第二十一章  石田の失態

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 八月半ば、わたしと林檎は夏江に連れられて、「劇団蝶花」の舞台を見に行った。

 彼らの舞台を見るのはクリスマスから数えてもう四回目だ。二か月に一度くらいの頻度だろうか。今までは市内の文化会館で行われていたが、今回は富士宮市に隣接する富士ふじ市のロゼシアターという場所で行われた。泉の運転する車に乗り、市街地へ降りる。



「うーん、いい空気」



 冷房の効いた車内に一時間近く乗っていたので、すっかり体が硬くなってしまった。降りた後、ぐっと体を伸ばし深呼吸をする。駐車場から歩道橋を渡って目的地のロゼシアターに向かった。


 席に座ってパンフレットをめくっていると、ある発見があった。

 今日の舞台では石田友起がメインの役で出演するようだ。石田は今まで少年Bとか盗賊Dといった、いわゆる端役でしか舞台に上がることができないでいた。ようやく彼にもチャンスが巡ってきたわけだ。名前のある役を頂戴できて、きっと彼は喜びと同時に、とてつもない緊張を味わっていることだろう。


 石田とはクリスマスのあれ以降特に進展はない。

 舞台を見終わった後、楽屋に挨拶に行って話しをするくらいだ。彼はキザったらしいところと、しつこくわたしを口説いてくるところを除けばまあまあの好青年である。

 顔もイケメンだ。

 わたしと同世代の思春期真っ盛りの女の子なら、コロッと落ちてしまうに違いない。だが、不思議とわたしは彼にを一切感じなかった。


 なぜだろう。


 若い男が苦手なのは光緒との件がトラウマになっているせいだが、それを抜きにしてもわたしは石田という男に心を動かされることはないだろう。


「始まるよー」


 林檎が嬌声を上げた。


 客席の照明が落ち、幕が上がる。


 舞台は滞りなく進行した。


 「ロミオとジュリエット」にサスペンス要素を追加した新機軸の物語で、一人一人の台詞が異様に長いのが特徴的だった。場面転換も少なく、台詞の応酬に重きを置いた趣向のようだ。一人で一分以上喋るなどざらであり、よくあんなに長いセリフを覚えられるものだ、と感心する。


 メインの一人を演じている石田も、途中危うい箇所がちらほらあったが、大きなミスはなく、いよいよ物語はクライマックスへ突入した。



『つまり、私が言いたいのは、ロミオを殺した真犯人はジュリエットだったということです。彼女は死んではいなかった。仮死状態になる毒を飲み、自分が死んだものと思わせて、ロミオを自殺に追い込んだのです。こう説明すると、いくつもの謎が解明できる。ああ、あなたたちの言いたいことは判ります。ではなぜそのジュリエットもまた死んでいるのか、そう仰りたいのでしょう?』


 石田が演じる探偵が舞台上を闊歩しながら推理を展開していく。


『その答えは簡単です。彼女が仮死状態から目覚めた時――目覚めた時……』










 石田の動きが止まった。


 まるで時が止まってしまったかのように、彼は動かない。これも演出か、と思ったが、どうやらそうではないようだ。


 十秒ほどの間が空いた。


 石田は額に手を当て、必死に台詞を絞り出そうとしている。他の演者たちの顔がみるみる青ざめていく。謎を解明するという、物語上最も重大な場面で彼はやらかしてしまったのだ。


「どうしたのかなー」


 林檎は石像のように硬直した石田を不思議そうに見つめている。


 客席がざわめきだす。


 スタッフらしき男が脇にスケッチブックを抱えて、最前列の客席の前を中腰で走り、石田の正面でしゃがみ込んだ。おそらくカンペを見せているのだろう。それでなんとか芝居は再開できたが、すっかりしらけ切ったホール内の空気はどうやっても戻すことができない。

 席を立つ者もちらほらいた。冷たい視線を一身に受け、石田は今何を想っているのか。

 夏江の方に目をやると、苛立たしげにため息をつき、足を組み替えていた。座長夫人という立場上、この失態は看過できないらしい。


 終了後、楽屋を訪れても石田の姿はなかった。楽屋内には一仕事終えた後の達成感は微塵も感じられず、どんよりとした重たい沈黙が立ち込めていた。


「申し訳ありません、夏江さん。不出来なものをお見せしてしまい、なんとお詫びしてよろしいやら」


 責任者らしき男が額にびっしりと汗を浮かべながら頭を下げている。


「石田くんは?」


「表に。すいません、すぐ連れ戻して参ります」


「いいわ、別に。それより、今回の失態は間違いなく劇団蝶花の評判を落とすことになるでしょうね。本番で台詞をド忘れするなんて、サラリーマンが宴会で小芝居をやるんじゃないんですよ? お金を頂いて、そのとして素晴らしい芝居を提供する。それが役者という商売だということを再認識なさいな」


「まあまあ、夏江さん。それくらいにしときなよ。石田くんだって真剣に芝居に打ち込んできたんだ。台詞がトぶなんて、役者をしていく上では避けられない事態さ。落とし穴みたいなもんだよ。誰にだってあり得る失敗さ。夏江さんだって、覚えがあるだろう?」


 一人の役者が夏江を宥める。彼はクリスマスイブの公演後、夏江と仲睦まじく話していた主演俳優だった。今回も主演のロミオ役で舞台に上がっていた。彼の説得で、夏江は怒りの矛先を収めた。


 それでも楽屋内にはピリピリとした圧迫感が残り、わたしはいたたまれない気持ちになった。

 林檎も母親の激昂に気分を害したようで、わたしの背中に回って細かく震えていた。


「林檎、ジュースでも飲もう。喉乾いたでしょ」


「うん。ふるふるシェイカーがいい」


 精神的に負担をかけるのはまずいと思い、林檎を連れて楽屋を出た。ロビーの自販機でジュースを買い、長椅子に座る。

 すると、奥の方から渦中の人物――石田がやってきた。


「あっ」


 三日三晩徹夜をしたあとの様な、やつれた顔をしている。目の周りは赤く腫れあがり、目には生気がない。わたしたちに気づかなかったのか、そのまま楽屋の方へ歩いて行くので声をかけた。


「石田さん」


 彼は足を止めてよろよろと振り向いた。


「やあ、百合ちゃん。来てたんだ。恥ずかしいところを見られたね」


 石田は自嘲気味に笑う。


「そう気を落とさないでください」


「はっ、ようやくメインの役を掴んで、役者としての第一歩を踏み出したと思ったらあのざまだよ。笑えてくるだろ? 絶対に完璧にこなして見せる自信があったのに。井の中の蛙ですらなかったんだよ、僕は。せいぜい水たまりの中のミジンコといったところかな」


 こんなに卑屈な石田は見たことがない。

 わたしはかける言葉が見つからず「元気出してください」とだけなんとか言葉にできた。石田は何も答えず、その場を去った。



 それ以来、彼を劇団蝶花の公演で見かけることはなくなった。

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