第四章 なぜわたしから奪う?
1
近所のスーパーで買い物を終え、家に帰り着いたのは午後四時過ぎだった。
部活には所属していないため、帰宅時間はおおむね四時前後となる。帰ってすぐやることは洗濯物の取り込みだ。しわにならないよう、きっちり畳んでからタンスにしまう。
「さてっと」
次にやることは夕食の支度だ。買い物袋から食材を取り出していると、いとこの光緒が目をぐしぐし擦りながらリビングにやって来た。猫のように背中を丸め、上下灰色のスウェットに身を包んでいた。
まさか今の今まで眠っていたのだろうか。
「ふわぁ、ああ、百合ぃ、今日の晩飯何?」
ねっとりとした声で光緒は言った。
「えっと、シチュー、です」
わたしはなるべく彼の方を見ないで答えた。
「ああ、そう」
光緒は猫背のまま、よたよたとだらしなく歩き、キッチンに入ってきた。
「あ、あの……」
彼はわたしのすぐそばまで来ると、いきなりわたしの胸めがけて顔を突き出してきた。反射的に後ずさる。
「おいおいおいおいおいおい、俺はただ何を買ったのか見たいだけだぜ。自意識過剰だなぁ、百合は」
笑いながらそう言って、光緒は台の上の買い物袋をちらりと見た。しかし、それは一瞬のことで、すぐに彼の視線はわたしの胸元に移った。
それから舐めまわすようにわたしの全身に視線を這わせると、彼はゆっくりと背後に移動し、わたしの肩を抱いた。とてつもない嫌悪感が首筋に走る。
「なあなあ百合、明日一緒に映画でも見に行かねーか? ママには俺から言っとくからよ、なあ行こうぜ」
耳元でそう囁くねっとりした声が、嫌悪感を増幅させる。
わたしが中学二年になってから、光緒は事あるごとにわたしの体に触れるようになってきた。最初は何かを手渡すときに一瞬手が触れるか触れないか程度のものだったのだが、徐々にスキンシップはエスカレートし、体が密着するほどの距離で行われるようになった。また、それだけでは飽き足らないのか、時には脱衣所で着替えを覗かれそうになったこともある。
「ごめんなさい。あんまりそういうのは興味なくって」
光緒はもう片方の手でわたしのお尻を撫でながら、
「退屈だろう、毎日毎日家の手伝いばっかりやらされてよぉ ん? よく頑張ってるよ、そのご褒美だと思えばいいじゃんか。な?」
全身が不快感に包まれる。
「……大丈夫です」
「俺がママに頼めば、もうちょっと自由な時間も取れるかもしれないぜ」
光緒の口の中で、くちゃくちゃと唾液が音を立てる。耳元で奏でられるその不快な音に、わたしは今すぐにでも逃げ出したくなった。
お尻を撫でる手は止まらない。
「な、いいだろう。もう百合も大人なんだからよぉ。判るよな?」
(ロリコンめ)
おそらく、わたしが彼の性的な興味を惹く年齢に差しかかってきたのが理由だろう。最近は卑しい態度を隠そうともしなくなった。わたしが居候という圧倒的に弱い立場であることを狡猾に利用し、性的好奇心を満たしているのだ。
「申しわけありません、夕食の支度で忙しいので」
なるべく光緒を刺激しないようにそう言って、強引に彼の腕から抜け出した。
「ふん」
明らかに不機嫌な様子の光緒だったが、根は小心者なので、それ以上は絡んでこなかった。彼が立ち去ると、わたしは嫌な気分を追い払うように、今日の楓とのひとときを思い出した。
(楓さん)
彼女はわたしを友達と言ってくれた。
しかも、自宅に誘ってもくれた。
影の薄い、根暗な女というポジションのわたしを。
楓にとっては新しい友達の一人かもしれないが、わたしにとってはただ一人の友達だ。
不思議なことは、図書室で出会うまで楓のことは意識したことすらないのに、今彼女のことを想うと、胸の奥が切なくなるのだ。それは痛みのようでもあり、心地よくもある。
この気持ちが何なのかは判らないけれど、たった一つだけはっきりしているのは、今すぐにでも楓に会いたいという願望だった。
要は、彼女に誘われたことが嬉しかったのだ。
(楓さん)
その日の夕食後、結局わたしは正子に許しを請うことにした。無駄だと判ってはいたが、万が一の可能性にかけてみたかった。明日、ほんの数時間だけでいいから、外出許可が欲しい。そう伝えた。
正子はリビングにあるゆったりとしたソファーにもたれかかりながら晩酌をしていた。一通り話を聞き終えると、彼女は下からねめつけるように首を捻って、
「ダメだね」
それは予期していた答えでもあった。しかし、わたしはひたすら頭を下げるほかない。
「お願いします。二時間、いえ、一時間でもいいんです。友達に遊びに誘われてて……絶対に家に迷惑はかけません。家事仕事は完璧にこなします。お願いします、お願いします、叔母様」
「しつこいね。ダメだと言ったらダメだよ。そもそも、明日はあたしだって出かけるんだ。辰夫さんは朝から出張だし、あんたがいなくなったら、誰が光緒さんの面倒を見るんだい」
「えっ?」
「おや、言ってなかったかい? 婦人会の人たちと日帰りで温泉に行くからね」
辰夫が土曜の朝から関西への出張があるということは前々から聞いていた。しかし、正子まで家を空けるというのは初耳だった。その意味に気づいた途端、わたしは背筋が凍りつくような悪寒に支配された。
明日は光緒と二人きり……
(……だからか)
