第四十一章 日記の謎
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「罪悪感、ですか」
「たぶん、兄の自殺もそれが原因なんだと思います。仕事やプライベートでは何の問題もなかったんですから。八神家で何かがあって、それが兄を苦しめていた」
生前の石田は、精神が不安定な状態だったという話を思い出した。
梢はことさら口調を柔らかくし、母性に溢れた声色で言った。
「ここから先のお話は、辛いことを思い出させてしまうかもしれません」
「大丈夫です」
光子は今にも涙をこぼしてしまいそうだった。小さな肩を震わせながら、彼女は続ける。
「兄が誰かに殺されたわけではないことはもうはっきりしてます。兄は自分の意志で死を選んだんです」
「どのような状況でしたか?」
「首を吊っていたそうです、窓枠にロープを結んで。発見したのは当時のマネージャーだった人で、遺書はありませんでした。でも――」
「日記が発見されたそうですね」
「はい。筆跡も間違いなく兄のもので、かなり精神的に追い詰められていたようでした」
「それを見せていただくことはできますか?」
「……持ってきます」
光子はのれんの奥に消え、二階へ上がっていった。五分ほどして、一冊の古いキャンパスノートを片手に彼女は戻ってきた。
「ありがとうございます」
梢はゆっくりとノートを開いた。私はその横から覗き込む。
何のことはない。普通の日記帳だった。二〇〇七年の十二月から始まり、二、三日に一度のペースで印象的だったことやその日の出来事などが書き留められている。その内容はほとんどが役者業に関することだった。梢はぱらぱらとページをめくり、一気に二〇〇八年の夏まで飛んだ。
二〇〇八年八月十九日。
もう終わりだ。自分という存在がこの世に存在することが恥ずかしくてたまらない。しょせん自分の力はこの程度のものだったのだ。
「これがおそらくポカをやった日のものだね」
私は光子に断りを入れてから、自前のメモ帳に内容を書き写した。ここで石田は一度日記を放り出したようで、次の日付は二〇一七年の三月まで飛んでいた。
二〇一七年三月一日。
最近声が聞こえるようになった。あっちの世界から俺を呼んでいる声が。
二〇一七年三月四日。
俺に責任がないとは言わない。しかし、もう勘弁してくれたっていいだろう。
二〇一七年三月十五日。
俺じゃない。俺じゃない。俺じゃない。俺じゃない。俺じゃない。俺じゃない。俺じゃない。俺じゃない。俺じゃない。俺じゃない。俺じゃない――
見開いたページ一面を「俺じゃない」という殴り書きが埋めていた。
ひどく乱雑な字である。ページをめくると、驚くべきことにまだこの殴り書きは続いていて、計6ページにも及んでいた。そしてその次のページに記されていたのはたった一行だけの懺悔だった。
日付不明。
許してくれ、百合。
それ以降はもう何も書かれていなかった。この日付不明のものが、石田が最後に書き遺した言葉なのだ。ノートを閉じてテーブルの上に置くと、梢は奇妙なものを見るような目つきになった。
「百合、というのは石田さんの彼女さんですか?」
「いえ、兄と当時交際していた人はいなかったはずです」
「では知り合いに百合という名前の方はいらっしゃいましたか?」
「いいえ。私もそのノートを見て初めて知りました。劇団蝶花にも、兄の友人にも百合という名前の女の人はいませんし、兄がその名前を話題に出すことも今までありませんでした。私もその日記を見て、初めて知ったんです」
「ふむ、謎の女性ですね。女性と決めつけるのは早計ですが……」
「百合なんて名前の男の人なんていないでしょ」
私は横から口を挟む。
「まあ、そうだけどさ。本宮さん、八神家の人間に百合という女性に心当たりがないかあたってみるよう頼んでもらえますか」
「はい、判りました」
本宮は携帯電話を取り出し、席を立った。梢は眉をひそめてノートに目を落としている。
「……」
その横で、私は懐かしい記憶を思い出していた。
百合という名の友人が、昔私にもいた。
いた、という過去形になってしまっているのは、彼女が今どこにいるか判らないからだ。
灰谷百合。
彼女こそが、中学時代にできた最初の推理小説友達だった。
背が低く、おとなしい雰囲気の子で、友達はほとんどいないようだった。彼女はいつもクラスで浮いていたのだ。
誰も彼女に話しかけないし、彼女の方も誰かと関わろうとはしなかった。いつも教室の隅で本ばかり読んでいたのだ。
そんな彼女と友達になったのは偶然だったし、唐突だった。そして別れもまた唐突に訪れた。
彼女は転校してしまったのだ。
百合が向かったのは静岡だという。詳しい事情は知らされなかったが、静岡へ移ったのは百合だけだったそうだ。残った灰谷家は、その後まもなく、一家全員が不慮の事故で他界してしまった。
噂では百合は灰谷家で虐待を受けていたそうだ。だから転校もその辺りの事情が関係しているのだろう。虐待のことを知った時、私は友達として彼女のSOSに気づけなかったことを心から悔やんだ。
百合は今どこで何をしているのだろう。まさかこの日記に記された百合と同一人物であるということはないだろうが。
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