いを掃除してまいります」


 返事はない。正子は黙々とわたしの作った朝食を胃に収めながら朝のニュース番組を観ている。その後ろ姿は、トドというよりオランウータンみたいだな、とわたしは思った。


 *


 わたし――灰谷百合ゆりは中学二年の十三歳。早生まれなので、誕生日は年が明けてから訪れる。ただ、わたしの誕生日を祝ってくれる物好きな人間など、この世には一人として存在しないのだから、その日に特別な意味などはないのだけれど。


 両親はいない。


 父はわたしが物心ついた時にはすでにいなかった。写真やビデオなども残っておらず、生まれてから一度も顔を見たことがない。母も父についてはあまり語りたがらなかった。幼い記憶の片隅にすらその面影が見えないのだから、きっと母はわたしを産む前かその直後に父と別れたのだろう。


 わたしを女手一つで育ててくれた母は、わたしが十歳の時、突然姿を消した。突然、という表現はこの場合正しくはないのかもしれない。今になって思い返してみれば、その兆候はいくつもあったのだから。


(……お母さん)


 母は強い人ではなかった。


 常に自分を求め、慰めてくれる精神的な拠り所を必要とする人だった。平たく言えば、母はわたしを産み、親となっても女だったのだ。

 頻繁に男を家に連れ込み、わたしを奥の座敷に押し込む。そして、わたしなど最初からその場にいなかったかのように、獣のような声を上げて男に抱かれるのだ。


 わたしと母が住んでいたのは木造の小さな平屋だった。家にやってくる男たちは毎回違って、同じ男が再度訪れることはまれだった。だからこそ、幼いわたしは安心してもいた。母がどれだけ男を取っ替え引っ替えしようとも、わたしが追い出されることはなかったからだ。

 それはある種の優越感でもあった。お母さんはあなたたちよりもわたしを愛しているのよ、と一夜限りで去って行く男たちに対して、優位に立ったような気でいたのだ。


 母が自分を捨てることはない。


 本気でそう信じていた。


 その幻想にひびが入ったのは、ある学生風の若い男が母と共に家に帰り着いた時だった。その時わたしは学校の宿題をしながら母の帰りを待っていた。今日の晩御飯は何だろうな、とそんなことを考えながら計算ドリルと格闘していた。


 鍵の開く音を聞いて玄関へ走った。


 大好きな母を出迎え、その腕に包まれる瞬間がたまらなく好きだったのだ。しかし、わたしが目にしたのは若い男に寄り添い、とても幸せそうに上気した母の顔だった。


「おかえりなさい」


 そう私が言うのを無視して、母と男は転がり込むようにして寝室へ入っていった。おそらく相当酔っていたのだろう。普段なら母だけがまず家に入り、わたしを奥の座敷に向かわせるのだ。

 男の方もわたしに気づいたようで一瞬身を強張らせたが、それ以上の反応はなかった。事前にわたしのことを母から聞いていたのかもしれない。

 わたしは「またか」と思いながらしぶしぶ奥の座敷に入った。母の手料理が食べられないことを残念に思いながら、戸棚からスナック菓子を取り出して食べた。やがて、荒い息遣いが壁越しに聞こえ始めた。


(早くいなくなれ)


 いつものようにそう念じながら布団に入ったのを今でも覚えている。しかし、わたしの願いが神に届くことはなく、その若い男は次の日もやって来た。その次の日も、そのまた次の日も……


 やがてその若い男は家に住み着くようになった。彼の存在はわたしにとって受け入れがたいものだった。というのも、男は昼過ぎに起きると、働きに出るでもなくだらだら過ごし、夕方になると飲みに出かける。そして深夜にべろべろに酔っぱらって帰ってくるというとんでもなく自堕落な人間だったのだ。加えて、男はとても酒癖が悪く、母やわたしをよく叩いた。


 男の目が届かないところで、男を追い出してくれるようにと、わたしは何度も母に頼んだ。しかし、母はいっこうにわたしの願いを聞き入れてはくれなかった。それどころか、男を疎ましく思うわたしのことを邪険に扱い始めたのだ。男に加勢してわたしを殴ることは決してなかったが、男がわたしを殴るのを見て見ぬふりをするようになったのだ。


 その時の母の視線は、何よりもわたしの心を傷つけた。まるで猫にいたぶられるどぶねずみを見る時のような、冷ややかな目。


 ああ、お母さんはわたしに飽きたんだな、とようやく理解させられた。


 たった一夜で母に飽きられた男たちを見下してきたわたしが、彼らと同じ立場に回ってしまったのだ。

 そして、男がやってきてから三か月ばかりが経った二〇〇四年の夏、男と母は家を出た切り、二度と帰ってくることはなかった。

 悲しくはなかった。母を奪われてしまった自分が情けなく、そして母を奪った男が憎たらしいだけだった。

 その後、わたしは母の弟である灰谷辰夫の許に引き取られた。母は実家から半ば勘当に近い扱いを受けていたらしく、わたしたち母子は親戚付き合いというものがほとんどなかった。すでに祖父母は他界しており、辰夫だけがわたしに残された唯一の肉親であった。


 わたしを引き取るにあたって、辰夫と正子は大いにもめたという。たとえ縁を切った姉の子であろうと、このままわたしを児童養護施設に預けるのは世間体が悪い、と体裁を気にする辰夫に対して、正子は血の繋がりのない子を育てる気はさらさらない、と譲らなかった。最終的には正子が折れ、家の手伝いをすることを条件に、わたしは高校を卒業するまで灰谷家に置いてもらえることになった。

 正子は宣言通りわたしに家事を手伝わせた。引き取られた当初は正子のすることを文字通り手伝うだけだったが、わたしが家事仕事を覚えるにつれて、だんだんと一人で家事をさせられるようになった。

 プライベートな時間などほとんど取れない。学校が終わっても遊びに行くことは許されず、ただ灰谷家の人間が楽をできるように朝から晩まで働くことがわたしのだった。


 暗く狭い自室で余り物の夕食を摂るたび、惨めな気持ちで圧し潰されそうになる。夜遅く、濁ったしまい湯に入るたび、心がすっかり冷えていく。生きていくことは辛いだけで、働くことで必死にそれをごまかしてきた。


 もし神様がいるのなら訊いてみたい。


 わたしはなんのために生まれてきたのだろうか。


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