第三十八章 八年前の残像
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その夜、私たちは富士宮市内のビジネスホテルにいた。
時刻は午後九時ちょうど。
私はベッドに横になりながらメモを見返す。
「事件があった夜、八神邸にいた人は全員アリバイがないね」
「時間が時間だからね」
梢は缶ビールを開けながらソファーにどっかと腰を下ろした。
「でもあの中に犯人がいるんだよね。太刀川まゆ、松戸大輔、高石旗子、八神明雄に八神空、そして八神林檎さん……たったの六人かぁ。明雄・空夫妻のお子さん二人は除外するとして」
「お姉ちゃんはやっぱり、動機は八年前のことだと思ってるの? まだどんな内容なのかも、そもそも八年も引きずるようなことが本当に起きたのかさえ判ってないのに」
「この事件に関係しているかはまだ断定できないけど、八年前に、八神家で絶対に表に出せないような事件が起きたのは間違いないね。八神明雄の態度の変化や、使用人の件がそれを示してるじゃない」
梢は確信を持って話しているようだが、現段階では憶測の域を出ない。私は話題を転じる。
「毒入り紅茶の問題についてはどう考えてるの? 八神勇心に殺意を抱いている二人の別々の人間がいて、それぞれ異なる方法で殺そうとした。一人は金槌による撲殺、もう一人がニコチン入りの毒紅茶による毒殺。結果的に毒殺の方は失敗に終わってしまった。それとも、一人の犯人が万が一のことに備えて二種類の殺害方法で犯行に挑んだのか。お姉ちゃんはどっちだと思う?」
「あんたはどっちだと思うの?」
「質問を質問で返さないでよ。そうね、一乗寺警部も言ってたけど、同じ日に二人の人間が全く別々の方法で同じ標的を狙うっていうのは、やっぱり考えられないかな」
「続けて」
梢は二本目の缶を開けた。
「紅茶がキッチンから八神勇心の部屋に運ばれるまで、毒を仕込むチャンスはなかった。また、紅茶を届けた時部屋に八神勇心以外の人間がいなかったという太刀川さんと松戸さんの証言から、紅茶に毒が盛られた場所は犯行現場である寝室だと断定できるわ。さらに昨晩被害者の寝室を訪れたと証言する人間はいなかったというじゃない。つまり、昨日の夜、寝室にいたのは犯人と被害者の二人だけ。よって、毒を盛った犯人は撲殺犯と同一人物である。はい、証明終了」
「……」
梢は芳しい反応をせず、黙したまま視線を虚空に泳がせていた。
「何? どこか間違ってる? このロジック」
「いや、実に優等生的な推理だ」
皮肉るような調子で梢は言った。
その瞳が映しているのは、おそらく八年前の八神家の幻影だ。そこまで執着するほど重要なものなのだろうか。
たしかに八神家には秘密がありそうだが、八年も前のことが今回の事件に関わっているとはどうしても考えられない。
梢は天井を仰ぎながら、
「でもさ、紅茶に毒を仕込むことに成功したのに、その紅茶は全く飲まれた形跡がなかった、というのもおかしい話じゃない。せっかく毒を盛ったのに、それをターゲットが飲む前に殴り殺すというのは、不自然じゃない?」
「それは……そうだけど。きっと勇心がなかなか毒入り紅茶を飲もうとしないから、犯人はしびれを切らしたのよ。それか、勇心は犯人がお茶に毒を仕込むところを見てしまったから、危険を感じて口をつけなかっただけかもしれない」
「勇心が自分からお茶に誘っておいて、手をつけないというのもおかしい」
「飲む前に殺されたんでしょ」
「それならなおさら毒を盛る必要性がないじゃないか。八神勇心は車いすで生活を送っていたんだ。女でも抵抗されずに彼を撲殺することができただろう。そんな彼を、どうして毒殺する必要があるのだろうか」
「お姉ちゃんさぁ、その言い方だとまるで殺害犯とニコチンを盛った犯人は別にいるって言いたいみたいね」
「そうじゃなきゃ辻褄が合わないのよ」
「じゃあどのタイミングで誰が仕込んだと思うのよ。紅茶は現場に運ばれるまで二人の監視がいたし、運ばれた後は被害者の手元にあったんだよ? 事件が起きる前に第三者が現場に赴いて、こっそり紅茶に毒を仕込んだとでも言うつもり? それこそありえないじゃない。お茶会に勇心が招いたのは犯人だったんだから、無関係の人間を部屋に入れるはずがないし、毒を盛ったことに勇心が気づかないはずもないわ」
「じゃあそういうことにしておくわ」
「じゃあって何よ。お姉ちゃんは何か考えがあるの?」
「今の段階じゃ何とも言えない」
「そういえば、あの娘、林檎さん。すっごく綺麗だったね。CGみたいだった」
口にしてから「さん」付けで読んでいたことに気づいた。彼女の美貌は、同性の私から見ても圧倒的で、無意識のうちに敬意を抱いてしまうほどだった。口にこそ出さないが、私は今まで姉こそが最も美しい女性だと信じていた。
身内贔屓を抜きにしても梢の外見はこの世のどんな女性より美しく、可憐だった。まさかその姉より美しい女性に会うなんて(しかも殺人現場で)、思いもよらなかった。しかも私のファンだというではないか。
「今度会うときはサインあげよっと」
十時を回った頃、梢の携帯が軽快なメロディを奏でた。
「一乗寺警部だ。捜査会議が終わったみたいだね」
この事件の捜査本部は富士宮警察署に置かれた。梢は携帯電話を耳に当てて、
「はい、武光姉です……ええ、はい。本当ですか?」
もう片方の手で近くにあったペンとメモ用紙を引き寄せると、彼女は一心不乱に何かを書き留め始めた。
私はベッドからその様子を眺めていた。梢の表情には歓喜の色が見受けられた。何かいい発見があったのだろうか。
「そうですか、ええ、判りました。では明日はそっちの方に足を運びます。ありがとうございます。はい、失礼しまーす」
「何だって?」
私が尋ねると、梢はにんまりと口角を上げた。手ごたえのある情報を提供してもらったようだ。
「いくつか新鮮な情報を貰ったよ」
「何?」
「まず紅茶に仕込んだ煙草の煮汁を保管しておいたと思われる空の小瓶が現場の窓の真下の草むらから見つかった」
犯行現場である寝室には中庭に面した窓があった。聞くと、まさしくその窓の下だという。その手前にティーテーブルがあり、毒入り紅茶はそこに残されていた。
「残念ながら指紋は取れなかったそうだ」
「ちょっと、待った。窓の下ってことは、犯人は毒を紅茶に入れた後、それを保管してた小瓶を窓から捨てたってこと? 勇心の目の前で? ありえないわ」
「落ち着けって。事後に中庭に行って捨てたのかもしれない。それが現場の真下だったのは偶然というだけだったのかも……あるいは」
「あるいは?」
「いやそれより楓、あんた、石田友起って知ってるかい?」
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