第十四章 わたしがずっと守るから
1
自分の部屋に戻ると、林檎がいた。
ソファーに横になり、気持ちよさそうに寝息を立てている。心臓に病を抱えているとは思えないほど安らかな寝顔だった。テレビを見ながら眠ってしまったようだ。アンパンマンのDVDがテーブルの上に広げられていた。
――五年生存率は五〇%
先ほどの城戸との会話が頭をよぎる。
林檎は、この小さな体でわたし以上に過酷な運命を背負って生きてきた。彼女の隣に腰を下ろし、柔らかい髪の上から頭を撫でてやると、一瞬彼女の顔がほころんだような気がした。思わずわたしも顔が緩んでしまう。
「百合お姉ちゃん?」
「起こしちゃったね。お昼寝中だった?」
林檎が目を覚ました。目をこすりながら、わたしの膝の上に移動する。
「アンパンマン見よ」
テレビから流れてくるオープニング曲に合わせて、林檎が歌い出す。
音が外れているけれど、それがまた愛らしい。
この子はなんのために生まれてきたのだろう。
生まれてきた理由、そういうものがあるとして、短い人生しか送れない体を与えておいて、神はこの小さな少女に何を望んでいるのか。
あまりにやり切れない。代わってあげられるものなら代わってあげたい。そんなことを考えてしまう自分が不思議でならなかった。
わたしは自分の幸せだけを追求すると決心したはずではないか。
そうだ、まさにこの展開はわたしが望んだ理想そのものではないか。
勇心たちが林檎の死を受け入れているということは、彼女の死後、おそらくわたしが八神家を継ぐ形になるのだろう。
だから、彼らは今になってわたしを引き取ろうとしたのだ。そうか、ようやく合点がいった。正統後継者である林檎は心臓に爆弾を抱えており、長く生きることはできない体だ。
その代わりとして、わたしは連れてこられたのだ。八神の血を途絶えさせないための器として、わたしは選ばれたのだ。
喜ぶべきだ。
わたしの将来は約束された。
これからわたしはヤガミグループの令嬢として、林檎の代わりに華やかな人生を歩んでいくのだ。
それなのに、どうしてわたしの胸はこんなにずきずき痛み、締め付けられているのだろう。
「林檎」
「なあに?」
「林檎は、今幸せ?」
「うん、幸せー。だって、パパもいるし、ママもいるし、それに」林檎はわたしを見上げて「百合お姉ちゃんがいるもん」
「あぁ」
感情の波がどっと押し寄せてきた。
労働力でも、性的なはけくちでもない。跡継ぎの代替品でもない。
林檎は灰谷百合という「個」としてのわたしを必要としてくれた初めての人間だ。この時、わたしはようやく自分の生まれた意味を理解できたような気がした。
この先、彼女の運命がどのように巡っていくかは判らない。
神に見放され、儚い命として散っていくのかもしれない。しかし、林檎がわたしという存在を必要としてくれるなら、わたしを求めてくれるなら、わたしは最期まで彼女に寄り添い、生きていく。
林檎の幸せを守ること。
それがきっと、わたしの存在理由なのだろう。
*
わたしの生活は変わった。
平たい布団ではなく、暖かいベッドの上で目覚める。
二度寝というものは経験したことがないが、このふかふかのベッドは、二度寝をしたら一日中眠ってしまうのではないか、と本気で心配してしまうほど気持ちがいい。そんなわけだから、当然ベッドから出るにも相当の苦労を要する。
なんとか睡魔の誘惑から抜け出し、起き抜けの重たい頭のままシャワールームへ。熱い湯を全身に浴びると、頭の奥に残っていた眠気がすうっと消えていく。
朝食を食べ終えたら勉強の時間だ。八神家は人里離れた富士山のふもとという立地のため、通っていけるような学校が付近にない。そのため、週に四日、専属の家庭教師がやってきて、わたしの勉強を見てくれる。
勉強は元々嫌いではないし、将来しっかりした大人になるためにはとても重要だ。一日五時間、昼食をはさんで午後一時まで南棟の学習室でがっつり勉強をする。それが終わると自由な時間が取れるようになるが、これがまた完全な自由とは言い難い。
おそらく、これが現在のわたしの生活において最も大きな変化だろう。
「百合お姉ちゃーん。こっちこっちー」
林檎がぶんぶん手を振りながらわたしを呼んでいる。そう、わたしに妹ができたのだ。
八神林檎。
現在七歳の小学一年生だが、ある理由から学校は通えていない。同年代の子と比べると少し小柄で、見ようによっては幼稚園児にも見える。
わたしは林檎にかなり懐かれてしまったらしく、午後の時間のほとんどは彼女をあやすことに費やされる。
館の中でかくれんぼをしたり、お人形遊びをしたり、一緒に子供向けのテレビ番組を観たり、お昼寝に付き合ったり、敷地内を散歩したり……
「見―つけた」
「見つかったー。なんで判ったの?」
「髪の毛が見えてるよ」
木の陰で小さくなっていた林檎は、後頭部からぴょこんと生えたポニーテールを揺らしながら立ち上がった。場所は前庭の林。林立する木々の隙間を、鋭い風が吹き抜けていく。
「そろそろ戻ろうか。寒くなってきたし」
「うん」
膝の上から降りると、南棟に向かって林檎はばたばたと駆け出した。
「あ、ダメだよ」
わたしはすかさず声を飛ばす。
「判ってる」
言って、林檎はしょんぼりしたふうに肩を落とし、立ち止まった。わたしはほっと息を吐く。これが、林檎が学校に通うことのできない理由なのだ。
林檎は心臓に深刻な病気を抱えており、激しい運動を禁止されていた。ただ、負荷のない有酸素運動はむしろ体に良いらしく、毎日二十分ほど、城戸の考案した専用の運動メニューをこなしている。
彼女に架せられた制限は運動だけにとどまらず、食事内容にも適用されているという。塩分の過度な摂取は心臓に負担をかけるようで、和食などの塩分量が多い食事はあまり食べることができないのだ。
週に一度、林檎は母の夏江と共に城戸が経営している市内の循環器内科を訪れ、検診を受けるのだそうだが、林檎はそれが嫌らしい。なんでも人前で裸になるのが恥ずかしいという。
城戸はその世界ではかなり有名な人物のようだ。また彼は勇心の古い友人でもあるようで、時おり八神邸に足を運んでは林檎の様子を見にくる。
南棟の裏口から玄関ホールに戻り、わたしたちは西棟の林檎の部屋に向かった。間取りはわたしの部屋と変わらないが、内装は幼い子供に向けたものとなっている。壁紙には様々な子供向けのアニメキャラクターのイラストが描かれており、特にアンパンマンのキャラが多かった。
林檎はこのアンパンマンが大好きなようで、よくDVD鑑賞に付き合わされる。今日も観るようだ。林檎はテレビの前に立ち、いそいそと準備を始めている。
ピンクのマットの上に座り、林檎を膝の上に乗せる。
普段はうるさいくらい元気な林檎も、テレビに集中している間はおとなしくなってくれるので安心できる。あんまり騒ぐと、心臓に負担がかかるのではないか、とひやひやしてしまうのだ。
「アンパンマン頑張れー」
その日は夜まで林檎とテレビを観て過ごした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます