第三十章  二つの殺意

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 午前十一時過ぎ、私たちを乗せた電車は富士宮駅に到着した。

 駅舎を出ると、出迎えのパトカーが待ち構えていた。その後部座席に乗り込み、事件現場へ。八神邸に着いた時には、もう正午を回っていた。


 錆びれた鉄門の前で降車し、おずおずと敷地内に足を踏み入れる。

 石敷きの道が一直線に延び、その左右を木々が挟んでいた。そのずっと奥に、建物らしきものが見通せる。

 あれが八神邸か。

 入ってすぐ右手に車庫があり、数台のパトカーが収容されている。石の通路の脇には外灯が並んでいた。

 なんだか空気が薄い気がした。それに心なしか肌寒い。ふもとといえど、山に変わりはないのだ。


「お姉ちゃん、そんな恰好で寒くないの?」

「ちょっと寒い。山を舐めてたね」


 八神邸は大きな西洋館だった。煉瓦造りの壁に勾配の急な赤い切妻屋根。玄関扉にはライオンの形をしたノッカーがついていた。

 大企業の会長が住むにふさわしい堂々たる豪邸なのに、どこか廃れたような雰囲気を感じてしまうのは、ここが殺人事件現場だという先入観があるからだろうか。

 玄関には二人の警官が歩哨のように立っていた。彼らに来意を告げると、そのうちの一人が現場となった部屋まで案内してくれた。


 内部も豪奢な装飾が所々に施されており、映画のセットの中にいるような非現実感が常に私について回った。

 犯行現場となったのは、八神邸の西棟二階、八神勇心の寝室だという。後で知ったことだが、この八神邸はL字型の建物で、西棟が縦棒にあたり、南棟が横棒にあたる。


「こちらです」


「ありがとう」


 梢がにこやかに礼を言うと、案内を買って出た若い警官はぽっと頬を染めた。姉は外面だけはいいのだ。


「おお、お待ちしておりましたよ。梢さん。……あっ、楓さんもご一緒で。いやあ、いつもながらお美しい姉妹ですなぁ」


 部屋の中央のソファーに座っていたのは静岡県警捜査一課の警部、一乗寺いちじょうじだ。

 つるっとしたゆで卵のような頭に申し訳程度のちょび髭、自慢のお腹はシャツのボタンが今にも悲鳴を上げてしまいそうなほど主張が激しい。ふくよかな体型に似合わず、フットサルが趣味だというのだから驚きである。


「ご無沙汰してます」


 一乗寺は機敏に立ち上がって、向かいのソファーを示した。私たちは並んで腰を下ろす。


「いやあ、こんな山奥までお呼びしてしまい申し訳ありません」

「堅苦しい挨拶は無用です。それで、事件の概要は?」

「久々の大物ですよ。被害者はヤガミグループの会長八神勇心、72歳」

「大企業の会長ですから、あちこちで恨みを買っていそうですね」

「まあ、商売上の敵は多いでしょうな。しかし、ここは八神家の本邸なわけで、いわばホームスタジアムですから」


 それから一乗寺は被害者である八神勇心について説明を続けた。


「妻はいません。八、九年ほど前に離婚しており、その後は新しく妻を迎えることはなかったそうです。その妻との間に娘が一人。これは今現在もこの屋敷に住んでいます。八神勇心といえば、私の世代では銀幕スターとしても知られています」

「えっ、映画俳優だったんですか?」


 私は素直に驚いた。


「はい。六〇年代前半から七〇年代後半にかけて活躍しました。ただ、あまりヒット作には恵まれませんでした。影の名優というやつですな。会社を継ぐために俳優業を引退しますが、その後自分が座長となって劇団を立ち上げたそうです。――話を戻しましょう。数年前に社長の地位を実弟に譲り、会長に就任しています。これは持病の糖尿が悪化したための隠居と言われています。名ばかりの会長職ですな。またその弟の息子、つまり甥とその妻もこの屋敷に住んでおります」


 そして一乗寺は背後の扉を振り返った。


「あの扉の向こうが犯行現場です。ここが書斎、で、向こうが寝室となっておるわけですな。後でご覧になってもらいます。さて、その前にこちらを」


 一乗寺は懐から写真の束を取り出し、テーブルの上に置いた。梢は無言のままそれを取り上げ、一枚ずつ確認していく。

 現場写真と遺体の写真だった。

 先ほどヤガミグループのサイトで確認したものよりも老けこんでおり、時間の流れを感じさせる。


「死因は側頭部を鈍器で殴打されたことによる脳挫傷。かなり強い力で複数回殴っており、相当深い恨みがあったと推察できます。また現場には凶器と思われる金槌が残されていました」


 傷口は左のこめかみの少し上辺りだ。すっかり薄くなった白髪を血液が赤黒く染めている。

 傷が左側頭部にあるということは、犯人は右利きである可能性が高い。

 全ての写真を検めると、梢はそれを一乗寺に返し、深く座り直した。私は事件記録を書き残すため、メモ帳とボールペンを取り出した。


「凶器の出どころは?」

「まだ判明していませんが、かなり古いものですので、おそらくこの屋敷のどこかにあったものだと思われます。それと、指紋は出ませんでした。手袋をつけていたか、犯行後に拭き取ったのでしょう」

「死亡推定時刻は?」

「昨晩の午後十時から午前一時までの三時間ほどです」

「時間的にもこの屋敷の立地的にも、流しの犯行ではありませんね。明らかにこの八神の家の内部に犯人がいる」


 梢はそう言い切った。


「我々もそう見ています」

「……」


「たしかに、わざわざ梢さんに出動していただくほど難しい問題に直面しているわけではありません。事件そのものはいたって単純です。この八神家の誰かが、当主である八神勇心を金槌で殴り殺した。それだけです。しかし、どうにも奇妙というか、不可解というか、ひっかかる要素があるのですよ」


「なんですか?」


 一乗寺は禿頭を撫でながら意味深なことを言う。


「一人の人間が、一夜のうちにで殺害される、というおかしな話が果たして現実にはあり得るでしょうか? いやまあ、実際にはされかけた、という話なんですが」


「ど、どういうことですか?」


 思わず私は口を挟んでしまった。梢が横目で「静かにしろ」と訴える。


「つまりね、八神勇心は誰かに毒殺されかけた痕跡があるのですよ。いや、断定はできませんが」


「詳しくお願いします」


 梢は目を光らせる。


 つまりこういうことだった。


 八神勇心の死因は一乗寺が述べた通り、金槌で左側頭部を何度も殴られたことによる脳挫傷。

 これに法医学的見地から見ても間違いはないそうだ。しかし、現場にはもうが残されていた。

 寝室のテーブルにはティーセットがあり、二人分の紅茶が準備されていた。そのうちの一つから高濃度のニコチンが検出されたのだ。

 水に溶けたニコチンは吸収が早く、量によっては嚥下すれば急性中毒で死に至る。今回検出された量は、成人の致死量をはるかに上回るものだったという。また毒入り紅茶からはニコチンだけでなく、タールやヒ素なども検出された。これらは煙草に含まれる有害物質だ。


「煙草の煮汁を紅茶に混ぜたものと思われます。これが一人の犯人が二段構えの策として仕掛けたものなのか、それとも実際の殺害犯とはまたによるものなのか、判然としません」


「なるほど、被害者が血も涙もない悪鬼羅刹だったなら、複数の人間に殺意を抱かれることは考えられるでしょう。しかし、同じ夜、同じ場所で別々の人間がその殺意を解放するとなると……」


「ちょっと考えにくいでしょう?」


「共犯なんじゃない?」と私。


「だったらなんで殺し方を分ける必要がある?」


「ニコチンによる毒殺が失敗した時の保険として、もう一人が直接殴り殺すのよ」


「それだと撲殺の実行犯のリスクが大きすぎるし、その二段構えの殺人は一人でも可能だ。紅茶をこの部屋に運んだのは誰ですか?」


「男女の使用人です。昨晩の午後十時きっかりにこの書斎を通って寝室へティーセットを運び込んだそうです。そして、その時彼らが見たのが、生きている被害者の最後の姿だったそうです」


「運んだのは二人ですか?」


 梢はポケットから煙草と携帯灰皿を取り出し、火を点けた。


「女の方が新人のため、教育係のベテランが同行したとのことです」

「となると、お互いの目を盗んで毒を盛る、というのは難しいでしょうね」


「ええ。二人とも相手がそのようなそぶりを見せることはなかった、と証言しています。それに別の人間が道中やってきて、毒を仕込むようなこともなかった、と口を揃えて同じことを言っています」


 それを聞いて、私は声を上げた。


「だったらもう決まりじゃないですか。毒を仕込んだのは殺害犯です。毒で殺せれば御の字。それが失敗したから、もしものために持ってきた金槌で殴り殺した」


 これ以上ないほど簡単な論理だ。被害者の部屋に運ばれるまで、誰も紅茶に毒を盛ることはできなかった。それができたのは、殺害犯だけである。


「二人分が用意されたということは、被害者は誰かと一緒にいたということですか」


「いえ、使用人の証言では、紅茶を運び入れた時は八神勇心一人だけだったそうです。おそらくその後で、八神は誰かを部屋に招いたのでしょう。そしてその人物に殺された。この屋敷にいる者で、被害者の部屋に昨晩招かれた、という証言をした人物はおりませんでした。よって、八神が紅茶でもてなそうとしたなにがしこそが、犯人なのです」


 一乗寺は自信たっぷりに言い切った。

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