第五十二章 さようなら
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「失礼を承知でお訊ねしますが、石田さんはあなたが自殺に見せかけて殺したわけではないのですね?」
梢が肝心なところを確認する。
「はい。わたしが殺めたのは、八神勇心だけです。本当は林檎の死に関わった人間全員をこの手で殺してやりたかったけれど、そこまでする気力も体力も、もうありません。石田は林檎の死に少なからず関与したことで、ひどい罪悪感に苦しめられていたそうです。結果的に自ら命を絶ってしまいましたけれど、彼のように打たれ弱い人間にとってはそれでよかったのでしょう」
「彼は、死の直前にあなたへの懺悔を書き遺していましたよ」
「石田は可哀そうな男です。今でも彼を許す気はないけれど、真実を告白してくれたことへの感謝はあります」
「リークしたのは石田でしたか」
「これらの事実を知ったのは、石田の自殺が報道された二日後でした。彼は死の直前に自分が知る林檎の死に関する全ての事情を手紙に書き記し、わたしに送ったのです。告発書ですね。ああ、その手紙も持参してきました」
百合は手提げの黒いバッグから便箋を取り出し、テーブルの真ん中に置いた。宛名を見ると、八神林檎とある。差出人の方には名前はなかった。梢はその便箋を一瞥すると、ひときわ落ち着いた声で言った。
「まだ判らないことがあります。今のお話が全て真実だとすると、あの地下室に埋められていた遺体はあなたではなかったということになる。あの遺体は死後七、八年以上は経過していると思われます。林檎ちゃんの事件と並行して、八年前に八神家では別の殺人事件が起きたのでしょうか?」
百合はか細い指を絡めながら、
「あの死体は、おそらく夏江さんでしょう」
梢はその答えをある程度予想していたようで、大きく頷きを返した。
「勇心と離婚したという八神夏江ですか?」
「はい。死体が着ていたワンピースに見覚えがありました。あれは夏江さんのものです。夏江さんが屋敷から出て行く前夜、勇心と夏江さんは夜通し喧嘩をしていました。きっとその際怒りに任せて衝動的に殺してしまったのでしょう。そしてそれを隠蔽するために地下室に遺体を隠し、壁で埋めてしまったと思われます。今になって思い返せば、翌日の使用人たちは憔悴しきった様子でした。赤く目を腫らしている方もいて、勇心は彼らに遺体の遺棄を手伝わせたのでしょう。これでわたしの知る限りの真実はお話ししました。何かご質問はありますか?」
「凶器の金槌はなぜ現場に残して行ったのでしょう」
「残しても問題ないと判断したからです。指紋には細心の注意を払いましたし、結果的にあれからわたしに辿り着くことはできなかったでしょう?」
「なるほど、ではなぜ勇心さんがあなたを殺そうとしたのか、その動機について心当たりはありますか?」
「それは……」
百合は一瞬言い淀んで、
「わたしもまた、彼の本当の子ではなかったからです」
「あなたも八神勇心の実子ではなかった?」
「はい。彼の死の間際、わたしが林檎の殺害について問い質すと、勇心は鬼のような形相になってそれを認め、過去の罪を告白しました。その内容は石田の告発と矛盾する箇所はありませんでした。そして最期に、この世の全てを恨むような恐ろしい声色で、『俺は二人の女に裏切られた。林檎もお前も、裏切りの象徴だ』と言い残し、彼は息を引き取ったのです」
「裏切りの象徴……」
「本当はすぐに現場を立ち去るつもりでした。でも、勇心の言い残した言葉がどうしても気になり、寝室を荒らさない程度に探索しました。手袋を嵌めていたので、凶器にも現場にも、不自然な指紋は残っていないはずです。そうして、三十分くらい探したところで、ある物を発見しました」
百合は再びバッグに手を入れ、その「ある物」を取り出した。それは三つ折りにされた紙だった。
丁寧に紙を開くと、百合は表を上にしてテーブルの上に置いた。目を落とすと、細かい文字の並びの中にDNAという表記を発見できた。
「わたしと勇心のDNA親子鑑定の結果通知書です」
乾いた声で百合はさらりと言った。梢は身を乗り出してその悪魔の通知をまじまじと見つめた。
「生物学上の親子である可能性は……0パーセントとありますね。鑑定の日付は今年の三月十八日。石田さんが自殺する直前ですね」
「勇心はひそかにわたしとのDNA鑑定を行っていました。どうして今さらそんなことをしたのか、彼の胸中は今となってはもう判りません。これは勝手な想像ですが、死を間近に感じる年齢に差しかかったことで、自分が犯した罪が果たして正しいものだったのか、確認したかったのかもしれません。林檎を殺し、わたしの方を八神家の後継者として選んだその選択が正しかったのかどうかを……」
そうして八神勇心は百合の母親にも裏切られ、百合が種違いの子であるという驚愕の事実を知ることになったわけか。
その時の彼の激情はちょっと想像できない。
林檎の殺害を決意した経緯を考えると、百合に対しても同じような殺意を抱いても不思議ではない。しかし、すでに勇心は車いすによる不自由な生活を送っており、衝動的に殺意を百合にぶつけることは不可能だった。だからこそ、彼は煙草の煮汁を使った毒殺を考案し、それを実行に移したのだ。あれこそが、彼にできる限界だった……
それにしても、一度の人生で二度も女に裏切られるとは、なんて哀れな男なのだろうか。
百合の場合は母親が愛人だったという話だから、単に百合の母親がしたたかな悪女だったと考えることもできるけれど。
「わたしの心臓を受け継いで、林檎は幸せな人生を歩むはずだった。美味しいものをたくさん食べて、たくさん遊んで、たくさん勉強して、小学校にも通えるようになって、友達もできて。いつかは恋をして、子供だってできて……幸せな人生を歩むはずだったんです。それなのに、あの男は自分の小さな自尊心に任せてあの子の人生を奪ってしまった。……わたしの方からも、訊ねたいことがあるのです」
百合は真剣なまなざしを梢に送る。
「どうして、わたしが勇心を殺したという真相を見抜いていながら、警察に伝えなかったのですか?」
私と梢は互いに目を見合わせた。一瞬、ぎこちない空気が場に流れる。
「あたしたちは八神林檎が事件の犯人だと思っていたのよ。つまり、八年前に死んだのは灰谷百合の方だって思い込んでいたわけね。百合という少女の尊い犠牲によって生きながらえた八神林檎の両手に冷たい手錠をかけることが、本当に正しいことなのか。もちろん殺人は憎むべき犯罪だし、人としての道を外れた者には相応の罰が与えられるべきよ。でも、今回の場合、いったい誰が人としての道を外したのか、あたしには判らなかった。楓は灰谷百合が繋いだ命をなんとかして守ってあげたいっていう主張を断固として譲らなかったし、推理を裏付ける物証もないしね。さ、この話はこれでおしまい」
そう言って、梢は席を立った。久しぶりに友人として再会した私たちに気を遣ったのだろう。自分の分のコップを手に持つと、彼女は戸口に消えた。
窓から注がれる陽射しがまぶしい。
「百合、匂いを感じることができなかったんだね」
「うん。気づいたのは、だいぶ成長してからだったけど」
「それじゃあ悪いことしたな。ごめんね、ほら、憶えてる? 最初に百合に薦めた本」
「ああ、『11枚のとらんぷ』。いいのよ、面白かったのは本当だし。楓さんのおかげで推理小説に出会えたんだから。それより、楓さんが推理作家になった時は、本当にびっくりしたよ」
「自分でもまさかなれるとは思ってなかったけど」
「お世辞じゃなく、全部面白いよ」
「まだまだ駆け出しよ」
「でもあのトリックはちょっと強引だったかな。二作目の『東京ドーム殺人事件』のメイントリック」
「ああ、野球の試合中に起きた事件をアイドルのライブ中に起きた事件に見せかける叙述トリックね。まあ、二作目だからちょっと奇をてらったのよ」
「てらいすぎ」
「でもあれは大変だったんだよ」
「あれに懲りたのか、後の作品は叙述トリックを一回も使ってないよね」
「神経使うからね」
「でも本当に楓さんの作品は全部面白いわ」
「それならいいけど。あ、そうだ、八神邸での生活はどうだった? ひどいことされなかった?」
「……幸せだったよ。辛いことばっかりだった人生の中で、初めて生きていてよかったって思えた」
「林檎ちゃんのおかげ?」
「うん」
私たちは、身を寄せ合って語り合った。空白の八年の思い出を埋めるように。
日がすっかり暮れてから、百合は腰を上げた。泊まっていけばいい、と私が言うと、彼女は無言で首を振った。玄関口に立ち、友人を見送る。この時も、梢は空気を呼んだのか出てこなかった。
「静岡を去るって、どこかに行くあてはあるの?」
「帰るべき場所へ帰るだけだよ」
「百合」
「なあに?」
「私は、百合の味方だから。ちょっとでも困ったり、辛くなったらいつでも私を頼っていいからね」
「……ありがと」
「じゃあね」
「うん、あの時はちゃんと言えなかったから」
「へ?」
「お別れの言葉。それじゃあ、楓さん、さようなら」
「さようなら」
茜色に染まった空の下を、百合は一人で歩いて行く。その背中を眺めながら、私は別れ際に彼女が見せた涙の意味について考えていた。
吹く風は生暖かく、夜の幕が下りるまでもう少しかかりそうだ。夏はまだ始まったばかりだけれど、私の中で一つの夏が終わってしまったような、そんなやるせない寂しさばかりが心を満たしている。
翌日、百合が死んだという報せが届いた。
多量の睡眠薬を飲んでの自殺だったという。八神邸の中庭の奥の林檎の木の下で、百合は安らかな顔をして死んでいたそうだ。
八神林檎との思い出を育んだその場所で、百合は旅立ったのだ。
彼女は帰れただろうか。
林檎の待っている、天国へ。
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