第十章 運命の出会い
1
さっきとはまた違うメイドに案内されて、無事部屋に帰り着いた。車の中でぐっすり寝たせいか、体はすこぶる元気だった。しかし、何もやることがない。普段なら食後は皿洗いをして明日の朝食の仕込みに取り掛かるのだが。
「よいしょ」
ソファーに座ってみる。室内は空調が効いていて、とても気持ちがいい。ただ、やることがない。
テレビでも観ようか。
リモコンに手を伸ばし、いくつかチャンネルを回す。が、どれもあまり面白いとは思えなかった。全国のニュース番組に変えてみる。もしや、と身構えながらしばらく観ていたが、灰谷家の事件が報道されることはなかった。もう正子は家に帰り着いているだろう。
今、あの家はどうなっているのか。
(ダメダメ)
もうあの家の事は考えないと決めたではないか。そしてもう一つ、わたしは心に決めたことがある。
これからわたしは自分が幸せになるためだけに生きていく。
心無い人間に、これ以上何かを奪われてたまるか。
今まで不幸だった分、わたしには幸せになる権利がある。
この世は弱肉強食だ。
わたしは身をもってそれを学んだ。弱者の肉を食らい、強者が栄える。それが幸せに繋がるのであれば、わたしは他者を蹴落とすことさえいとわない。
覚悟を決めろ、百合。
わたしは幸せになりたいんだ。
(絶対に、幸せになってやる。どんなことをしてでも、絶対に)
テレビの音が煩わしく感じたので、電源を切り、深くソファーに身を預けた。部屋は静寂に包まれており、とても落ち着く。こんな環境で読書ができたら最高だろう。何か本はないだろうか。
室内を見回してみるも、本の類は全くなかった。
あ、と思い出す。
寝室に本棚があったはずだ。たしか戸口の両脇に大きな本棚があって、ぎっしりと本が並んでいた。ジャンルまでは確認していないが、ないよりはましだ。そう思い立ち、寝室へ。
――とそこで、わたしの目は奇妙な物を捉えた。ベッドの上のシーツが、小さな山を形作っているのだ。まるで大型の犬か猫が潜り込んでいるかのような、わざとらしい膨らみ……
夕食に向かう前はこんなものはなかった。わたしがベッドに歩み寄ると、その山はちょこまかと動き出した。思わずびくっとする。やはり何かが潜んでいるようだ。シーツの端を掴み、思い切って引っ張る――
「ばあ」
「きゃっ」
小さな女の子が飛び出してきた。わたしは完全に意表を突かれ、尻もちをついてしまった。
「えっ、な、誰?」
「あははははは」
わたしの反応に満足したのか、少女はこぼれるような笑顔を見せた。
「あなた、だ、誰?」
「えへへ」
くりくりとした大きな瞳に丸いほっぺた。長い髪をおさげにしているのが愛らしい。アンパンマンがプリントされた桃色のパジャマを着ているが、サイズが大きいらしく袖の辺りが余ってしまっている。
「ねえ、びっくりした? ねぇねぇ」
「うん、まあね」
無邪気な問いかけに応じながら、わたしは立ち上がる。何がそんなに面白いのか、少女はきゃっきゃきゃっきゃと顔をほころばせている。
「あのねぇ、お姉ちゃんがいない間に隠れたの。それで、ここでずっと待ってたの」
「あなたはもしかして……林檎ちゃん?」
もしかして、と口にしたものの、内心確信を持って訊いた。
「すごーい、なんで判ったの? はい、八神林檎です。七歳です」
右手をチョキ、左手をパーにして七という数字を示すと、天使のような笑顔を作って彼女は言った。
彼女が勇心と夏江の娘、八神林檎か。
夏江は寝かしつけたと言っていたが、狸寝入りだったようだ。なかなかしたたかな子供である。
「えへへ、百合お姉ちゃん」
「わたしの名前、知ってるの?」
「うん。パパが教えてくれたの」
「そう」
林檎はベッドから飛び降りると、わたしの足に抱きついた。
「……」
黒い衝動がわたしの心をゆさぶる。
見ろ、この安心しきった顔を。
同じ父を持つのに、わたしと林檎はまるきり異なる運命を歩んできた。
きっと林檎は、親からたくさんの愛情を受けて育ってきたのだろう。こんな大きなお屋敷で、大勢の使用人に囲まれて、不自由のない生活を送ってきたに違いない。
「百合お姉ちゃん?」
ああ、これが妬みか。どす黒い感情がわたしを支配しようとする。視線を落とすと、林檎は上目遣いでわたしを見上げていた。そのこの上なく純真な表情には、わたしの中に芽生えた邪悪をかき消す魔力があった。
そしてわたしはとてつもない羞恥心に襲われる。林檎は何も知らないのだ。そんな、小さな少女に暗い感情を抱くなんて、なんてわたしはちっぽけな存在なのか。
もうあの家のことは終わったのだ。終わったことをくよくよ嘆いていても仕方がないではないか。
「どうしたの?」
林檎は心配そうに声を震わせる。
「なんでもないよ。わたしのことはもう知ってるのよね?」
「うん、パパとママに教えてもらった」
「そう、これからよろしくね、林檎ちゃん」
「うんー」
しゃがみ込んで視線を合わせると、林檎ははちきれんばかりの笑顔を見せてくれた。
これが、わたしが生涯をかけて愛した少女、八神林檎との出会いだった。
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