第三十四章 汗臭いぞ
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続いて呼ばれたのは、八神勇心の実弟の息子――つまり甥である八神
富士宮への異動に伴い、妻と二人の子供を連れて、実家である八神邸に戻ってきたそうだ。
ソファーにどっかと腰を下ろし、大げさな動きで足を組むと、艶のないぱさついた髪に手櫛を入れながら、明雄は鷲のように鋭い眼光を梢に向けた。
「何度同じこと訊かれても、同じことを証言するまでですよ。私は今回の事件には無関係だ。私には社会的立場も守るべき家族もある。そんな私が、それらを失うリスクを冒してまで伯父を殺す必要なんてない。私は全くの無実ですよ」
年齢は四十代後半といったところだろうか。頬はたるみ、くっきりとしたほうれい線が刻まれている。
物腰は穏やかではないが、それは仕方のないことだろう。伯父が突然殺され、自分や妻子にも疑惑の目が向けられているとなれば、相当なプレッシャーとなるはずである。もっともそれは、彼が犯人でなければ、という前提があってこその話だが。
「手っ取り早く済ませてくれよ。それと、妻や子供にこれ以上負担をかけたくないから、彼らの分も私が代わりに答えよう」
その発言を受け、一乗寺が慌てて口を開く。
「お子さんはともかく、奥様の方はお話を聞かせていただかなくては困ります」
「なんだと? さっき散々協力しただろうが。いいか、私たちは無関係なんだ。何度言わせれば判る。だいたい誰なんだ、この小娘どもは。探偵だか何だか知らんが、殺人現場で生足出すような女に頼って捜査が進展するのか?」
軽蔑したように梢を一瞥すると、明雄は鼻を鳴らしてふんぞり返った。私はむっとして言い返そうと身を乗り出したが、梢が目でそれを制した。
「お気持ちは判ります。しかし事件解決のためには関係者全員の協力が必要不可欠なのです。協力を渋ったがために、奥様が不利益を被るというのは、そちらの望むところではないでしょう?」
「それは脅しか?」
「いえ、ただ、奥様の正確な証言が得られなかったことで、奥様の立場が悪くなる結論が出る、ということもあり得るわけです。そういう事故を未然に防ぐためにも、そして事件を完全な形で解決するためにも、協力していただけたら幸いです」
「ふん、勝手にしろ」
険悪な空気が残る中、明雄の事情聴取が始まった。
「昨日の夜のことを質問します。昨日の午後十時から午前一時までのあなたの行動を教えてください」
「昨日は定例の会議があって、十時過ぎまで工場に拘束された。その後、近くのファミレスで夕食を摂ってからここに帰ってきた。たしか十一時くらいだったか」
「ヤガミグループの富士宮工場ですね。ここからどれくらいかかりますか?」
「そんなにかからんよ。片道二十分くらいだ」
「続けてください」
「それから風呂に入って、寝室に戻った。もう妻は眠っていたよ。酒を飲みながら読書をして、二時前にベッドに入った」
「その間奥様が起きるということは?」
明雄はぶんぶんとかぶりを振る。
「ないよ。あいつは寝つきが悪いもんだから、毎晩睡眠薬を飲んでるんだ。ああ、正確には睡眠導入剤だな。医者に処方してもらうものじゃなくて、普通にドラッグストアとかで売ってるタイプのものだ。だから、一度眠ったら夜中に起き出すことはほとんどない。昨日の夜もテーブルの上に睡眠導入剤のゴミが残ってたよ」
暗に妻の無実を訴えているようにも聞こえた。最初は嫌な男だと思っていたが、家族を守るために必死なのだな、と私は考えを改めた。
「あなたの部屋はここから近いですか?」
「すぐ手前だよ」
「では昨晩何か不審な物音を聞いたりとかは?」
「ないね。こう見えても私は耳がいいんだ。ちなみに絶対音感を持ってる」
「はぁ、あまりそれは関係ないような気がしますが」
「とにかく、昨日は特に何もない、いつもと同じ夜だった。まさか伯父があんなことになるとは、思ってもみなかったよ」
