第三十六章 林檎
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明雄・空夫婦も午後十時から午前一時までの完全なアリバイがないことが判った。
空の方は明雄が帰ってくるまでの十時から十一時の間に犯行に及ぶことができた。明雄の方は帰宅後、空が眠っている間にこっそり部屋を抜け出して勇心を殺害することができただろう。
本人は否定しているが、どうも明雄の方は八年前の因縁に心当たりがあるようだった。それがどのような性質のものなのかは今のところ判断できないが、空が知らされていないところを見るに、やはり安易に口外できない類のものなのだろう。
「残るは一人ですな」
空の事情聴取が終わり、彼女が食堂を出て行くと、一乗寺はぐっと伸びをしながら言った。その直後、彼の許に一人の捜査員がやってき、耳打ちした。
「なんだと!?」
「どうしました?」
梢が視線を投げかける。
「いえね、最後の関係者、つまり勇心の娘なんですが、部屋にいないようなんですよ。屋敷から出ないように言っておいたので、この屋敷のどこかにはいると思うのですが」
「お手洗いに行っただけじゃないでしょうか」
「もしかしたら、木のところかもしれません」
背後から声がした。
振り返ると、使用人の松戸が立っていた。
「木?」
「中庭の奥に広場があって、林檎の木が植えられているんです。お嬢様はそこがお気に入りの様子でして、たいていそこにいらっしゃいます」
「林檎を育てているんですか?」
「ええ、一本だけですが」
「案内していただけますか」
梢が言うと、松戸は相変わらずのポーカーフェイスで頷いた。
南棟の裏口から中庭に出る。
見晴らしのいい、広い庭である。三方を建物が囲っており、奥には林があるばかりだ。その上に視線を向けると、巨大な富士の山が空高く伸び上がっているのが見えた。
「すっごいなぁ」
私が富士山の壮大さに感動している横で、梢は東側にある建物に目を向けながら、
「あれが使用人の寮ですか?」
「はい」
松戸は短く答える。
「それで、林檎の木というのは」
私が訊くと、彼は林の方を手で示して、
「あの林の先に、開けた場所がございます。お嬢様が大切になさっている林檎の木はそこにございます」
中庭を歩き詰めて林に入る。
陽射しが遮られ、一気に涼しくなった。静まり返った木々の間をしばらく歩くと、やがて林は途切れ、視界が開けた。
そこにはたしかに一本の木があった。
緑色に色づいた葉の中に、小ぶりな実が散見できる。木の手前にはベンチがあり、一人の若い女が座っていた。松戸はその横で腰を折り、敬意に満ちた声色で言った。
「失礼いたします、林檎お嬢様」
私は思わず目を見張った。
林檎――そう呼ばれた彼女は、絶世の美女と呼ぶにふさわしいほど美しい女性だった。
艶のある黒髪に鼻筋の通った彫刻芸術の様な顔立ち、白い肌は透き通るように美しく、まるで精巧な人形のようだった。しかし、表情は人間味があって柔らかく、愛くるしい雰囲気が全体を包んでいる。
同じ女として、私は無意識のうちに敗北感を植え付けられていた。それほどまでに八神林檎は美しかった。
「困りますねぇ、林檎さん。勝手な行動をされては」
一条寺はそう言いながらも、顔のにやけを隠しきれていない。本当に男ってやつは美人に弱い。
「ごめんなさいね。ここが一番落ち着くの」
「そうは言ってもまだ捜査中――」
「ところで、あなた方はどちら様ですか?」
小鳥がさえずるような声で林檎は訊く。一乗寺が顔を紅潮させながら私たちを紹介すると、彼女はにっこりと微笑んで、
「武光楓先生、お会いできて光栄ですわ。楓先生の作品は、全て読んでいます」
「え?」
「ファンなんです。
林檎は静かに微笑んだ。
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