第二十八章 武光姉妹、登場!
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臭い。
まとわりついてくる紫煙をかき分けながら、私は足の踏み場もないほど散らかった床をずんずん大股で歩き、部屋の片隅にある空気清浄機のスイッチを入れた。
「まったく、ありえないって」
北向きの窓を全開にすると、夏の活気をはらんださわやかな空気が舞い込んでくる。そのまま窓枠に手をかけ、頭を外に出した。
「ふう」
肺の中の汚い空気を吐き出し、新鮮な空気を取り込む。
初夏の陽射しが眼下の家々の屋根を照り付けている。遠い彼方には緑色にぼやけた山稜が連なり、青い空を白い雲が漂っていた。
右手を見やると、ゆるやかに流れる川が望めた。
ひとしきり綺麗な空気を堪能すると、よどんだ室内でいまだに煙を吐き続ける馬鹿を睨みつけた。
「ちょっとお姉ちゃん、煙草を吸うときは空気清浄機を動かして、窓も開けてって、いつも言ってるでしょ。壁とかに臭いがついちゃうじゃない」
素知らぬ顔で毒ガスを吐きながら、私の五歳年上の姉――武光
その手前に、空になった缶チューハイが三本も並んでいる。そのうちの一つは、飲み口の辺りに煙草の灰が付着していた。
「……もしかして」
私はその灰で汚れた缶を取り上げ、鼻を近づけた。瞬間、すっぱいような苦いような、胸が悪くなる独特の臭気がした。
「うぇ……もう、お姉ちゃん、何回言ったら判るのよ。空き缶を灰皿代わりにしないでっていつも言ってるでしょ。間違って飲んだら、死んじゃうじゃないの。それと、吸い殻はちゃんと片づけてよ。崩れて火事になったらどうするつもりなのよ」
「いいじゃないの。別に楓が飲むわけじゃあないんだから。それに、このマンションはちゃんとスプリンクラーがあるから大丈夫」
「そういうことじゃないでしょ」
「おー、怖い怖い」
新しい煙草に火を点けながら、梢はのっそりと立ち上がった。
栗色に染めた長い髪、女にしてはやけに高い身長、すらっとした細長い手足。大きなお尻に引き締まったくびれ。顔立ちも整っていて、外見だけ見ればファッションモデルのようだ。
しかし、その実態はご覧のとおり、酒とヤニをこよなく愛するおっさん系女子である。
「おおう、いい天気だ」
梢は窓辺に寄り掛かり、煙草を燻らせ始めた。そのあまりにも自由過ぎる態度に、私は怒る気力もなくなってしまった。吸い殻を崩さないように灰皿を持ち上げ、片づけることにする。
私たち武光姉妹は、ここ静岡県
両親は五年前に交通事故で他界した。
このマンションは私が静岡県の短大に通う際に契約したもので、後から姉が転がり込んできたのだ。
さっきはきつい言い方をしたが、梢との姉妹仲は良好である。ただ、嗜好が全く合わない。
例えば、私は煙草が大嫌いである。何よりあの臭いが嫌いだ。
あんな臭いものをよく体内に取り込めるものだ。しかし姉、梢はあのように重度の煙草中毒者で、毎日三箱は空にしている。その上、酒やコーヒーまで飲むのだから、彼女の口はとんでもない悪臭を放つ生物兵器と化しているに違いない。
食の好みも、私たちはまるきり異なっている。
まず、梢は肉を食べない。豚、牛、鳥……種類と部位を問わず、あらゆる肉の類を口にしない。信念や健康意識に基づいた菜食主義というわけではないらしく、ただ単に味と触感が苦手なのだそうだ。
その肉嫌いは徹底していて、肉のかけらや脂身がほんの少し料理に混じっているだけで箸を置いてしまう。一方、私はお肉大好きである。週四のペースで焼肉屋に足を運び、夜はビーフジャーキーをしゃぶりながら酒を飲むのが日課になっているほどだ。
男の趣味に関しても、私たちはそりが合わない。私が好きなのは短髪で、男らしい筋肉質なイケメンなのだが、梢は小柄で、女にも見えるくらいなよなよとした年下のもやし男子がタイプだという。意味が判らない。
他にも、私はたけのこ派だが梢はきのこ派だったり、私が猫好きなのに対し、梢は大の犬好きだったりと、こんなふうに性格も嗜好もてんでバラバラなのだ。そんな私たちだが、一つだけ共通する趣味がある。
それは推理小説である。
梢の部屋の床を足の踏み場もないほど埋め尽くしているのは、本棚に収まり切らなかった推理小説なのだ。
子供の頃の梢はとてもおとなしい内気な子で、外に出て遊ぶことはほとんどなかった。友達もおらず、私だけしか遊び相手がいなかったようだ。
一方私は今思い出してもドン引きするほどのおてんば娘で、学校から帰ったらランドセルを置いてすぐに友達と遊びに出かけていた。
姉が推理小説の虜になったのは、私が小学校に上がって、姉と遊ぶ時間が少なくなった時期だったという。
私という遊び相手がいない間、姉は父の部屋にある小説を読んだり、ビデオを見たりしながら私の帰りを待っていた。その時読んだ「アクロイド殺し」に、姉はとんでもない衝撃を受けたそうだ。曰く「世界がひっくり返るような感覚」だったらしい。
私的にはそれは言い過ぎだと思うのだが、子供時分の姉にとっては、そう感じるのも仕方のないことだろう。
それ以降、姉はむさぼるようにして様々な推理小説を読み漁り、その狭い底なし沼にどっぷりと浸かってしまった。
私が帰っても、こちらから話しかけるまで気づかないくらい本に集中していることもあった。その熱中ぶりはまさに異常で、なんだか姉を取られたような気がした。恥ずかしい話だが、姉の読んでいる本に嫉妬心を覚えたくらいだ。
小学校五年生の時、私はそんなに面白い本なのだろうか、と推理小説を一冊借りて読んでみた。
これが失敗だった。
今にして思えば、あれが私の人生のターニングポイントだったに違いない。あの時、そんな気を起こさなければ、私はもっと違う人生を歩んでいたかもしれないのに。
結果として、私は見事に推理小説にハマってしまった。数々の伏線が論理によって繋ぎ合わされ、謎がほどけていく瞬間、すさまじいカタルシスが私を興奮の絶頂に導いた。まるで脳内でビックバンが起きて、一つの宇宙が誕生したかのようだった。
その感動を私は誰かに伝えたくてたまらなかった。
しかしながら、私の周りには姉以外に推理小説マニアはほとんどいなかった。学校の友達は『名探偵コナン』くらいしか話すことができず(年齢的にも仕方ないが)、父もそれほど詳しくはないようだった。
推理小説について語る相手は姉しかいないので、私たちは互いが作品を読み終わるたびに、トリックの出来はどうだったか、とかロジックに穴はないか、と偉そうな上から目線で語り合った。それはそれで楽しかったし、姉との絆もいっそう深まったような気がした。
だが、私は推理小説について語れる同学年の友達が欲しかった。自分が感銘を受けた推理小説というものを、誰かに知って欲しかった。
学校の友人たちに薦めたこともあるが、読書よりも体を動かすことが好きな子たちばかりだったので、なかなか普及活動は進まなかった。
中学二年の時、ようやく推理小説を理解してくれる初めての友達ができた。
その時の私の喜びはまさに天にも昇る気持ちで、毎日が楽しくて仕方がなかった。
が、それも長くは続かなかった。
仲良くなって一か月と経たないうちに、その友達は転校してしまったのだ。
推理小説は私たちの人生設計にも影響を与えた。
私は高校生になってから、自分でも推理小説を書きたくなり、バイトで貯めたお小遣いでパソコンとワープロソフトを購入して本格的に執筆活動を始めた。そして短大時代に推理小説の懸賞で入選し、私は晴れて推理作家としてデビューすることができた。
推理作家。
それが私の職業である。推理小説が好きだから推理作家を目指す、というのは、よくあるパターンだと思うし、それこそが、推理小説というものが「職業選択の自由」を持つ若者に与える唯一の影響なのだとも思う。
しかし、梢は違った。
姉はあろうことか探偵になってしまった。
推理小説を愛したがゆえに推理作家を目指すというのは理解できる。だが推理小説を読んで探偵に憧れ、よし、自分も探偵を目指そう、と志す人種を私はいまだかつて見たことがない。
「フィクションと現実をごっちゃにしないで、さっさと仕事探しなさい」と本当なら大声で怒鳴りたいのだが、それはできない。
なぜなら、梢は小説の中の名探偵のように数多くの事件をその推理で解決してしまい、警察からも時おり捜査協力の依頼が舞い込むほど信頼を得てしまっているのだ。
今、このマンションの一室は、推理作家の仕事場兼探偵事務所となっている。本物の名探偵の横で、推理作家が必死に頭を絞って架空の事件をでっちあげているのだ。
ここだけの話だが、実は私も取材の名目で姉の仕事に同行することがしばしばある。本来なら部外者が捜査現場に足を踏み入れるなど言語道断なのだが、姉の威光がそれを可能にしている。
どうしてもネタが思い浮かばない時、姉の解決した事件を参考にさせてもらうこともまあ、なくもない。
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