妻が眠ってしまっていたとなると、八神明雄もまた、犯行時刻の完全なアリバイがあるとはいえない。
*
「では八神さんに殺意を抱いている人間について、心当たりはありますか?」
「さあね」
「ないのですか?」
明雄はわざとらしく肩をすくめた。
「全くないよ」
「本当ですか?」
「もちろん。伯父はもう隠居の身だ。外部の人間と関わることはほとんどない」
「なるほど、では質問の方向性を変えます。八年前、つまり二〇〇九年にこの八神家で何かがありましたか?」
それまで渋々ながらも淀みなく質問に答えていた明雄だったが、一瞬表情に躊躇いのようなものが窺えた。梢もその変化を見逃さなかったようだ。
「何かご存知ですか?」
「八年前? この世で最も偉大なエンターテイナーが天へ旅立ったな。彼は私の青春だった」
明雄はとぼけるように肩をすくめた。
「この八神家での話です」
その頃彼はベトナムにいたはずだが、何かを知っているのだろうか。すっとぼけているのか、それとも本当に何も知らないのか。冷静さを取り戻した明雄の表情には、堅牢な意志が窺えた。
「本当に何も知らないよ。八年前だって? 私はその頃ベトナムの支社で汗水たらしてデスクワークをしてたんだ。ま、私が言えるのは、伯父はいい人ではなかったけど、人から嫌われるような人でもなかった、ということだけかな」
「ではあなたはどうですか? 個人的に、八神さんといざこざやトラブルなどは?」
「仕事の上では過去に何度か衝突をしたこともあったさ。が、伯父とは私には同じ血が通っているんだ。私がそんなつまらん理由で殺人を犯すような人間に見えるか?」
「目に見えるのは外見までです。心までは見えません」
「ふん、もういいだろう。とにかく、私は無関係なんだ」
そう言って明雄は立ち上がった。彼は戸口で一度立ち止まると、私の方へ顔を向けて、
「あ、それと君。いい年した女性なんだから、外出前にシャワーくらいは浴びたらどうだ。汗臭いぞ」
「なっ!」
彼が出て行くと、梢は煙草に火を点けた。一本まるまる灰にしながら何かを熟考しているようだ。
私の方はというと、顔が爆発するくらい熱くなっていた。
「ああもう、だからシャワー浴びさせてって言ったのに。もう、お姉ちゃんのせいだからね。馬鹿馬鹿馬鹿」
そんな私の抗議を無視して、梢は独り言のようにつぶやく。
「八神明雄のあの様子からして、八年前に何かが起きたことはたしかなようだね。問題なのは、それがただ単に部外者に知られてはいけない八神家の秘密に過ぎないのか、それともそれが今回の事件に深く関係しているのか……」
姉が取り合ってくれないので、しかたなく私も頭を働かせることにする。
今しがたの明雄の微妙な態度の変化が示唆するのは、やはり八年前に起きたと思われる八神家の秘密だ。そしてそれを明雄は知っている。
さらに、それが今回の事件の動機に繋がるとしたら、その内容は、八神勇心が誰かに恨まれるような行動を取った、ということになるはずだ。
例えば、八神勇心が殺人を犯したと仮定しよう。
それがどのような経緯によってなされたのかは現段階では見当がつかないが、とにかく彼は人を殺した。その復讐として彼は自分が殺めた者の遺族もしくは親しい人物に殺害されてしまった……
これはあり得る話だろうか。
問題はいくつかある。
まず一つは、一乗寺警部が言うように八年前、八神家が関係した事件事故の類は一切なかったということだ。
ヤガミグループの巨大な力でもみ消したのか?
そうだとしたら、使用人の入れ替えは隠蔽工作の一部として行われたものだと解釈ができる。だとすると、犯人は隠蔽工作によって巧妙に隠されたはずの事件の全容をどのようにして知ったのだろうか。
これが二つ目の問題だ。
当時の関係者がリークしたのだろうか。それとも、八年という歳月をかけて独自の調査をしたのだろうか。
謎は深まるばかりだ。
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