第二十三章 わたしは……
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林檎の収穫の日の夜。
いつものように林檎の部屋を訪れると、彼女はもうベッドの中で眠ってしまっていた。今日は朝からハイテンションの連続で、疲れてしまったのだろう。かけ布団が乱れていたので、直してやる。
愛くるしい寝顔を眺めていると、心がほかほかと温まる。思えば、彼女とも一年近い付き合いだ。ああ、もうこの家に来て一年が経とうとしてるのか。
とても長い一年だったな。
遠い過去を回想するように、勇心と出会ってから今日までの日々を思い出す。数えきれないくらいの思い出の中には、必ず林檎の姿があった。彼女の笑顔が、傷つき、ささくれだったわたしの心、人間としての心というものを癒してくれた。
この屋敷に来た当初、わたしは幸せという概念を間違って解釈していた。
それまでの人生が奪われ続けるだけの、弱者としての人生であったがために、わたしは勝ち上がり、成り上がることこそ本当の幸せだと信じていた。今になって思い返してみれば、なんて幼稚でくだらないことを考えていたのか、と顔から火が出るほど恥ずかしくなる。
今、わたしは幸せである。
林檎を見守り、彼女の姉として生きている今が、幸せだ。彼女のためならなんだってしてやれる。心からそう思う。
幸せとは、こんな簡単に手に入れることができるのである。愛する人がそばにいれば、何をしていても楽しい。だからこそ、この幸せを奪う林檎の病魔が、憎たらしくてたまらない。代わってやれたら、と何回思ったことだろう。
まだ眠るような時間ではないが、林檎が眠ってしまってはやることがないし、まだ眠たくない。読みかけの文庫本でも読もうか、と思い立ち、自室へ向かった。
「
小柄な老人の後ろ姿が見えた。すぐに城戸だと判った。声をかける間もなく、彼はそそくさと北側の一番奥の部屋に消えてしまった。わたしには気づかなかったようである。
それにしても、こんな時間にやってくるとは、いったい何の用だろうか。普段は昼間からやって来て、まず林檎の様子を見がてら簡単な問診をしていた。
「怪しい」
今日のように夜遅くに尋ねてくることもなったわけではないが、先ほどの彼の様子はいつもと違う何かを感じた。彼が入っていったのは勇心の書斎であるから、勇心に用事があるということは自明だが。
はしたないけれど、好奇心がむくむくと膨らんだ。同時に、よからぬ何かを胸騒ぎとして感じてもいた。とつとつと廊下を歩き、書斎の前で立ち止まる。
この中には一度だけ入ったことがある。二十畳ほどの広い洋間で、ソファーセットが設えてあり、応接室のような造りになっている。
手前がカーテンで仕切られているので、ゆっくり扉を開ければ、バレることはない。それに悪さをするわけでもないから、見つかったとしても問題なんてない。
それにこれはチャンスだ。
勇心と城戸の両名に、林檎のこれからについて訴えかける絶好の機会である。過去のヤガミグループのスキャンダルを誤解されたために、海外で移植手術が受けられないという現状に対して、わたしの思うところをぶつけてやる。
巡って来るかも判らない国内の移植手術より、確実に手術を受けられる病院を海外で探すべきだ。
海外の医師だって、話せばきっと判ってくれる。
林檎の幸せを守ることこそ、わたしの存在理由だ。
そっとノブに手を伸ばし、音をたてないようにゆっくり開ける。扉と壁の間に生まれた隙間に体を滑り込ませ、割れ物を扱うように扉を閉める。カーテンで仕切られている四畳ほどのスペースには、誰もいなかった。足音を忍ばせてカーテンの端まで歩く。
「今日はどうしたんだ? こんな遅くに」
勇心の声だ。
「いやなぁに、急にお前と話したくなってな」
城戸はおどけるように言った。
「ジジイのくせに気色悪いことを言うんじゃあない。鳥肌が立ってきたわい」
「いいじゃないか。私とお前との仲だ」
なかなか彼らの前に出て行くタイミングが掴めない。時おり、氷がグラスにぶつかるような音がからからと聞こえた。酒を飲み交わしながらの会話のようだ。
「いやしかし、なかなか酷な決断をしたな」
雑談が一段落つくと、城戸は声を落とした。それが合図になったかのように、場の空気が張り詰めたような気がした。
「ふん、元々そのつもりだったんだ。今になって心変わりはしないさ」
これは勇心の声。声の調子に後ろめたさを感じた。わたしは息をひそめ、耳をそばだてる。
「情が移ってきたんじゃないか?」
「まさか。たった一年ぽっちで?」
勇心は鼻を鳴らした。
「それにしても、本当にひどい話だ。いくら林檎ちゃんのためとはいえ」
林檎? 林檎について話し合っているのか?
「愛する娘のためだ。仕方あるまい」
「ほう、じゃあ、百合ちゃんは愛していないと? 自分の子だろうに、お前、そりゃあないだろう」
わたしの名前が飛び出した。瞬く間に疑問で頭がいっぱいになる。彼らは一体何の話をしているのだろうか。
「ふっ、愛しているさ。俺の血が入っている以上、愛さないわけにはいかん。しかしな、物事には優先順位というものがあるのだからしょうがないだろうに」
「全く、昔からあくどいことばかり考えつくやつだよ、お前は」
「全ては林檎のためだ。あの子を確実に救うには、もうこれしか方法がない」
「無論私も協力するがね、しかし本当に可哀そうだ。林檎ちゃんの心臓のスペアとして連れて来られたなんてなぁ」
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