光緒のセクハラはたいてい辰夫や正子の目のないところで行われる。それは彼が小心者だということも理由の一つとして挙げられるが、最も大きな理由は、親の前では猫をかぶっているからだ。
両親がいるからこそ、彼は己の性癖を理性で押さえ続けることができているのだ。先ほど彼がわたしを誘ったのも、明日は親の目がないからに違いない。正子に自分から口利きするなどと恩着せがましく言ったのも、正子の不在を利用した狡猾な方便だったのだ。
「だいたいお前に友達なんているのかい。卑屈で、ぐずで、のろまで、ちんちくりんな、できそこないのお前に。お前は家のことだけをやればいいんだよ」
「……」
正子はぐいっと缶ビールを煽り、下品なげっぷをした。わたしは打ちのめされた想いでその場を後にした。ふらふらと、足は無意識のうちに廊下の電話台の許へ向かっていた。
楓の声が聴きたい。
受話器を耳に当て、楓からもらったメモ帳を見ながら番号を押す。数秒の呼び出し音の後、暖かい声が耳に流れてきた。
「もしもし、百合?」
「……楓さん」
「どうしたの?」
紛れない楓の声だった。
「ごめんね、明日やっぱりダメだった」
「そっかー、残念」
若干声のトーンが落ちた気がした。
「ごめんね、ごめんね」
「百合が謝ることじゃないよ。しょうがない。それより、今日借りた『占星術殺人事件』はもう読んだ?」
「……まだ」
「あれはヤバイよ。日本の推理小説史上最強のトリックだと言っていいね」
「本当?」
「うん、マジヤバイから。土日で読み終わる? 月曜になったら感想教えてよ」
「判った」
いつの間にか、あれほど落ち込んでいた気分は楓と話をしているうちに回復していた。彼女の声を聴いていると、まるで彼女がそばで守ってくれているような安心感に包まれるのだ。
「そういえば、月曜って数学あったっけ――百合?」
背後に人の気配を感じた。
「百合―?」
振り向く。
「あっ」
目の前に正子の姿があった。
じっとわたしを見下ろすその目には、ゴミを見るような冷徹な光が宿っている。先ほどまでわたしを苦しめていた絶望感が再燃する。
「寄こしな」
正子はわたしの手から受話器を奪い取る。そのまま切られてしまうかと思ったが、そうではなかった。受話器からはかすかに楓の声が聞こえてくる。異変を感じ取ったのか、わたしの名を呼び続けている。
「相手は誰だい」
正子はわたしを見下ろしたまま訊いた。その威圧的な声の調子に、わたしは素直に従わざるを得なかった。腋の下を汗が伝う。
「楓さん……先ほどお話しした、学校の……友人です」
小さく舌を打ち、正子は受話器を耳にあてた。彼女が何をするつもりなのか、わたしは直感的に理解した。
「あんた、どちらさん」
「お、叔母様」
「黙りな」
正子は思い切りわたしを突き飛ばし、鼻を鳴らした。
「叔母様、許してください。楓は、わたしの友達なんです」
「おたく、うちの百合とはどういう関係なんですか?」
正子は眼下のわたしには目もくれず、電話台をじっと見つめている。彼女がやろうとしていること、それは……
「ごめんなさい、叔母様、ごめんなさい」
「友達ぃ? うちの百合と?」
「ごめんなさい、もう遊びに行きたいなんて言いません。ちゃんと家事します」
「はっ、冗談でしょう? わたくし? わたくしは百合の叔母、保護者です」
「もうわがまま言いません。ごめんなさい」
「悪いけど、あんまりうちの百合をたぶらかさないでいただけますか。 ええ、おたくと違って、百合は将来の大学受験を見据えて毎日毎日勉強を頑張ってるんですよ」
「ごめんなさい」
わたしの嘆願を無視して、正子は続ける。
「はぁ、迷惑だって判んないのかい? 本当はこんなこと言いたくないけどね、あの子だって、家に帰ってからあんたの愚痴をしょっちゅう言ってるんだよ。変なのに付きまとわれてるってね」
「ごめんなざい」
床に涙の粒が垂れ、視界が不明瞭になる。何かが壊れていく音がした。楓との友情が、無残に壊れていく音が。
「ごめんなざぃ……」
正子の体に飛びつき、受話器を奪おうと試みた。が、体格の差があまりに大きく、わたしは片手で投げ飛ばされてしまった。壁に頭を打ち、鈍い痛みがわたしを襲った。
「嘘じゃありませんよ。代わってくれって言われてもねぇ、あの子はもう部屋に行ってしまったよ。そう、もう二度と百合に付きまとわないでくれますか。ええ、それじゃ」
「叔母様、ごめんなさい」
がちゃり、と受話器を置く音がした。そしてそれは、わたしと楓の関係が完全に断ち切られた証でもあった。
「これでせいせいしたね」
すっきりとした声でそう言うと、正子は廊下の奥へ消えて行った。
「うっうぅ」
わたしは泣いた。廊下にうずくまり、床の冷たさを一身に受けながら泣いた。なぜ皆、わたしから奪っていくのだ。わたしが何をしたというのか。
涙をいくら流しても、胸の内の悲しみが消えることはなかった。むしろ、生きていく気力、活力といったものが、涙と共に外へ流れてしまうようだった。抜け殻のようにしばらくの間そうしていたら、誰かに脇腹を強く蹴られた。
「うぐっ」
痛みに耐えながら静かに顔を上げると冷笑を浮かべた正子がいた。
「洗い物が残ってるよ」
それだけ言って、彼女は二階の自室へ引き揚げて行った。
こうしてわたしはたった一人の友達を失った。
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