第四十三章 泉の記憶
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泉知郎はベッドの上にいた。何をするでもなく、ぼうっと壁を見つめている。
ところどころ地肌が見えるくらい薄くなった白髪に、骨と皮だけのような顔。肌は浅黒く、ところどころにシミが散見できた。知子に彼の年を聞くと、もう八十五歳だという。
「お父さん、お父さん、ちょっといーい?」
子供に語りかけるような明るい声を作って知子は知郎に話しかけた。
「こっちのね、お兄さんとお姉さんたちが、お父さんとお話ししたいんだって」
「ああ?」
泉知郎は顔を歪めた。
「お話したいんだって」
「あんだって?」
どうやら耳も遠いらしい。
「お喋りしたいんだってっ」
ほとんど叫ぶような声で知子が言うと、泉はうんうんと唸って、
「誰だ、お前ら」
「警察のお兄さんと、お姉さんよ」
「ああ、そうだった。ケンちゃん久しぶりだなぁ」
本宮を見つめるその瞳には、少年のような輝きが宿っている。
「ケンちゃんって、俺のことですか?」
「久しぶりだなぁ、ケンちゃん。ミヨちゃんにはもう告白したのか」
「え、いやその」
「今度の祭りで俺ぁ山車に乗るからよ」
本宮は助けを求めるような視線を知子に送った。
「ごめんなさい。いつもこんな調子なの。ケンちゃんって言うのはたぶん、昔の友達のことだと思うんです。その人も警察官だったから。たまーにふらっと何かを思い出すことはあるんですけど、こんな調子だから会話にならなくて」
私はとてつもない絶望を感じていた。
これでは当時の話などとても聞けそうにない。残念ながら無駄足だったようだ。ほかの元使用人をあたりたいところだが、今現在所在が判明している元使用人は彼だけだった。
「いつ頃から認知症を患っておられるんですか?」
梢は知子に訊く。
「三年ほど前からです」
「ふーむ、八神家の使用人をお辞めになったのは八年前ですね?」
「ええ」
どうやら娘の方から話を聞くほかないようだ。しかし、果たして泉が娘に八年前の秘密を話しているだろうか。
そもそも泉が八年前に何が起きたのかを知っているという保証はない。事情を知らないまま暇を出されたかもしれないではないか。石田の方は日記のおかげで繋がりを見い出すことができたが……
「その年に、八神家で事件や事故などがあったという話を聞いていますか?」
「さあ。そんなことがあったんですか?」
「何かがあったはずなんです」
「そう言われましても、父は何も」
「お父さんはいつ頃から八神家で働いていたんですか?」
「私が生まれた頃にはもう使用人として働いていました。四十年近く働いていたのではないでしょうか。正確な年数は判りません。父だけが住み込みで働いていたので、会えるのは月に数回ある休みの日だけでしたね」
「では石田友起という役者が八年前、八神家で働いていたことは知っていますか?」
「いえ、石田友起? それって春に自殺した方ですよね?」
「はい」
「全く知りませんでした。ああ、そうなんですか。でもなんでまた……」
「彼が働き始めたのも八年前なんです。当時は役者業を休業していて、二〇〇九年の五月から十月までの五か月間だけ、彼はあの屋敷にいました。そのことについても、聞いていませんか?」
「やっぱり何も……聞いているのは、その年の春に八神の奥様が家を出て行った、ということだけです」
「離婚のことは聞いておられるわけですね」
「なんでも、奥様が不倫をしたとかで、もう旦那様は鬼のように怒り狂っていた、と父から聞かされました」
やはり彼女には何も知らされていないのだ。梢は苦虫を噛み潰したようなに顔を歪め、額に手を当てた。
「それじゃあ、百合、という名前の女性に心当たりはありますか?」
「百合?」
知子はまたしても首を傾げた。――その時だった。
「埋めた」
そんな声が、どこからか聞こえた。その場にいた全員が声の主に視線を送る。
「ど、どうしたの、お父さん」
知子はベッドに駆け寄り、心配そうに泉の顔を覗き込んだ。
「知ってるみたいね」
梢は呟く。
警察という言葉に反応して旧友を思い出したように、百合という名前が彼の記憶を刺激したと梢は考えているようだ。
「百合という女性を知っているのですか?」
ここぞとばかりに声を張り、梢は泉に問いかけた。彼は梢を見上げながら、
「ああ、お嬢様、お嬢様じゃないですか。あそこはダメですよ。埋めてしまいましたからね。旦那様に言われましたのでねぇ。これは誰にも喋ってはいけない秘密です。もちろんお嬢様にもね」
梢のことを誰かと勘違いしているらしい。お嬢様ということは林檎だろうか。
「何を埋めたんですか?」
「死体」
空気が凍り付いた。
「どこに、埋めたんですか?」
「埋めた。死体を壁の中に埋めたんだ。私はそんなことはしたくありません。ああ、お嬢様、ダメですよ。そこに入っちゃあ。危ないですからね」
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